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光なき瞼が照らす、闇の光

「忘却の庭園」を一人で管理する記憶の魔女は、その日も静かに目を覚ました。永遠に続く黄昏のような空間で、彼女の髪に埋め込まれた記憶の欠片は、七色に輝いていた。その輝きは、この庭園に流れ込んできた、無数の感情の物語を映し出し、まるで生命の鼓動のように脈打っていた。


庭園の空気は、常に冷たさと微かな甘い香りが混じり合い、時間の流れを忘れさせる。魔女は、いつものように一人で庭園を歩き、落ち葉を拾い、草木に水をやる。魔女は、そばで丸くなっている黒猫のクロノの頭をそっと撫でた。クロノは、庭園の静寂の中で唯一、生きている熱を帯びた存在であり、魔女にとってはほとんど感情を持たない自分自身を映す鏡のようだった。庭園の地面は、記憶の光を吸収し、朝露のようにキラキラと輝いていた。その光景を眺めることが、彼女にとっての一日の始まりであった。


庭園は、無数の物語を静かに受け入れてきた。魔女はその光景を静かに見つめ、人々の心に残した愛や悲しみの痕跡を、皮膚で感じ取る。今日の庭園は、いつもよりも深く、重い静寂に包まれていた。それは、遥か古の時代から存在する、途方もない孤独を内包した存在が近づいている予感だった。


その日、庭園の入り口に続く石畳に、一人の訪問者が立っていた。夜の帳をそのまま切り取ったかのような、漆黒のローブを纏い、その姿は完璧なまでに整った美しさを纏っていた。肌は、ただ白いというだけでなく、数千年もの間、太陽の光を拒絶し続けた結果としての、大理石のような透明な冷たさを放っていた。長く生きた者の持つ冷酷なほどの威厳は、周囲の光すらも吸い込むかのように重苦しく、庭園の穏やかな空気を一瞬にして凍らせた。


彼の名は、ヴァルカン。


すべてのヴァンパイアの祖、始祖王と呼ばれる存在だった。永劫の時を生き、闇の領域を支配する絶対的な王でありながら、最も重要なものを欠いていた。彼の瞳には、数世紀にもわたる氷のような孤独と、底知れない諦念が宿っていた。その瞳は、深淵を覗き込むように暗く、いかなる光も反射しなかった。


ヴァルカンは、この数世紀の間、王座を守り、力を増し続けたが、最近になって、彼の血族の中に、彼が人間的な弱さを抱えているのではないかと疑う者が出始めていた。彼は、絶対的な支配力を維持し、血族の動揺を鎮めるためには、人間という存在の核にある「感情」を完全に理解する必要があると考えた。そして、その理解の鍵は、彼自身がヴァンパイアとなる代償として捨てた、最も人間的だった頃の感情、愛の記憶にあると直感したのだ。


ヴァルカンは、魔女に向かって深々と頭を下げた。その動作には、王としての威厳とともに、切実な願いが込められていた。彼の目的は、ただ一つ。「失われた愛の記憶」を取り戻すこと。彼の永い生において、ただ一人、心から愛した盲目の女性の記憶を。


魔女は、言葉を発することなく、ヴァルカンの前に立ち、その胸に手をかざす。すると、彼の冷たい心臓の奥底から、一筋の光が湧き上がり、魔女の掌に吸い込まれていった。それは、彼の永劫の命とは対照的な、儚い人間の感情の欠片。その光は、彼の心臓を包む氷の殻をわずかに溶かしたかのように、熱を持っていた。その熱こそが、彼が最も長い間、抑圧し続けてきた感情の残り香だった。


魔女は、その光の欠片を握りしめ、目を閉じた。ヴァルカンの数千年にも及ぶ孤独な時が、津波のように彼女の意識に流れ込む。冷たい玉座に座り、絶え間ない血の渇きと、永遠に続く退屈に耐え続ける彼の姿。そして、その孤独の中心に、ひときわ強く輝いていたのが、一人の盲目の女性の記憶だった。


