第8話 二人の衝突
夜明け前の空気は、ガラス細工のように澄み切っていた。あれから、響の日常は少しずつ変化している。
糸音のいない江雪家はあまりに広く、響は何年かぶりに実家の自室のベッドに沈み込んでいた。そして、夜明け前に行っていた筋力トレーニングは、己の〈パーソナルHz〉を磨く孤独な鍛錬へと置き換わっている。
右手の指先に、意識を集中させる。響のHzが、セカイの根源たる〈ワールドストリングス〉に触れる。ゆらり、と陽炎のようなものが立ち上り、やがて小さな灯火が宿った。姫鶴静から課された〝指先にロウソクの火ほどの炎を灯し、一時間維持し続ける〟という基礎訓練だ。
しかし、その炎はあまりに頼りなかった。
脳裏に浮かぶのは、聖域である盛泉寺に身を寄せている江雪糸音の姿。彼女は今、独りで何を感じているのだろうか。守ると決めたはずが、自分はこうして離れた場所で、非力なまま立ち尽くしている。
早く、もっと強くならないと……!
焦りが、心の表面をさざ波のように撫でる。その瞬間、呼応するように指先の炎がぐらりと揺らぎ、頼りなく明滅した末に、ぷつりと消えてしまった。立ち上る一筋の煙が、響の無力さを嘲笑っているかのようだった。
「……くそっ」
何度目かの失敗に、思わず悪態が漏れる。早く一人前になって、糸音の隣に帰りたい。その想いが強まれば強まるほど、力は繊細な指先からこぼれ落ちていく。手に『武器』を思い描けば刀身から炎を零す日本刀が生成されるが、静からは『今のあなたが刀を握れば、その制御できない力が何を斬り裂くか分からない』と強く釘を刺されている。その言葉の重みが、軽率な行動を戒めていた。響はイメージの中の刀を霧散させると、ため息と共にその場に座り込んだ。
ピコン、と静寂を破ってスマートフォンの通知が鳴った。
糸音か、と心臓が跳ねる。急いで画面を確認するが、メッセージの送り主は姫鶴静だった。
『今のあなたには実践の方が効くかもしれません。今日の放課後、例の空き教室に来てください』
ドクン、と心臓が大きく脈打った。実践。その二文字が、乾ききったスポンジに水を吸わせるように、響の心に染み込んでいく。期待が半分、不安が半分。それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。響はごくりと唾を飲み込むと、短く『行きます』とだけ返信した。
その日の放課後、響は言われた通り旧文芸部の空き教室を訪れた。すでに静は窓枠にもたれかかり、夕陽に染まる校庭を眺めていた。
響の気配に気づいたのか、静はゆっくりとこちらに視線を向けた。その瞳はいつも通り穏やかだが、奥に射抜くような鋭さを秘めている。
「単刀直入に言います。もうわかっていると思いますが、今日の呼び出しは、あなたに初任務を受けてもらうためです」静先生はそう言い「〈フレイド〉による痕跡事件が発生したと報告が入っています」と続けた。
「痕跡事件……?」
「ニュースで最近よく流れているでしょう。小石が浮かんだり、水の波紋が不自然に生じたり」
糸音と一緒に見たニュースを思い出す。そしてその勢いで、今までの糸音との日常を思い出す。泣きたいくらい、あの時に戻りたい気持ちになってしまう。でももう、そんな日常は存在しないのだ。ニュースが報じるその裏側のセカイに、自分は足を踏み入れた。
「特定のエリアの住人から、『意欲』や『向上心』といった正の感情がごっそり失われる現象が確認されています」。静の説明は淡々としていた。「原因となっている〈フレイド〉を排除する。それがあなたの初任務です」
「初任務……」響の目に戸惑いが生じる。「でも、俺はまだ」
「刀の使用は許可します。ただし」
ただし?
