魔女のささやかな日常
夜空に浮かぶ「記憶の宝石」が、星屑のように瞬いている。歓びの記憶は黄金色のシトリンとなり、悲しい記憶は深い青のサファイアとなって、夜空を彩っていた。それらはまるで意志を持っているかのように、ふわりと庭園へと降りてきては、地面に吸い込まれていく。
「記憶の庭園」を一人で管理する記憶の魔女は、その日も静かに目を覚ました。光も影もない、永遠に続く黄昏のような空間で、彼女の髪に埋め込まれた記憶の欠片は、七色に輝いていた。
変わらない日常に魔女は特別な感情を抱かない。その無感情な瞳の奥には、どこか穏やかで、慈しみに満ちた光が宿っているように見えた。
ベッドから出ると、彼女はまず、庭園の様子を眺めた。庭園は、絶えず人々の記憶を受け止め、それらを地へと還す。庭園の地面は、記憶の光を吸収し、朝露のようにキラキラと輝いていた。その光景を眺めることが、彼女にとっての一日の始まりだった。
彼女の部屋の隅には、小さな籠があった。その中には、一匹の黒猫が眠っている。その猫は、かつて庭園を訪れた少年が、記憶を預けていったときに、置き忘れていった「大切な宝物」の記憶から生まれた存在だった。少年は、ペットとして飼っていた黒猫を亡くし、その記憶を庭園に預けていった。しかし、その記憶があまりにも強かったため、記憶の欠片となって形を成し、魔女の元に残ったのだった。
「…おはよう、クロノ」
魔女は、いつものように感情のこもらない声で、黒猫に話しかける。猫は、魔女の声を聞くと、にゃあと鳴いて、ゆっくりと目を覚ました。魔女は、その黒猫に「クロノ」と名付けた。
朝食は、庭園で採れた果物と、清らかな水。魔女は、庭園の隅にある小さな畑で、果物や野菜を育てていた。どれも食べた人々の「美味しい」という感情の記憶から生まれたものだった。甘いイチゴ、酸っぱいレモン、みずみずしいトマト。口に含むと、人々の「美味しい」という感情の記憶が、かすかに脳裏に蘇る。
朝食を終えると、彼女は庭園の管理を始めた。落ち葉を掃き、草木に水をやる。魔女が歩くたびに、髪に埋め込まれた宝石たちが、カシャカシャと音を立てる。その音は、まるで彼女の心臓の鼓動のように、庭園に響き渡る。
庭園の入り口に続く石畳を掃いていると、彼女の足元に、小さな光の粒が転がってきた。それは、まだ形を成していない「記憶の欠片」だった。魔女は、その欠片を拾い上げ、掌に乗せる。すると、欠片は、かすかな歌声の記憶を放ち始めた。
その歌声は、遠い昔、魔女が庭園で出会った少女の姉が歌っていた歌だった。魔女は、アリアと呼ぶことにした。彼女は、病弱な妹を励ますために、いつも歌を歌っていた。しかし、ある日、妹が死んでしまい、アリアはその悲しみから立ち直れず、歌うことをやめてしまった。その歌声の記憶が、欠片となって庭園に流れ着いたのだった。
魔女は、その歌声に、かすかな「迷い」を感じた。アリアの記憶の欠片を、彼女の元に戻すべきか、それとも庭園に留めるべきか。アリアの記憶は、悲しみの記憶と結びついている。もし彼女に返してしまえば、アリアは再び悲しみに苦しむことになるかもしれない。
魔女は、その迷いを抱えたまま、庭園の管理を続けた。
正午の光が、庭園を淡く照らし出す。魔女は、庭園の奥にある小さな図書館へと向かった。そこには、世界中の「物語」の記憶が本となって収められている。物語の記憶もまた、人々の感情から生まれたものだった。
本棚に並んだ物語は、すべて背表紙が白く、タイトルも書かれていない。魔女は、その中から、一冊の本を手に取った。本を開くと、そこに文字は書かれておらず、代わりに、物語の登場人物たちの「感情」が、光となって流れ出す。
今日の物語は、一人の男の成長の物語だった。男は、冒険の旅に出るが、行く先々で挫折を繰り返し、何度も絶望する。しかし、そのたびに、彼は勇気を振り絞り、前に進んでいく。物語の終わりには、男は成長し、多くの人々を助ける英雄となっていた。
魔女は、物語を読み終えると、静かに目を閉じた。男の「希望」や「勇気」といった感情が、彼女の心に流れ込んでくる。それは、彼女にとって、無味乾燥な世界に、かすかな色彩を与えてくれる、かけがえのない時間だった。
物語を読み終えると、彼女は再び庭園へと戻った。黄昏の光が、庭園のすべてを黄金色に染めていく。魔女は、夕食の準備を始めた。今日の夕食は、庭園で採れた野菜を使ったシチュー。野菜を刻み、鍋で煮込む。その間、彼女の頭の中では、人々の「美味しい」という感情の記憶が、次々と蘇ってくる。
夕食を終えると、彼女は湯船に浸かった。湯の温かさが、彼女の体を包み込む。それは、人々の「安らぎ」や「幸福」といった感情の記憶から生まれたものだった。湯の中で、彼女は静かに目を閉じ、今日一日、庭園にやってきた記憶の宝石たちを思い返す。
誰かの愛の記憶。
誰かの悲しみの記憶。
誰かの喜びの記憶。
それらはすべて、彼女にとって、かけがえのない「物語」だった。
風呂から上がると、彼女は机に向かい、日記をつけた。日記には、その日、庭園を訪れた人々の物語が、簡潔に記されている。それは、彼女が、彼らの物語を忘れないための、唯一の方法だった。
今日の日記には、「リリア」と「ルカ」の物語が記された。
「リリアは、声を失っても、ルカとの絆を大切にすることを決意した。彼女は、悲しみという感情を乗り越え、強くなった」
日記を書き終えると、彼女は再びベッドに戻った。隣には、クロノが静かに眠っている。魔女は、クロノの頭をそっと撫でた。
「おやすみ、クロノ」
彼女の声に、クロノは、にゃあと小さく鳴いて応える。その鳴き声は、彼女にとって、唯一の慰めだった。
夜空には、再び無数の「記憶の宝石」が輝き始める。魔女は、その宝石たちを静かに見つめながら、眠りについた。
明日も、また新しい「記憶」がこの庭園に流れ着くだろう。そして、彼女は静かに見守り続けるのだ。




