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第6話 決意の引き金

 翌朝の空気は、いつもと同じように澄み切っていた。北アルプスの稜線が青空との境界をくっきりと描き、田園を渡る風が夏めいた匂いを運んでくる。

 セカイは、昨日となにも変わらない。いつもの時間にいつもの大糸線の電車が通り過ぎていく。それなのに隣を歩く幼馴染との間には、ガラスよりも冷たく分厚い壁が存在していた。

「……今日の数学、予習してきた?」

 耐えきれずに口を開いたのは、響だった。普段なら、もっと気の利いた冗談の一つでも言えただろう。だが今の彼が絞り出せるのは、そんな当たり障りのない、中身のない言葉だけだった。

「……うん、一応」

 糸音の声は、風に掻き消されそうなほどか細い。彼女は響の少し後ろを、俯きがちに歩いていた。響の視線から巧妙に自分を隠すように。

 違う。こんなんじゃない。俺たちの距離はもっと近くて、もっと楽しくて、もっと温かいものだったはずだ。響は自覚のないまま焦っていた。姫鶴静に告げられたセカイの話も、自らの右腕に宿った得体の知れない力も、全てまとめて思考のゴミ箱に放り込み、蓋をしていた。そんなものはなかった。俺たちはただの高校生だ。そう言い聞かせ、必死にこれまでの日常を演じようする。しかしそれをしようとすれとすればするほど、現実は残酷なまでにその歪みを突きつけてくる。

 糸音は響の痛々しいほどの明るさに、胸の奥がきりきりと痛むのを感じていた。

 ごめんなさい、響――と、心の中で何度繰り返したか分からない言葉をまた呟く。響がセカイから、あの時の不可思議な事件や静先生の話から目を背けようとしているのは、自分を守るためだと分かっている。自分のせいで、響は優しかった日常から引きずり出されてしまったのだ。

 心配だった。

 響が一人で全てを抱え込み、いつか壊れてしまうのではないかと、恐ろしかった。でも、だからといってどんな言葉を掛ければいいのだろう。「大丈夫だよ」と無責任に微笑むことも「一緒に戦うよ」と覚悟なく口にすることも、どちらもできない。そんな自分の沈黙と憂いを、響は『自分への拒絶』だと受け取っていることにも、薄々気づいている。

 互いを想う気持ちが、今はただ、二人を隔てる溝を深くするだけだった。

 そのぎこちない沈黙が、不意に破られる。

「みぃつけた」

 通学路から一本外れた、人通りのない路地。まるで滲み出すように、その少女は現れた。飴玉を舐めるような甘ったるい声。ゴシック調のドレスを翻し、金髪ツインテール、三日月型に笑う口、ギザギザの歯。人形のように愛らしい顔を傾ける少女――

 一目見て、こちらに敵意があるのだとわかった。

 響は咄嗟に糸音を背後にかばう。それでも今までの日常にしがみつこうとしていた思考が、まだかすかな希望を望んでいる。

「そんなに睨まないで」と少女は言った。「ウチはただ、素材集めに来ただけだから」

「素材集め?」

 少女はクスクスと笑い、糸音に向かって指を一本、優雅に立てた。

「〈制御コア〉なんだって、お前。骨喰(ほねばみ)が言ってた」

「な、なんだよお前」

「〈サイレンス〉」

 響と糸音にゾッと悪寒が走る。静先生が言っていたことを思い出した。糸音の〈超共振体質〉。それを狙う者たちがいると。

 ニッと笑う少女が、何かを思い出したように「あ。それともウチのこと? ウチはね、燭台奏ちゃん」と付け足した。

「目的は〈制御コア〉なんだけどぉ。……キミ、おもしろそうな子だね。壊れかけてる感じがすごくする」

 紫色の――なんだろう、濃い霧のようなものが燭台を中心に広がっていく。

「壊れかけているもの、ウチ、大好きでさァ」

 その言葉と共に、響のセカイがぐにゃりと歪んだ。

 目の前に、糸音がいる。血塗れの姿で、自分を見上げている。

『……なんで、助けてくれなかったの?』

 その唇が、恨みの言葉を紡ぐ。違う、と叫ぼうとするが声にならない。右腕が灼熱の炎に包まれる。制御できない力が暴走し、糸音を焼き尽くしていく。恨みに満ちた糸音の目が、響を見下している。