「…あなたの記憶を読み取りました。」


魔女は静かに告げた。彼女の瞳は、彼の過去のすべてを見通した。ヴァルカンの記憶の中には、彼がヴァンパイアになる前の、人間だった頃のすべてが含まれていた。中でもひときわ強く輝いていたのは、一人の盲目の女性の記憶。彼女の名は、イリア。


「あなたが探しているのは、イリアという女性の記憶ですね。あなたが、この永遠の命を得る前、唯一心から愛した盲目の女性。彼女は、あなたの持つ闇や、あなた自身の恐れではなく、あなたの内にある優しさだけを見ていた。彼女は、あなたがヴァンパイアとなった夜、その身を捧げようとした唯一の光。そして、その記憶は、あなたが始祖となった夜、あなた自身がこの庭園に預けたものです。」


魔女の言葉に、ヴァルカンは小さく頷いた。彼の瞳には、かすかな希望の光が灯った。それは、長い夜の中で初めて灯った、遠い記憶の光だった。彼はイリアの記憶を消して以来、この庭園への訪問を決意するまで、彼女の名前を口にすることすら、恐れていたのだ。


魔女は、ヴァルカンの心に深く語りかける。


「あなたは、彼女を愛したが故に、彼女の温かさ、優しさ、そして彼女との未来の記憶を、永遠の孤独の中で忘れるために、手放した。あなたの永き孤独を、少しでも和らげるために、最も温かい記憶を、最も冷たい場所に封印したのです。それは、あなたが王として君臨するための、唯一の弱点を切り捨てる行為でもありました。愛という人間的な感情は、ヴァンパイアの王にとって毒であり、弱点であると、あなたは信じ込んだ。」


ヴァルカンは、自らの手で愛の記憶を捨てた事実を突きつけられ、深い悲哀に襲われた。彼は、イリアを失うことよりも、彼女を愛する自分自身を、王として生きる未来のために切り捨てることを選んだのだ。


魔女は、ヴァルカンに代償を告げる。その代償は、彼の存在そのものを脅かすものだった。


「その記憶を取り戻すには、大きな代償が必要です。あなたは、ヴァンパイアとしての**『血への永遠の渇き』を失う**ことになります。二度と、血を求める本能に支配されることはなくなる。それは、あなたが王として生きるための、最も根源的な**『生きる意志』**そのものです。その本能が消えれば、あなたは、永遠に存在するだけの、空っぽの抜け殻になってしまう。血の渇望は、あなたの命を繋ぐ鎖であり、あなたを王座に縛り付ける力そのものです。それを失えば、あなたは、真の孤独に直面する。それでも、あなたは、その記憶を取り戻しますか?」


魔女の言葉は、ヴァルカンの冷たい心臓を貫いた。血への渇きは、彼が王として存在するための唯一の理由であり、彼の力の源泉だった。それを失えば、彼は永遠の夜の中で、ただ漂うだけの無意味な存在になる。彼は、愛の記憶を取り戻すことで、ヴァンパイアとしての存在そのものを失うという、究極の選択を迫られた。


彼は、その場で数世紀にも及ぶ長い沈黙を続けた。彼の脳裏には、血への渇望に支配され、獰猛な獣と化した自らの姿と、イリアの柔らかな笑顔が交互に映し出された。血の渇きは、彼に絶え間ない苦痛を与えながらも、彼を「生」に引き留めていた。その渇きを失うことは、生の終わりを意味した。


しかし、ヴァルカンは、イリアの記憶を思い出した。イリアは、彼がヴァンパイアになる前、彼が人間として最後に愛した女性だった。彼女は盲目であったがゆえに、彼の外見や地位ではなく、彼の内側にある魂の光だけを見てくれた。彼女との記憶は、彼にとって、王としての地位や、永遠の命よりも、遥かに尊いものだった。彼は、王としての傲慢な力よりも、人間としての温もりを求めた。


彼の心の奥底には、イリアと過ごした、わずかな時間の温もりこそが、永遠の孤独を打ち破る唯一の鍵であると知っていたからだ。彼は、このまま空虚な王として生き続けることに、耐えられなくなっていた。


