第9話――私の服を……脱がして、ほしいんだ――
初めてオリーブに会った日から五週間が経過した。山咲はまだまだ寒いながらも、薫風の欠片がトラの頬を撫でていく。今日もトラは、中庭でオリーブを待っていた。
毎週木曜日の午前は、オリーブの移動図書館が病院を訪れる時間帯だ。トラは鳥や昆虫など生き物の本を借りることが多かった。その本には大鷹の生態も載っていた。時速130キロメートルで急降下することができるらしい。いつも遠くで眺めているだけだった生き物に、ちょっぴりではあるが親近感を覚えたりもした。
だが今日はオリーブの姿が見えない。小学生たちは自分の病室に戻ってしまったが、トラだけが昼を過ぎても、太陽が西に輝き出しても、中庭でずっとオリーブを待っていた。
オリーブは今日、山咲病院に来ると言っていた。彼女は約束を破るような人じゃない。何時に来るとまでは確約していなかったので、遅れてでも病院に到着するだろう。
夕焼けが遠くの連峰の頭を抜けて、黒く眩しい光を放つ。中庭一面が黄昏の色に染まった。トラは手をこすり合わせながら雲の流れを眺めるが、一向にオリーブの現れる気配がない。身が切れそうだ。あまりの寒さに、トラはゆっくりとベンチから立ち上がった。
山咲病院の垣根代わりに植えられている白樫の樹に沿って歩く。ぎざついた葉が、三月の風の中に揺れている。配膳室の裏からは、濃い醤油の香りがした。もうすぐ夕食が近いとあってか人の気配は感じられない。トラは中庭を突っきり、一般の診察棟も回り、さらにその先にある給水塔の入口まで来た。ここは山咲病院の敷地の端っこだ。
そして、あれ、と気がついた。いつもよりも少しだけ給水塔の影が太い。トラはこの些細な変化を見逃さず、しゃがみ込んで寒椿の枝の下から給水塔に目をやった。
すると、給水車の駐車スペースに大きな鉄の塊が鎮座している。おかしい。給水車なら午後一時から三時までの間に来院するはず。こんな遅い時間に作業を行うことはない。
トラは目を見張った。
太い影の入口は、給水車ではない。あのセルリアンブルーの二重線は……オリーブの、移動図書館だ。トラは淀みない動作で寒椿をくぐり抜けた。
「オリーブ?」
しかし、オリーブからの返事はない。移動図書館の運転席は無人だ。トラの心の中に、不安の川がとろりと流れこんできた。
「オリーブ、いないの?」
よく見れば、移動図書館の停車の仕方はえらく乱雑だ。異常事態が起こっていることを示している。もしかして今日の午前中にオリーブが来てくれなかったのは、なんらかの事件があったために、ここに急停車したからなのか……、
「あっ!!」
トラは、いつもは出さない大声を爆発させた。白樫の根元に白い靴が転がっている。息を強く呑みこんで、胸を押さえながら駆ける先、移動図書館のタイヤの隣にオリーブが細い身体を横たわらせていた。
「……オリーブ!! どうしたの!?」
オリーブはごろんと転がった体勢で、顔をトラの方に向ける。目はうつろだ。
「トラ……くん。走っては、いけないよ……」
よかった。オリーブは、生きてはいる。でも、なぜ、こんな。
「僕、先生を呼んでくる」
黄昏はいよいよ濃紺に染まり、辺りは闇を連れてくる気配に満ちている。
「先生は……呼ばなくても、いい」
オリーブは信じられないことを言った。
「先生を呼んでこなくていい!? なんで!? そんなの……く、ぐ……」
「トラ、くん?」
トラは鋭く咳きこんだ。胸の下が熱く焼けつく。
発作だ。しまった、こんな大声を出せば発作が起きるのも当たり前。なぜもっと冷静に対応できなかったのか。水分が口内から蒸発していく音すら、鼓膜をしたたかに打つ。
「ぐえっ……」
トラの口から数滴の胃液が垂れて、アスファルトに円を描いた。肺の異常に、他の内臓が耐えられなくなってきている。
「トラ……くん。転がるんだ。私の横に。ほら……」
オリーブに手を引かれ、トラは軽々と地面に寝転がった。ざらついたアスファルトが手の甲を刺激する。呼吸を求める度に伸縮を繰り返す胸が、影の小さな振幅を織りなした。
「このまま……では、まずいね。私も、どうやら、病院まで戻るのは……難しそうだ」
「く、う……」
「きみ、まさか、とは思うけど……私の鉛筆をもって、ないかな」
「えん、ぴつ?」
「ああ。車の絵が描かれている」