『響なんて、いなければよかった』

「やめろぉぉぉっ!!」

 響は絶叫し、幻覚を振り払う。幻覚……そう、幻覚だ。糸音はちゃんと後ろにいる。血に濡れてなんかいない。瞳を歪めてなんていない。紫色の霧が燭台奏の周囲でアメーバのように揺れ動く。あれに触れると幻覚を見せられる……のだろうか。

 燭台は楽しそうに手を叩いた。

「あっはぁ! すっごぉい良い顔! キミ、響くんっていうんだね。響くんの心の中、とぉっても見やすいよぉ! 罪悪感と、恐怖と、独りよがりの自己犠牲。ぜーんぶ、ウチ——」

 そして素早く、燭台は響のすぐ横に移動し、そっと耳打ちをした。

「(だぁいすき♡)」

「ふざけるなッ!」

 響は叫び、奏へと肉薄する。だが、その拳が燭台の顔面に触れる寸前、まるで陽炎を殴ったかのように、空を切った。実体がない。幻覚。

「残念。ウチに触りたかったら、響くんもこっち側に来なくちゃ」

 燭台の姿が揺らぎ、急に背後に出現する。その手には紫色のエネルギーが凝縮され、禍々しい大鎌が握られる。

「でも、絶賛現実逃避中のキミじゃ無理かなぁ。手伝ってあげよっかぁ? この〈制御コア〉をいたぶってぇ、手足を引きちぎってぇ、服の中たくさん悪戯しちゃおっか? そしたらキミ、もっともーっと素敵な音を奏でてくれるそう」

 燭台のターゲットが糸音へと移る。

 まずい。こいつは――たぶん本気だ。

 響は糸音の手を掴むと、振り返らずに駆け出した。

「あははははっ! 鬼ごっこ!?」

 背後から、無邪気な悪意が追いかけてくる。

 どこへ逃げる? どこなら、安全なんだ?

 脳裏に姫鶴静の言葉が蘇る。

 ――調律師。振動(ヘルツ)。ノイズ。

 戦うしかないのだろうか。学校までは走ってもまだ五分以上はかかる。そんなに長く逃げ切れるだろうか。

 いつもの通学路、いつもの交差点が見えてくる。南豊科駅から歩く同校の生徒の列。人目につけばあの女は引いてくれるだろうか。わからない。

「響!」

 糸音が叫ぶ。振り返ると燭台が大鎌を振るうまさにその寸前だった。

 これは、やばい――!

 響はそう心で思うよりも早く、身体を動かしていた。糸音の前に割り込み、咄嗟に右腕を掲げる。ギィンッ、と鼓膜を劈く甲高い金属音。紫色の刃が、響の右腕に食い込む。しかし肉を断つ感触はない。響の腕の皮膚に、マグマのような灼熱の亀裂が走り、その腕が鎌の刃をがっちりと受け止めていた。

「――ぐっ、ぁああッ!」

 ただ、衝撃までは殺しきれなかった。響の身体は糸音ごと交差点の向こう側まで弾き飛ばされる。咄嗟に糸音を庇うが、代わりに背中に硬い何かが激突し、肺から空気が全て搾り出される。

「がはっ……!」

 視界が明滅する。背を打ったのは、『道祖神』『大國天』と彫られた、二つの石碑。交差点を駅から学校方面へ歩く高校生たちは、なにが起きたのか理解できていないように足を止める。

「糸音……大丈夫か……!」

「うん、響のおかげで。でも響は……」

「大丈夫!」

 背中の激痛に耐えながら、響は糸音を背後にかばい、ゆっくりと体勢を立て直す。呼吸が苦しい。だが休んでいる暇はない。爛々と輝く悪意の視線が、真っ直ぐにこちらを射抜いている。

