第11話――きれいな司書さんだったな――
トラが目を覚ますと、そこは見慣れた病室のベッドの上だった。
ヤカンから飛び散る蒸気がトラの鼻を湿らせる。ゆっくりと頭をもち上げると、ベッドの脇のパイプ椅子に父が座っていることに気がついた。父は指を組みながら、落ち着いた目線をトラへと向ける。
「ドーブラエ、ウートラ」
父のロシア語が、耳に心地よい。
「……父さん」
「うん」
父は立ち上がり、カーテンを横に引く。白む夜空。部屋の電灯の明かりを受けて巨大な鏡と化した窓に、トラと父の姿が映し出されていた。
「父さんは、ずっとそこにいたの?」
トラが訊くと、父はニカッと笑った。
「まあな」
「僕、中庭で発作が起こって……」
「倒れたらしいな。でも、母さんの国には行かなかったようだから、安心したよ」
トラは父に迷惑をかけたことを、心から申し訳なく思う。病院の設備や機械を壊した時は被害者面をしているだけだったけど、それでも、父も由紀も院長先生も……もしかしたら、病院の他の人たちも今と同じようにトラのことを心配してくれたのかもしれない。この先、トラが不自由な一生を送るのは確定事項なのだろう。ただ、ゆくゆくは誰にも迷惑をかけることなく終わりの時に向かって進む決意が必要となる。トラの脳裏に、オリーブのすました笑顔がはっきりと浮かんだ。
「あ、そうだ」
「どうした?」
「昨日、移動図書館の人が病院に運ばれてこなかった?」
オリーブは結局、どうしたんだろう。トラが病室で眠っていたということは、オリーブも緊急入院したという可能性が高い。
すると父はパイプ椅子を折り畳んで部屋の壁に立てかけ、テレビの下から一通の封筒と本を取り出した。あの本は、移動図書館のガラスケースの中にあった古い本だ。
「昨日トラを連れてきてくれたのは、その司書さんだよ。それから、この手紙と本をトラに渡してほしいと言ってたぞ」
そうだったのか。オリーブはあの後、元気になったんだ。
「ん、そろそろ時間か。トラが起きてくれてちょうどよかったよ」
父が見上げる先、壁時計の針は五時半を示している。
「今日は醤油工場を取材して記事を書くんだ。朝一でアポをとってるから、もう行くぞ」
父は焦げ茶色のジャケットを手早く羽織り、バーバリーチェックのマフラーを首に巻きつける。髭を剃る暇はなかったようで、無精髭はいつもに増して黒く濃かった。
「いってらっしゃい」
「うん。あー、そうそう」
父は人差し指を立てて、トラの鼻頭に近づける。
「なかなか、きれいな司書さんだったな」
ニヤニヤとした笑顔が、扉の向こうへと消えた。
部屋にしばしの静寂が訪れる。毎朝の検診まではまだ三十分ほどあるし、今のうちに手紙の中身を確認しよう。トラは封筒の端を丁寧に破く。
中には三つ折にされた手紙と、例の車の絵が描かれた鉛筆が仕舞われていた。
『トラくんへ
昨日はどうもありがとう。
おかげさまで私は、自分自身の物語を取り戻せたみたいだ。
きみを病棟に運ばなければならないため、この手紙には最小限のことだけを記すよ。
まず、この鉛筆はもう私には必要ない。いつの日か紹介した、願いが叶う本と合わせてきみに差し上げよう。この本を読めば、きみの生活に変化が現れると思う。
ただし申し訳ないが、本の効果については私自身にも定かではないのだ。
この本はいまだ開かれたことがない。むしろ、誰も開くことができなかったという方が正しい。持ち主の私ですら、ページを繰ることができなかったんだ。
だからトラくんには、この本と私の存在に関する謎を解いてほしい。不思議に聞こえるかもしれないが、私は長らく、この本をきみに手渡す宿命を感じていたような気がする。
なんだか、よくわからない書き方ですまないね。
続きは次に会った時に話すよ。なあに、私たちはすぐにまた会えるさ。
それまでに、きみの身体が元気になっていますように。
きみの親愛なる友人、オリーブより』
ここ十数時間の間に起きた出来事に、ひどく頭が混乱している。
なぜかオリーブが倒れていて、そのオリーブの腹部には渦巻きがあって、トラが鉛筆で空中に文字を書いたことによって渦巻きは消えた。オリーブはそのお礼に鉛筆と本をトラにくれるという。しかもその本がまた、願いを叶える本ときた。
でも、あの光景は夢じゃない。いくら発作の最中であったとしても、夢と現実の違いくらいは区別がつく。現にこの手紙には、トラが経験したことがそのまま書かれている。
そうだ、本の中身はどうなっているんだ?
オリーブがくれた本は古く、天地も小口も日に焼けてしまっている。がっしりとした外殻に手縫いのカバー。値段が書かれていないことからも、誰かの手づくりのようだ。
トラは、ゆっくりと一ページをめくった。
『あるところに鹿の子供がいました。
鹿の子供のお母さんが高い熱を出したので、鹿の子は神様にお願いをしたのです。
僕の脚と引き換えに、お母さんを助けて下さいと。
お母さんの熱はたちまち下がり、その代わりに鹿の子は一本の脚を失いました』
本に書かれていたのは、たったの数行の文章だけだった。
それも不気味な文章だ。神は鹿の子の願いを叶える代償として脚一本を求めたというのか。ならば、鹿の子は救われたのかどうなのか。中途半端なところで終わっている。
トラの頭の中に靄がかかった。マクラの横に本を置き、くてんと仰向けに転がる。天井の波打つクロスはまるで、パズルゲームの最終面みたいだ。
そう思うと、不意に寂しさが込み上げてきた。オリーブは今のところ、トラの唯一の希望といっても過言ではない。彼女に再会しないことには、なにもかもが始まらない。
オリーブ――。
また会えるという約束を、必ず叶えてくれよ。




