一通のラブレター
夜空に浮かぶ無数の「記憶の宝石」が、星屑のように瞬いている。歓びの記憶は黄金色のシトリンとなり、悲しい記憶は深い青のサファイアとなって、夜空を彩っていた。
この幻想的な庭園に、一人の青年が立っていた。彼の名はカイル。歳は20代前半ぐらいだろうか。その顔には、深い絶望と、ほんの少しの希望が混じり合っていた。
彼がこの場所に辿り着いたのは、一通の手紙を出した記憶を探すためだった。手紙を出したことは覚えている。けれど、誰に宛てたものなのか、どうしても思い出せない。しかし、その記憶が、彼にとってかけがえのない大切なものであることだけは、直感的に理解していた。その喪失感に耐えきれず、彼はこの場所にたどり着いたのだ。
「記憶を探しに来たのですか?」
静かな声が、背後から聞こえた。カイルが振り返ると、そこに立っていたのは、黒いローブをまとった、不思議な女性だった。彼女の瞳は、まるで遠い宇宙を覗き込んでいるかのようで、吸い込まれそうなほど美しかった。
「あなたは……?」
「この庭園の管理者です。人々が忘れ去った記憶を、ここで管理しています」
彼女は、そう言って微笑んだ。しかし、その微笑みには、感情がほとんど感じられなかった。カイルは、彼女が「記憶の魔女」と呼ばれる存在であることを、本能的に理解した。
「俺は……ある手紙の記憶を探しています。誰に出したのかも、なぜか覚えていない。でも、とても大切なものだったことだけは分かっているんです。どうしても、その記憶を取り戻したい」
魔女は静かにうなずいた。
「手紙の記憶は、この空から降りてきます。しかし、その手紙があなたに属するものなのか、それとも他者の記憶なのか、確認する必要があります」
そう言って、魔女はカイルの胸に手をかざした。すると、彼の胸の奥底から、小さな光の粒が湧き上がり、魔女の掌に吸い込まれていった。それは、彼が手紙を書いたときの、切ない感情の記憶だった。
「…確認しました。その記憶は、ここにあります」
魔女は、夜空に浮かぶ無数の記憶の宝石を指差した。
カイルは、目を凝らして夜空を見上げた。しかし、無数の宝石の中から、自分が探しているものを見つけるのは不可能に思えた。魔女は、そんな彼を静かに見つめながら、言葉を続けた。
「記憶を取り戻したいですか?」
魔女の言葉に、カイルは息をのんだ。
「その記憶は、本来であれば、あなたが最も大切にしていた記憶と結びついています。でも、その記憶は、あなたを悲しみから守るために、ある人が消し去ってしまった。そのため、手紙の記憶は、あなたの歓びの記憶と切り離され、夜空に留まっているのです」
カイルの心臓が、激しく鼓動を打った。
「その記憶を戻すには、代償が必要です。」
その言葉に、カイルは息をのんだ。彼の心臓は、さらに激しく、不規則なリズムを刻み始めた。その鼓動は、耳鳴りのように響き渡った。
「ある人がここに残した記憶をあなたが思い出した時、あなたの中で最も大切だった記憶、例えば、誰かを愛したこと、誰かに愛されたこと、人生で最も幸福だったと感じる瞬間、そういった思い出をすべて失うのです。それは、あなたを守るためのもの。その願いを、あなたは自ら打ち破ることになるのです」
魔女の静かな声が、庭園に響いた。カイルの顔から、血の気が引いていく。
失われた記憶を取り戻す代償として、別の記憶を失う。それも、最も大切だったはずの、かけがえのない記憶を。
「それでも、あなたは、その記憶を取り戻しますか?」
魔女は、カイルの瞳を真っ直ぐに見つめた。カイルは、しばし沈黙した後、力強くうなずいた。
「はい。たとえ、その記憶が悲しいものであっても……たとえ、代償として大切な記憶を失ったとしても、俺は、その記憶を知りたい。それが、俺の心に空いた穴を埋める唯一の方法だと思うから」
カイルの決意の言葉に、魔女は静かに頷いた。
「誓約は結ばれました」
その瞬間、夜空に浮かぶ宝石の中から、ひときわ大きく輝く、深く冷たい青色のサファイアが、ふわりと彼に向かって降りてきた。
「これは……?」
カイルは、降りてきたサファイアを手に取った。すると、彼の脳裏に、鮮明な映像が蘇った。
それは、カイルのとって、一番大切な存在「ミカ」の記憶だった。
病院のベッドに横たわるミカの姿。彼女の顔は痩せ細り、苦痛に歪んでいた。そばに立つ医師は、悲痛な顔で告げる。
「すみません、私たちにできることはもうありません。もって、あと、三ヶ月でしょう」
ミカは、その言葉を聞いて、静かに涙を流した。彼女は、カイルからの手紙を受け取った後、すぐにその手紙を破り捨てていた。そして、カイルの心から、自分との思い出を消そうとしていたのだ。
「どうして……?」
カイルの頭は混乱した。
映像はさらに続いた。ミカが、庭園の入り口にある小さな扉を見つける。彼女は、自分の記憶を、彼女の中で一番大切な記憶、カイルとの思い出をこの庭園に預けに来たのだ。彼女がカイルと過ごした楽しかった記憶は、黄金色のシトリンとなり、カイルへの深い愛情の記憶は、ルビーとなって、夜空へと昇っていった。
そして、彼女が最も大切にしていた記憶、つまり「カイルにラブレターをもらった記憶」は、彼女自身の悲しみとともに、深く冷たいサファイアの宝石となって、夜空に留まっていたのだった。
「彼女は、あなたを悲しませないために、記憶を忘れようとしました。彼女にとって、あなたは幸せの象徴だった。」
カイルの頬を涙がつたった。彼は、この記憶の持ち主は誰なのか、自分にとってどういう存在だったのか、ようやく思い出した。
しかし、その深い悲しみと愛情は、彼の心を震わせた。
代償のとおり、一時的に思い出した記憶は消え、彼は、誰のものかも分からない悲しい記憶を、心に抱きしめながら、静かに庭園を後にした。
カイルは、涙を拭って立ち上がった。魔女は、その背中を静かに見送った。カイルが去った後、彼女は、再び一人になった庭園で、空に瞬く記憶の宝石を見上げた。
魔女は、カイルとミカの物語を心に刻み、次の訪問者を待つ。
「この庭園に、また新しい物語が生まれますように……」
そう呟く彼女の声には、感情がほとんど感じられなかったが、どこか、ほんの少しの温かさが宿っているように聞こえた。
そして、庭園は、今日も静かに、忘れられた記憶たちを管理している。