迷子の声
夜空に浮かぶ無数の「記憶の宝石」が、星屑のように瞬いている。歓びの記憶は黄金色のシトリンとなり、悲しい記憶は深い青のサファイアとなって、夜空を彩っていた。それらはまるで意志を持っているかのように、ふわりと庭園へと降りてきては、地面に吸い込まれていく。
この幻想的な庭園に、魔女が一人、静かに佇んでいた。
そこに、新たな訪問者が現れる。
小さな女の子、リリア。年は八つか九つだろうか。その瞳は、何かを深く忘れてしまい、不安と悲しみに満ちていた。彼女は、何かを一生懸命思い出そうとしているが、心の奥に空いた穴に、手が届かないでいた。
「どうしました、お嬢さん?」
魔女は、いつものように静かに問いかける。
突然の問いかけに、リリアはびくりと肩を震わせた。彼女は、目の前に立つ魔女の存在に気づいていなかったのだ。
「あ、あなたは……?」
警戒と戸惑いの表情を浮かべながら、リリアは答えた。
魔女は静かに微笑み、彼女の質問には答えず、ただ穏やかな声で語りかけた。
「あなたは何かを探しに来たのでしょう? この庭園は、忘れられた記憶が辿り着く場所。もし、あなたが何かを深く忘れてしまったのなら、きっとここあるはずですよ。」
魔女の言葉に、リリアの瞳にうっすらと涙が浮かんだ。彼女は両手をぎゅっと握りしめ、言葉を続けた。
「大切な記憶を探しています。でも、誰の記憶なのか、誰で、どんな声だったのか、まったく思い出せないの……」
リリアは、震える声で答えた。魔女は、リリアの胸に手をかざす。すると、彼女の心の奥底から、楽しかった記憶の欠片が、黄金色のシトリンとなって降りてくる。しかし、そのシトリンは、誰かの声を聞くたびに揺らぎ、形を保てずに消えてしまった。
「あなたの記憶は、他の誰かの声に影響されています」
魔女は、夜空に浮かぶ無数の記憶の宝石を指差した。
「あなたが探しているものは、この夜空にあります。」
リリアは、目を凝らして夜空を見上げる。無数の宝石の中から、その記憶を見つけるのは不可能に思えた。
「どうして、そんなに一生懸命に探しているのですか?」
魔女は、静かに問いかけた。リリアは、震える唇で、ゆっくりと語り始めた。
「この胸が、とっても苦しいんです。何か大事なものをなくしちゃったみたいで……この痛みが、その記憶を見つけたら、消える気がするから……」
彼女の声は、か細く、悲痛な響きを帯びていた。魔女は、その言葉を静かに受け止め、ゆっくりと語りかける。
「その記憶は、あなたを深い悲しみから守るために、誰かが大切に大切に隠したものです。それを無理やりこじ開けてしまってってもいいのですか?」
魔女は、一呼吸おいて、優しく続けた。
「その記憶を取り戻すには、あなたの心を傷つけないための『誓約』が必要になってきます。それは、大きな代償となるでしょう。」
魔女の言葉に、リリアは息をのんだ。彼女の小さな心臓が、激しく、不規則なリズムを刻み始めた。その鼓動は、恐怖と後悔に満ちた、耳鳴りのように響き渡る。
「その記憶は、あなたのことを悲しませたくなくて、あなたとの思い出を、この庭園に預けました。その代償として、あなたは、その友だちの最も大切な記憶を取り戻す代わりに、『あなたの声』を失うことになります。二度と、話すことはできなくなる。それでも、あなたは、その記憶を取り戻しますか?」
リリアは、言葉を失った。友だちの記憶と引き換えに、自分の声を失う。それは、彼女にとって、ルカと同じ世界に生きることになるという恐怖だった。彼女は震える手で、自分の喉を抑えた。
「それでも、あなたは、その記憶を取り戻しますか?」
魔女は、リリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。リリアは、しばし沈黙した後、力強くうなずいた。
「はい。たとえ、声をなくしてしまっても、私はその記憶を思い出したい。」
リリアの決意の言葉に、魔女は静かに頷いた。
「誓約は結ばれました」
その瞬間、夜空に浮かぶ宝石の中から、ひときわ大きく輝く、深く冷たい青色のサファイアが、ふわりと彼女に向かって降りてきた。
魔女は静かに言葉を続けた。
リリアは、その言葉に、胸が締め付けられるような、どうしようもない感情を覚えた。ルカが、自分を悲しませたくなくて、記憶を庭園に預けたのだと知ったからだ。彼女は、涙をこぼしながらも、魔女の言葉に耳を傾けた。
「あなたの歌声が、彼女の心に希望を与えたように、あなたを悲しませたくなかったのです。だから、彼女は自分の命がもう長くないことを知って、あなたを悲しみから守ろうと決意しました。」
「そして、最後の力を振り絞って、たった一人でこの庭園に来たのです。あなたが、自分を忘れても幸せでいられるように、全ての記憶をここに預けたのです。」
魔女の言葉と共に、リリアの脳裏に、かすかな映像が蘇った。
それは、リリアがルカの耳元で歌を歌ってあげている光景だった。ルカは、今まで一度も声を出したことがなかった。 「わたし、ルカちゃんの声、聞いてみたいなぁ」 リリアがそう言うと、ルカは、ふるえる唇でかすかに「ありが…と」と囁いた。
それは、ルカが最後に発した言葉だった。 次の瞬間、映像は一転する。車が走る、激しい雨の降りしきる道路。ルカは、リリアが落とした大事なリボンを拾おうとした。
血を流しながらも、微笑んで自分を見つめるルカの姿が、リリアの脳裏に焼き付く。そして、彼女の口が、無言のまま『ありがとう』と動くのが見えた。その映像は、瞬く間に消えたが、リリアは、その深い悲しみに、その場に立ち尽くし、絶望に打ちひしがれた。
その瞬間、夜空から封印された青いサファイアの宝石が、ゆっくりと降りてくる。リリアは宝石に触れ、その記憶の最後の「ありがとう」という言葉を聞く。その瞬間、彼女の喉から、声が消えていく。
リリアは声が出せないことに悲しみながらも、心の中では、ルカの最後の言葉を繰り返している。それは、彼女にとって、最も大切な宝物となった。
魔女は、悲しみを乗り越えて、しかし深い安堵の表情を見せるリリアを見送る。
「…」
リリアは、言葉を失った喉から、かすかな空気を絞り出し、深々と頭を下げた。涙が、頬を伝う。
魔女は、その背中を静かに見送った。リリアが去った後、彼女は、再び一人になった庭園で、空に瞬く記憶の宝石を見上げた。彼女は、ルカの深い愛情と、リリアの葛藤、そして声を失ってもなお、前に進むことを決意した彼女の強さを心に刻む。
そして、彼女の心に、また一つ、人間の感情の欠片が加わったように感じた。
「この庭園に、また新しい物語が生まれますように……」
そう呟く彼女の声には、感情がほとんど感じられなかったが、どこか、ほんの少しの温かさが宿っているように聞こえた。
そして、庭園は、今日も静かに、忘れられた記憶たちを管理している。




