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狼の心、青年の心

「忘却の庭園」を一人で管理する記憶の魔女は、その日も静かに目を覚ました。永遠に続く黄昏のような空間で、彼女の髪に埋め込まれた記憶の欠片は、七色に輝いていた。


魔女は、いつものように一人で庭園を歩き、落ち葉を拾い、草木に水をやる。魔女は、クロノの頭をそっと撫でると、庭園の様子を眺めた。庭園は、絶えず人々の記憶を受け止め、それらを地へと還す。庭園の地面は、記憶の光を吸収し、朝露のようにキラキラと輝いていた。


その光景を眺めることが、彼女にとっての一日の始まりだった。


庭園の入り口に続く石畳を掃いていると、彼女の足元に、一頭の巨大な狼が立っていた。その瞳は、知性と、深い悲しみを湛えていた。その狼の名前は、アラン。彼は、狼の群れの長を務める、威厳に満ちた存在だった。


アランは、魔女に深々と頭を下げた。彼の顔には、深い絶望と、ほんの少しの希望が混じり合っていた。


魔女は言葉を発することなく、アランの胸に手をかざす。すると、彼の心臓の奥底から、小さな光の粒が湧き上がり、魔女の掌に吸い込まれていった。それは、彼がまだ子狼だった頃の、遠い記憶の欠片だった。


「…あなたの記憶を読み取りました。」


魔女は静かに告げた。アランは、驚きと、どこか安堵した表情を浮かべた。彼は、感謝の気持ちを伝えるように、魔女の手のひらに自分の鼻を押しつけた。


魔女は、アランの心を深く読み取った。アランの心には、彼を助けてくれた青年の記憶は、確かに存在していた。しかし、その記憶は、彼が狼の長となるために、忘却したものだった。


狼は、群れを率いる長として、人間の優しさを弱さと見なす。アランの記憶の中の青年は、彼に「優しさ」を与えた存在だった。その記憶を抱えたままでは、彼は狼の長として、群れを守ることができないと考えたのだ。


「その記憶は、この空から降りてきます。しかし、その記憶を取り戻すには、大きな代償が必要です」


魔女はアランに告げた。


「その記憶を取り戻すには、あなたが狼の長として得た、すべての記憶を失います。あなたの『威厳』、『力』、『誇り』といった、狼の長としての大切な記憶が、すべて消えてしまうのです。あなたは、これから孤独のまま過ごすただの狼になってしまう。それでも、あなたは、その記憶を取り戻しますか?」


魔女の言葉に、アランは葛藤した。狼の長としての記憶は、彼のすべてだった。群れを守るための力、群れを導くための威厳。それらをすべて失うことは、これまで守ってきた仲間、家族と培った、彼の人生のすべてだった。


彼の心には、どうしても思い出したい「感謝の言葉」があった。それは、彼が青年に対して、それまでの人生を築く土台となったの最初で最後の記憶であり、彼の心を支える唯一の希望だった。彼は、魔女の瞳を真っ直ぐに見つめ、強く頷いた。


「誓約は結ばれました」


その瞬間、夜空に浮かぶ宝石の中から、ひときわ大きく輝く、黄金色のシトリンが、ふわりと彼に向かって降りてきた。


アランは、降りてきたシトリンを手に取った。すると、彼の脳裏に、鮮明な映像が蘇った。それは、彼がまだ子狼だった頃、深い森の中で、熊に襲われ、大怪我をして倒れていたときの記憶だった。


彼の前に立っていたのは、一人の青年だった。青年は、傷だらけで倒れていた彼を、慎重に抱きかかえ、優しい声で語りかけていた。


「大丈夫だよ。大丈夫。君は死なない。」


青年の声は、アランの心に染み渡った。青年は、アランを背負い、自分の村へと連れて帰った。そして、献身的に看病してくれたのだ。アランは、その青年の優しさに、心から感謝していた。


アランは、青年の献身的な看病のもと、次第に体の傷も回復した。アランが完全に群れに帰れるほどに回復したとき、青年は、最後の言葉をアランに告げた。


「……ありがとう。君は、私にとって、大切な家族だったよ。」

その言葉は、アランの心を深く揺さぶった。彼は、青年への感謝の言葉を、心の中で叫び続けた。しかし、彼の喉からは、ただ獣の咆哮が漏れるだけだった。


魔女は、アランの記憶を深く読み取った。アランは、狼の長となるために、青年との記憶を自ら捨てたのだ。彼は、青年との思い出が、弱さの証だと信じ、それを心から切り離すことで、強さを手に入れようとした。


「青年が欲しかったのは、あなたの感謝の言葉ではありません。彼が欲しかったのは、あなたが、この世界で生きていくことでした」


魔女の言葉に、アランの頬を、熱い涙が伝った。彼は、青年が一時的ではあったが、自分を愛してくれていたことを知った。


手に持っていたシトリンの宝石は、アランの心に戻っていった。彼は、もう過去の自分を否定する必要はなかった。彼は、自分の心の中で、すでに答えを見つけていたからだ。彼は、青年との絆を、心に抱きしめながら、静かに庭園を後にした。


アランは、立ち上がると、魔女に、感謝の気持ちを伝えるように、彼女の足元にそっと体を寄せた。魔女は、その背中を静かに見送った。アランが去った後、彼女は、再び一人になった庭園で、空に瞬く記憶の宝石を見上げた。彼女は、アランと青年の物語を心に刻んだ。


庭園は、今日も静かに、忘れられた記憶たちを管理している。

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