プロローグ――病室の窓から――
「ねえトラくん、ケーキ食べない?」
清潔なナース服を着た由紀が、弾んだ声でトラに言った。
由紀は白くてつやつやした頬をにんまりと歪めている。手には小さな箱。どうやらこの箱の中には、由紀が病室にもってきたケーキが入っているらしい。
「ほら、見て見て」
由紀が箱を開けると、ショートケーキが顔をのぞかせた。やっぱり予想どおりだ。トラはかさついた洗いざらしの布団を手でのけ、めんどくさそうに身体を起こす。
「いえ、いりません」
「またー、そんなこと言って。招福堂のケーキだよ。今日中に食べないといけないんだって。わたしダイエット中だから、手伝ってくれたら嬉しいなぁ」
「だったら、一つだけ買えばよかったじゃないですか」
「それがね、見てたら二つ欲しくなっちゃったの! ね? 食べよ食べよ?」
「話を聞いてました? 今、僕はいらないって言ったばかりじゃ……ぐ、ごほっ……」
――きた。
肺から空気が漏れ出て内臓を強く押す。腹は膨れ上がり、トラはその猛烈な痛みに眉間を歪ませる。それなのに呼吸が止まってしまっているわけだから頭の中が爆発しそうだ。早く酸素を。早く、早く早く。世界の一面が暗闇に変わる。
「トラくん、大丈夫?」
由紀の声で暗闇が薄れ、いつもの場景が戻ってきた。
冬の底冷えに染まった、スチール製のベッド。
父が買ってきた、パナソニックのテレビ。
籐で編んだ小箪笥には下着の類が詰めこまれていて、湿度を高めるためにストーブの上には沸騰したヤカンが常備されている。
これが、トラの病室の全てだ。
「大丈夫です。それより、由紀さんのケーキを一つ、減らしてあげればいいんですか?」
「あ……でも、発作が出かかってたし、別に……」
「協力しますよ」
トラは箱の中からケーキを一つ取り出し、じっと見つめた。
窓の外では、一羽の大鷹が蒼穹を滑空している。かっこいいな。もしも正義という二文字に姿をもたせるとすれば、あいつみたいになるのかもしれない。空を我が物顔で飛び回り、勇猛の象徴として人々に畏敬の念を受けている、あいつみたいに。
でもね――、
「あっ……」
由紀が喉から声をこぼすのと、トラがケーキをごみ箱に投げ捨てるのは、同時だった。
「ほら、一つ減りましたよ?」
そう言うトラの瞳孔は、わずかな伸縮も起こさなかった。表情を1ミリも変えずにトラが身体を倒すと、由紀は黙ったまま病室を出ていった。トラを責めるような言葉を、なに一つ残すことなく。
トラは大鷹に対して、思う。
お前もいつかは死ぬんだ。
この世の粋をその優雅な身体に宿しても、やがては朽ち、土に還っていくんだ、と。
ヤカンの口からは、定期的に蒸気が噴き出している。
今日はこの部屋から、いっさい出ないようにしよう。