そう首を傾げると、教室の戸がガラリと開いた。トレードマークのヘッドフォン、悪い目つき、ツンツンの金髪。
「……鳴牙」
「んだよ静センセー。もしかして今回の任務って」と、鳴牙も入って早々状況を理解したようだ。
「はい」と静は頷いた。「今回の任務は二人で協力して、速やかに目標を排除してください」
協力、という言葉がやけに空々しく響いた。鳴牙は響を一瞥すると、興味を失くしたようにふいと顔を背ける。その瞳に宿るあからさまな敵意に、響は固く拳を握りしめた。
静が運転する車の後部座席は、息が詰まるほど重い空気に満ちていた。
窓の外を、見慣れた安曇野の景色が流れていく。常念岳が北に向かうごとに形を変えていき、見知らぬ顔になっていく。常念は、やっぱり豊科からみた三角の形が好きだ。穂高から見るとそれは屋根型に見え、どこか不自然さを感じる。隣に座る鳴牙はヘッドフォンで耳を塞ぎ、セカイのすべてを拒絶するように目を閉じている。
沈黙が続く車内。その重い空気を破ったのは、鳴牙だった。
「おい」ヘッドフォンを少しずらし、彼は響を見ようともせずに言った。「邪魔だけはするなよ。お前が敵の射線に入ろうが、俺は構わず撃つからな」
あまりに一方的な物言いに、響もつい喧嘩を買ってしまう。
「それはこっちのセリフだ」
「ッチ」と鳴牙は舌打ちし、顎を上げて前の席に声を向ける。「静センセー。やっぱ俺一人でやるって。そしたら車での移動も必要ないぜ」
静が言うには、〈パーソナルHz〉の力はどの系域であってもその力を身体の内部で振動させることができるという。そうすることで筋肉が活性化し、超人並みの力や素早さ、持久力を得られるのだという。
「今の響くんがそれをやったら身体が木っ端みじんになるからやらないように」と言われ、響はまだ怖くてチャレンジできていない。
しかしすでに十分な練度を積んだ鳴牙は、その技術も会得しているのだ。経験値は段違い。糸音のためもあるが、こいつにでかい顔をさせたくないという意味でも、まずは早く鳴牙の実力に追いつきたい。
「鳴牙は今まで一人で動き過ぎました」静はバックミラー越しに鋭い視線を送る。「これからは仲間と共に戦う連携を覚えてもらいます。敵味方それぞれの実力を踏まえ自分の立ち回りを決める、複合的な視点を得られるよう心がけて下さい」
「先生。俺は言ったはずだぜ。俺の目的は〈サイレンス〉の燭台奏をぶっ殺すこと。連携とかどうでもいいんだよ」
鳴牙は貧乏ゆすりをはじめ、イライラした気持ちを隠さない。
「俺だって早く強くなりたいと思ってるよ」と響は言った。「守りたいものがない奴には分からないだろうけどな」
そう吐き捨てた響に、鳴牙は初めて視線を向けた。
「守りたいものがない?」その瞳は、絶対零度の氷のように冷え切っていた。「人のことわかったような口効いてんじゃねぇぞ」
静はなにも言わない。
それきり、会話は途絶えた。
北アルプス牧場というアイス屋を通り過ぎ、静は、かつてはガラス工房として営業していた廃墟に車を止めた。穂高温泉郷にほど近い山麓線沿いの建物だ。また、すぐ隣に謎の四角い大きな建物がある。こちらももう営業はしていないようで、静が言うには、平成初期頃には日本で唯一のアイマックスシアター施設だったという。静が青色の〈幽域〉の波長を周囲に素早く展開させ、その大きな施設の近くを指さした。
「〈フレイド〉はあの駐車場の中央付近にいます。私は後方で支援に回るから、まずはあなたたち二人で連携して〈フレイド〉を倒すように」
静の言葉を合図に、鳴牙が動いた。
「〈フレイド〉は振動の結節点を喰らいながら、小刻みに移動している。俺が奴の動きを封じるから、その隙に一気にその剣で叩け。俺が合図するまで、お前は動くなよ」
言うが早いか、空気が焦げるような匂いと共に、空間に黄色の亀裂が走る。鳴牙が向けた五指の先から放たれた電撃の矢が、不可視だったはずの敵の姿を暴き出した。黒い糸くずの塊と、その中心に脈動する赤いコアを持つ〈フレイド〉。
鳴牙のプランは正しいのだろう。だが、それに乗れるだけの自信が、今の響にはなかった。この頼りない炎の刀で、本当にあの化け物を仕留められるのか? もし失敗すれば、また鳴牙にどんな嫌味を言われるわからない。
「勝手に決めるな! まずは先に俺に攻撃させてくれ!」