 しかしふと――

 頭の中に直接響いていたかのような燭台の嘲笑が、まるで分厚い壁に遮られたかのように遠のいた。まとわりつくような精神的圧迫感が消え、空気が浄化されたように澄み渡る。

「……へえ」道路の中央に立ち、左右から来る車を立ち往生させる燭台が、それを意に介さず、目を細めて響と糸音を見つめる。

「ウチの振動(ヘルツ)がうまく鳴らない……なるほど、古代の〈安定化装置〉ってわけ。やっぱこの土地、クソメンドーくさい」

 それでも笑みを崩さない燭台が歩みを進め、大鎌を振りかぶる。

「でもこの鎌まで壊せるかなぁ?」

 刃が振るわれる――響の迷いは、その瞬間、完全に消え去った。

 セカイがどうなろうと知ったこっちゃない。だれかの祈りなど関係ない。ただ、目の前の糸音が傷つくことだけは、絶対に許さない。守る。この腕で。どんな力に頼ってでも。

 響は自らの意志で、右腕に全身全霊の力を込める。〈ワールドストリングス〉?〈パーソナルHz(ヘルツ)〉? もうなんでもいい。制御など考えるな。ただ、自分が出せる力の全てを叩きつける!

 右腕に浮かび上がった炎の紋様が、これまでとは比較にならないほどの光を放つ。灼熱の力が荒れ狂う炎を纏い、その右ストレートが燭台へと炸裂する。

「――ッ」

 燭台の顔から、初めて余裕の色が消えた。彼女が咄嗟に構えた大鎌を、炎はいとも容易く融解させ、その華奢な身体を吹き飛ばした。

 アスファルトの上を数度転がり、彼女のせいで通行できなくなっていた車にぶつかって、燭台はようやく動きを止める。その肩口のドレスは焼け焦げ、白い肌に赤い傷が刻まれていた。

 人々の沈黙。燭台奏は、自らの傷を見下ろし、それから響を見上げた。その表情に浮かんでいたのは、驚き、そして――歓喜。

「あは……あはははははっ! 最ッ高! いいじゃんいいじゃん、すごく可愛い顔してるよキミ!!」

 カンカンカンと背後で遮断機が鳴る。彼女は、心の底から楽しそうに笑うと、すっと立ち上がった。

「ギャラリーに幻惑見せ続けながら戦うのもダルいし、でもそうしないと骨喰が怒るしな。奏ちゃん可愛いから、すぐ動画撮られちゃうからね」

 人差し指を頬に当て、ニッと笑う燭台。そう言われて、響はようやく気付いた。周囲の人々の視線がおかしい。だれもが呆然と立ち尽くしているが、その目はどこか虚ろで、焦点が合っていない。まるで集団催眠にでもかかったかのように、彼らの視線は響たちのことを見ていながら、認識できていないのだ。燭台が発生させた紫色の霧が、いつの間にか交差点一帯を薄く覆い、人々に認識阻害の幻覚を見せ続けていたのだ。

「今日はここまでにしてあげるよ、響くん。次に会う時まで、もっともっと壊れ甲斐のある子になっててね」

 燭台はそう言うと可愛らしくウィンクをしてハートを飛ばし、その姿は紫色の霧の向こうへと消えていった。彼女が消えると同時に、交差点を覆っていた霧が陽炎のように揺らめき、晴れていく。

 途端に、人々が反応を取り戻した。

「……あれ?」

「なんだ今の音……」

「まぶしかったな」

 幻覚から解放された人々は、なにが起きたのか理解できないまま首を傾げ、やがて何事もなかったかのようにそれぞれの日常へと戻っていく。彼らの記憶には、大きな音と眩しい光という、曖昧な印象しか残っていないようだ。あとに残されたのは、破壊されたアスファルトと、ボロボロの高校生二人だけだった。それに、道を通行できない車たちが困っている。

「……っ!」

 緊張の糸が切れた瞬間、右腕から全身へと激痛が走り、響はその場に膝をついた。力の代償。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げている。

「響!」

 糸音が駆け寄り、その身体を支える。糸音の声は震えていたが、もう響を恐れる色はない。

「痛ッてぇ……けど大丈夫」顔を歪めながらも、響ははっきりと答えた。「糸音を守れた……からさ」

「……バカ。無理しないでよ」

 その言葉に、糸音の瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。

「でも、守ってくれてありがとう」

「謝礼は、今度ヴィレヴァンで好きなものを買う権利」

「そのくらいは覚悟しなきゃね」

「しかも二個」

「それはちょっと傲慢」

 二人は笑い合った。昔に戻ったみたいに。

 ふと響は、まだ微かに熱を帯びる自らの右腕を見下ろした。糸音を守るための力。戦うための、唯一の手段。

 静先生に、頭を下げる必要がありそうだ。

 もう、元には戻れない。戻させてもらえない。響は糸音に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。

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