ある。今もコーデュロイのズボンのポケットに入れている。トラは痺れる手を必死になって動かし、鉛筆の行方を探った。親指と人差し指で鉛筆をつまみ上げる。
「これ?」
その時、ちょうどトラの頭の横で微笑を浮かべたオリーブの表情を、トラは生涯忘れない。夜に白く光ったオリーブの顔は、同じ人間とは思えないくらいに澄んでいたんだ。
世界は鉄紺の空に消えていこうとしている。夜という時間帯は、どうして閑寂に支配されているのだろうと不思議に思う。遠く遠く、全天には星が散りばめられていた。北極星のそばでは、きりん座が空中遊泳の供をしている。
「きみに、変なことを、頼みたいんだけど」
「あ、ああ……」
身体のどこにも力の作用点が見つからない。わずかに耳が利くだけだ。
「私の服を……脱がして、ほしいんだ」
「えっ」
なぜ? 話の流れが見えてこない。女の子の服を脱がすということ自体がいやらしい行為であるし、そもそもトラはもう身体を自由に動かすことができない。なのに、どうしてオリーブはそんな無理難題をトラにもちかけてくるのだろうか。
「そんなの、できないよ」
トラが断ると、オリーブは哀しく笑った。
「でもね、もう、それしか……ないんだ」
「やだ、って」
「このままだと、私は、本当に動けなく……なる。だから、トラくん……頼むよ」
ぼやける視界の中、オリーブと目が合った。その瞳の色は、たしかに最後の光を放っているようにも見えた。
トラはためらった。だけどオリーブの言葉には本気の色が乗っていた。そもそもこの司書は嘘をつくような人ではない。トラの知りえない『なにか』が、この先にあるんだ。
「わかった」
トラの身体に、少しだけ生きる力が戻った。
『怖いけど、頑張ろう』
母の声がどこかから聞こえてきた。もしかしてこの力は、あの日、母と指を絡めた際に貯金しておいた力なのかもしれない。トラは息を止めて身を起こした。どうせ満足に機能してくれない呼吸なら、最初から止めてしまった方が楽だと感じたんだ。
「ごめん」
トラはオリーブに謝って、オリーブのブラウスのボタンを外した。平板ながらも、女の子の膨らみがある。薄手の下着を掴み、グイと捲り上げた。強く、目をつぶりながら。
「……くん、トラくん」
オリーブがトラを呼ぶ。どうやら、言葉の先で、トラに自分の身体を見ろと促しているらしい。トラは唇を強く噛み、瞼をゆっくりと開けた。
「……なに、これ」
トラはオリーブの腹部を凝視した。そこには素肌もへそも存在しない。ただ、深い渦がぐるぐると弧を描いている。そしてその渦には奥行きがあり、まるでブラックホールのように万物を呑みこんでしまいそうな空間があった。
「私が生まれた、時……いや、記憶を初めて抱いた時から、こうなのさ」
トラは反射的におしりだけで後ずさる。オリーブの目元に、小さな皺が寄った。
「私のこと、嫌いになったかい?」
そんなことはない。オリーブの身体にはぽっかりと穴が開いているけど、それと好き嫌いは関係ない。オリーブは、トラの大切な友達だ。トラは強く首を振った。
「ありがとう、トラくん」
「いや。それより、僕は、なにをしたらいい?」
「この、渦にね、その鉛筆で文字を書いて……くれないか」
「ここに? 書けるの?」
「わからない。普通の人間には、書けない」
トラは異世界の住人ではない。東京で育ち、山咲で事故に遭い、肺に穴を開けてしまったけれど、いたって普通の人間だ。ただ、運が悪かっただけの人間。
それでも、やってみないことにはわからない。トラが文字を書いた結果、なにが起こるかはわからないが、このままではオリーブの命が失われてしまう。それは、嫌だ。
「なんて、書けばいい?」
トラが覚悟を決めたように言うと、オリーブの目が柔らかく細まった。
「『オリーブが元気になる』と書いてくれるかな」
トラは全身の力を腕に集中させた。すると突然、鉛筆が輝き出したのだ。光の粒子が空中で踊る。オリーブの唇が、半分だけ開いた。
『オリーブはずっと、元気である』
トラは、オリーブのリクエストに応えなかった。トラ自身の意志で文言をつけ加えたのだ。もう二度とオリーブが倒れてしまわないようにと、トラは想いを乗せて書いた。
それは、トラのオリーブに対する感謝と、友達であることのなによりもの証しだった。