彼は、魔女の瞳を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし力強く頷いた。


「誓約は結ばれました」


その瞬間、夜空に浮かぶ宝石の中から、ひときわ大きく輝く、純白のパールが、ふわりとヴァルカンに向かって降りてきた。それは、イリアの純粋な心と、彼女との愛の記憶が封印された、世界で最も美しい宝石だった。その光は、彼の漆黒のローブをも透かして、彼の魂を照らすようだった。


ヴァルカンは、震える手でパールを手に取った。その瞬間、彼の脳裏に、鮮明な映像が、怒涛のように蘇った。


それは、彼が人間だった頃の記憶。彼は、かつて、宮廷に仕える学者であり、高潔で知的な青年であった。彼は、城壁のすぐ外にある、蔦に覆われた小さな石造りの家で、イリアと二人、静かに暮らしていた。彼の仕事は、古文書の解読と天体観測であり、夜な夜な星を眺め、宇宙の真理を探求する、知的な日々を送っていた。イリアは、その静かな生活の中で、触れるもの、聞くもの、嗅ぐもの、すべてを愛した。彼女の失明は、視覚以外の感覚を研ぎ澄まし、世界を独自の色彩で捉えていた。彼女は、彼の話す難しい学問の話を、いつも膝の上で静かに聞いていた。


「あなたの声は、まるで遠い星の瞬きみたいに、優しくて、でも少し寂しい音がするわ、ヴァルカン。」彼女は、そう言って、彼の指先をそっと撫でた。彼女の指先の温もりが、彼の学者としての孤独を、いつも溶かしてくれた。


しかし、その穏やかな日々は、突如として終わる。ヴァルカンは、不治の病に倒れ、死の淵を彷徨っていた。彼は、毎夜、高熱にうなされ、自らの死を待つしかなかった。彼の病室は、絶望と死の匂いで満ちていた。そんな彼を、イリアは、その小さな体で懸命に看病してくれた。彼女は、彼の苦しみを理解し、彼が決して孤独ではないことを、常に伝えてくれた。


映像の中で、イリアは、病床のヴァルカンの手を握り、彼の額にそっとキスをする。彼女の体からは、温かい人間の熱が伝わってきた。イリアの盲目の瞳は、常にヴァルカンの心の奥底を見通していた。


「ヴァルカン、怖がらないで。私は、あなたのそばにいるわ。あなたがどんな姿になっても、あなたの魂は、私が知っている唯一無二のヴァルカンよ。あなたは、私の光よ。私には、あなたの優しさが見えるもの。」


彼女の言葉は、彼の心に希望を与えた。イリアは、彼がどんな姿になろうと、彼を愛し続けると誓ってくれた。


しかし、ヴァルカンは、その愛を守り抜くことができなかった。彼は、イリアを失うことを恐れ、死を拒否した。彼は、イリアの命を危険に晒す疫病から彼女を守るため、そして何よりも彼女との永遠の別れを拒むため、闇の王との取引に応じたのだ。永遠の命と引き換えに、彼はイリアを永遠に失った。彼は、イリアの最期の願いであった「人間として、彼らしく生きていくこと」を裏切ったのだ。


映像は、彼がヴァンパイアとして目覚めた、あの運命の夜を映し出す。


覚醒した彼は、すでに理性を失い、血への渇きに支配されていた。彼の全身は、激しい痛みに苛まれ、心臓は冷たい氷のように固まっていた。彼の口からは、鋭利な牙が伸び、喉からは獣のような唸り声が漏れた。彼は、イリアの温かい血を求める本能に抗えず、彼女の首筋に牙を立てようとする。彼は、自らの変貌に絶望し、部屋の調度品を破壊し、その手で窓枠を握りつぶした。彼の内側で、人間だった頃のヴァルカンと、血に飢えた獣が、凄まじい勢いで争っていた。


しかし、イリアは、恐れることなく、彼の冷たい頬に手を当てた。彼女の指先が、彼の頬に生じた傷と冷たさを感じ取る。


「ヴァルカン……大丈夫よ。私の血で、あなたの渇きが癒えるなら……私は、あなたの血となり、あなたの力となるわ。永遠に生きるのね。良かった。もう、苦しまなくていいのよ。」