響は叫び、駆け出した。右腕には灼熱を纏う日本刀。岩を叩けば砕けてしまう密度の弱さ。まずはそれが〈フレイド〉に有効かどうかを試したかった。鳴牙の制止の声が聞こえたが、こちらの力が通じるか確認するのが先だろう。効果のないものを作戦に組み込んでも意味がない。狙うは、黒い糸屑の人形の中心で脈動する、赤いコア。
だが、その突撃が、最悪の事態の引き金となった。
響が放つ熱エネルギーの流れが、鳴牙が形成していた雷撃のHzに干渉し、かき乱したのだ。
「なっ……おい!」
鳴牙の顔に驚愕が浮かぶ。制御下にあったはずの電撃の矢が、暴れるロケット花火のように支離滅裂な方角へと跳んでいく。
「このバカが……!」
その怒声も響には届かない。響は周囲で何が起こっているのか理解すらできていない。自分の獲物で敵を斬ろうとすることに集中しすぎている。
「二体目、背後!」
静の警告が飛ぶ。もう一体いたのか。鳴牙は素早く回避し、ぐねぐねと紐を動かしながら移動する敵を攪乱させながら指を向ける。しかしそこに、刀を振り下ろす響が完全に重なった。そして響の剣は〈フレイド〉に触れた瞬間、火の粉と煤を放って消えてしまった。
連携は完全に崩壊した。
その致命的な隙を、二体目の〈フレイド〉は見逃さなかった。黒い糸の塊が圧縮され、鋭利な槍となって鳴牙の胸元へと突き出される。
「しまっ――」
鳴牙の動きが、響の目にはスローモーションのように見えた。頭が真っ白になる。なにもかもが消し飛んだ。バカみたいだな、俺。勝手に突っ走って、勝手に事態を悪くさせている。そして脳裏をよぎったのは、糸音の悲しむ顔だった。
守りたいんだ。俺は。
でもこのままじゃ、いつまでも糸音と離れたままだ。
俺が強くなれば――糸音をすべてから守れるくらい強くなれば、また糸音と元の生活に戻ることができる。
日常の喪失を拒絶する、純粋な本能。
俺が強くなれば!
響は吠えた。右腕から制御というタガが外れ、力のすべてが解放される。
それは炎ではなかった。音も、光もなかった。
空間そのものが歪むような、心臓の鼓動にも似たドクンと生じた不可視の衝撃波。それは特訓の折に静が懸念した、目標を透過して後方を無差別に破壊する、規格外の力が暴発した瞬間だった。拳を直接受けた一体目の〈フレイド〉もろとも、衝撃波は鳴牙の寸前で二体目の〈フレイド〉を捉えた。黒い糸屑の人形は、抵抗する間もなく、その存在ごとセカイから消し飛ばされる。まるで初めからそこにはなにもなかったかのように。
静寂が戻る。
塵が舞い、夏の前だというのに秋のような涼しく寂しい風が吹く廃墟の駐車場にて、響はぜえぜえと肩で息をしながら、膝に手をついた。
……やったのか? いや、やった。俺が、倒したんだ。鳴牙がやられそうになるのを、俺が守った。じわりと、胸の奥に安堵と高揚感が広がっていく。
だが、その達成感は、次の瞬間に打ち砕かれた。
顔を上げた響の目に映ったのは、信じがたい光景だった。
〈フレイド〉がいた場所の遥か後方、駐車場のコンクリート壁、四角い巨大な建物の壁などそこかしこに巨大な獣に抉られたように砕け散り、その向こうの木々が何本も、ありえない角度にへし折れていた。アスファルトには、まるで巨大な刃物で斬りつけたかのような深い亀裂が走っている。
呆然とする響の耳に、鳴牙の冷え切った声が届いた。
「お前、俺まで消し飛ばすつもりかよ」土埃にまみれた鳴牙が、冷たい侮蔑の視線を響に向けていた。「俺が一般人だったら死んでたぞ」
死んでいた。
もし一緒にいたのが鳴牙でなく、たとえば、糸音だったら。
「……お前の力は技じゃない。ただの災害だ」
その一言が、脳天を叩き割るような衝撃となって響を襲った。
自分は、敵を倒したのではない。ただ、無差別に破壊の力をばらまいただけだった。守るための力が、守るべきセカイの一部を、ズタズタに引き裂いてしまった。力を使った右手に、脈打つような激痛が走る。まるで腕の中に溶岩を無理やり詰め込まれたかのようだ。
「観測した〈フレイド〉は消滅。任務は達成されました」
静が、敢えて感情を排した無機質な声で言う。だが結果は明白だった。
響にとっての初任務。それは敵に勝って、しかし自分自身には完敗したという、あまりにも後味の悪い結末に終わった。響は燃えるように痛む右腕を見つめたまま、言葉もなく立ち尽くすしかなかった。