彼女の静かな、自己犠牲的な愛の言葉が、獣と化したヴァルカンの意識を、一瞬にして引き戻した。その瞬間、ヴァルカンは我に返った。彼は、愛する女性の血を吸うことで、自らの永遠の命を始めるという、最も恐ろしい選択に直面したのだ。彼は、愛する者の血を糧に生きるという、残酷な運命を拒否した。彼は、その場で自らを呪い、イリアの温かい手を振り払い、石造りの家を飛び出し、永遠の闇へと逃げ込んだ。


そして、彼は、イリアを悲しませまいと、彼女との愛の記憶をすべて庭園に預け、始祖王として君臨した。彼は、イリアを失った悲しみと、人間だった頃の温もりを忘れ、血への渇きだけを頼りに、永い時を生き続けた。


彼の記憶の中で、彼はイリアに最後の言葉を告げた。それは、王としての、そして男としての、彼の最悪の後悔として、彼の心の奥底に深く突き刺さっていた。


「……イリア、私は君を愛している。だから、君を置いて、永遠の闇へ行く。君の愛が、私を弱くしてしまうから。私は、君を失うことが怖かったのだ。」


魔女は、ヴァルカンの記憶を深く読み取った。ヴァルカンは、イリアを愛していたからこそ、彼女との愛の記憶を捨てたのだ。彼は、彼女を失った悲しみと、永遠の孤独に耐えられなかった。


「彼女が欲しかったのは、あなたの永き命ではありません。彼女が欲しかったのは、あなたが、この世界で生きていくことでした。たとえ病に倒れようと、人間として、あなたらしく生きていくことでした。あなたは、愛を失うことよりも、愛に弱くなることを恐れた。そして、その愛を、最も安全な場所であるこの庭園に、封印した。」


魔女の言葉は、彼の心を深く揺さぶった。ヴァルカンの頬を、熱い涙が伝った。その涙は、王になって以来、初めて、そして最後となる、人間としての純粋な涙だった。彼の顔を伝う涙は、すぐに冷たい氷のように固まり、地面に落ちた。その氷の涙は、ヴァルカンの足元で、音もなく砕け散った。彼の心臓の周りを覆っていた数千年の氷が、音を立てて崩れ去るようだった。


手に持っていた純白のパールは、ヴァルカンの心に戻っていった。その瞬間、彼の体から、血への永遠の渇きが、まるで心臓から魂が引き抜かれるかのように、静かに消えていく。それは、彼にとって、最も大きな苦痛であると同時に、最も大きな解放でもあった。渇きが消えた彼の心臓は、重く、静かに脈打つだけになった。彼の胸には、もはや本能的な支配はなく、ただ穏やかな虚無が広がった。


彼の内側には、かつて王として君臨していた絶対的な虚無が広がった。その虚無は、彼の力の源泉が消えたことを意味していた。しかし、その虚無を埋めるかのように、イリアの愛の記憶が、彼の全身を満たした。それは、温かい血液のように彼の内側を巡り、彼の冷たい皮膚の内側から熱を持たせ始めた。血への渇望を失ったヴァルカンは、もはやヴァンパイアの王ではない。ただ、愛の記憶だけを抱えた、永い時を生きる存在となった。


彼は、もう過去の自分を否定する必要はなかった。彼は、自分の心の中で、すでに答えを見つけていたからだ。彼は、イリアとの絆を、永遠の命よりも尊いものとして、心に抱きしめながら、静かに庭園を後にした。彼の足取りは、王としての重厚さではなく、人間としての穏やかな確信を帯びていた。


ヴァルカンは、立ち上がると、魔女に、感謝の気持ちを伝えるように、彼女の足元にそっと頭を下げた。彼の瞳には、孤独と諦念ではなく、穏やかな愛と、微かな後悔が宿っていた。彼は、血への渇きを失ったことで、王としての絶対的な力は失ったが、人間としての心を取り戻した。


魔女は、その背中を静かに見送った。ヴァルカンが去った後、彼女は、再び一人になった庭園で、空に瞬く記憶の宝石を見上げた。彼女の髪に埋め込まれた宝石たちが、わずかに温かい光を放っている。魔女は、ヴァルカンとイリアの、永き時を超えた愛の物語を心に刻んだ。


庭園は、今日も静かに、忘れられた記憶たちを管理している。

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