第5話 ワールドストリングス
吉野神社の鳥居をくぐり抜けて外に出た瞬間、急速に日常が色を取り戻していく。あれほど肌を粟立たせていた異質な気配は嘘のように消え去り、明るい日の元に照らされた青い安曇野の空が広がった。隣を歩く糸音の呼吸が、わずかに落ち着きを取り戻していることに、響は安堵よりも罪悪感に似た痛みを感じていた。
この力。一体なんなのだろう。彼女を守り、そして彼女の耳を塞がせてしまった力。
長野県安曇野高校は吉野神社に隣接している。
「二人とも、こちらへ」
教師とは違う、どこか冷徹な響きを帯びた声で、姫鶴静が高校敷地内へと手招きする。彼女は響と糸音、そして忌々しげに距離を置いて立つ雷切鳴牙を、当たり前のように先導し始めた。辿り着いたのは、普段は誰も寄りつかない空き教室。『文芸部』と書かれた札が、色褪せたまま掲げられている。鍵の掛かっていない扉を開けると、カビと埃の匂いがふわりと鼻をついた。かつて誰かの青春が詰まっていたであろう空間は、今はただの物置と化している。床には古びた文芸誌が数冊散らばっていた。
静は手近なパイプ椅子を二つ引き寄せ、糸音を座らせる。響が糸音の隣に立つと、静は教室の扉に歩み寄り、カチャリ、と無機質な音を立てて内側から鍵を閉めた。
セカイから隔離された。そんな錯覚を覚える。
「さて、どこから話したものでしょう」
静は腕を組み、値踏みするように響と糸音に視線を送る。鳴牙は、自分は立場が違うと言ったように窓枠に座り、鋭い三白眼を静と同じように響と糸音に向けていた。一時限目が始まるチャイムが鳴る。この教室の中だけが、まるで時間の流れから切り離されたかのようだった。
「まず、単刀直入に言いますね。このセカイは、あなたたちが認識している姿とは少し違います」
静の言葉を、鳴牙が笑い飛ばした。
「静先生。バカにもわかるように優しく説明してやんなきゃダメだぜ」
「……だれがバカだ。お前どこ高だよ」
響が睨みつけるが、鳴牙は動じない。
「蜻蛉」
鳴牙の短く意外な返答に言葉を詰まらせる響。長野県蜻蛉高校――そこは県内屈指の高偏差値を誇る進学校だ。
「学力とIQは一致しないのか」
辛うじて捻りだした嫌味に「ンだと」と鳴牙が身を乗り出す。
「やめなさい、二人とも」
静の一言が険悪な空気を凍らせる。彼女の瞳には、一切の感情が浮かんでいなかった。
「まず、万物の根源。物質も、エネルギーも、光や熱さえも……もっと言えば、私たちの感情や記憶すらも、元を辿れば超微細な〈紐〉と振動によって成り立っています」
静は指先で空中に紐を弾くような仕草をした。
「それを私たちは〈ワールドストリングス〉と呼んでいます。このセカイは無数の紐が弾けて音を奏でる、壮大なシンフォニーのようなものだと思ってください。私たちの身体も、この机も、窓から見える雲も、元を辿れば全て同じ紐の揺れ方の違いでしかありません」
シンフォニー……。その言葉に、響の脳裏で糸音の言葉を思い出す。彼女は昔から言っていた。「いろんな音が混ざって、頭の中でぐちゃぐちゃになるの」と。セカイが音楽だというのなら、彼女が苦しんできた耳鳴りや不協和音は、単なる体調不良などではなかったのではないか。セカイの軋みが、彼女の耳にだけ届いていたのではないか。
「ですが、完璧な演奏など存在しません。時には紐がほつれ、不協和音が生じる。それによって現れる魔物が〈フレイド〉です。それはセカイが生み出すノイズであり、あなたたちが先ほど遭遇したあの黒い糸くずのようなモノの正体です」
〈フレイド〉。紐のほつれ。ノイズ。
「〈フレイド〉を放置すればどうなるか……。〈フレイド〉は振動を食い荒らします。それは環境の振動だったり人の振動だったり。環境の振動を食い荒らされると、その土地の物質の結びつきが弱まり、痩せた土地となり、人々の生存に適さなくなるでしょう。人が襲われた場合、その人は自身の振動を奪われ体調に異常をきたしたり心の病気になったり、最悪の場合、死に至ります」
そんな馬鹿な話があるものか。響は唇を噛む。けれど、脳裏にはあの糸屑の人形が――ぎこちなく蠢く様が焼き付いて離れない。信じられない。だが、あの化け物のおぞましい感触と、自らの右腕に宿る熱が、あまりに生々しすぎた。常識が、足元から崩れていくような不快な感覚だった。
「そして〈フレイド〉を始末し――つまりセカイのノイズを調律し、セカイの調和を保つ者たちがいます。それが、私たち〈調律師〉。私たちは振動の力を用いて〈フレイド〉と戦います」
あまりに突拍子もない話に響の思考は追いつかない。
「じゃあ……俺の、この力は……」
「そう。それこそ〈調律師〉の力。〈パーソナルHz〉と呼ばれています。あなた自身が持つ固有の振動……それは〈ワールドストリングス〉に干渉するための、あなただけの帯域――すなわち色を持っています、流星響くん」
静はそこで一度言葉を切り、核心を見据えるように響の瞳を射抜いた。
「ただし、あなたの覚醒は少し特殊だったみたいですね。あなたのその力は、あなただけのものじゃない」
静が指し示したのは、窓の外、木々の向こうに見える吉野神社の杜だった。
「あの神社の〈茅の輪〉。あれは本来、人々が罪や穢れを祓うための浄化の門とされています。そこには、この土地に住む人々の、無病息災を願う〈祈り〉の振動が、長い年月をかけて蓄積されています。それは一種の、清浄なエネルギーが凝縮された高密度バッテリーのようなものでしょう」
響はごくりと唾をのんだ。
「あなたの身に起きたのは、奇跡的な共鳴……江雪さんを失うという極限の恐怖と怒り……その強烈な感情が鍵となり〈茅の輪〉に蓄えられた膨大な祈りのエネルギーを、強制的に解放した……」
静の言葉が、教室の埃っぽい空気を震わせる。
「あなたの怒りだけじゃない。この土地に生きる人々の、ささやかで、でも切実な祈りこそが、あの炎を顕現させたんですよ」
「……なんだよ、それ」
響は、自分の右腕を見下ろした。まるで、自分のものではない、なにかおぞましいものが張り付いているような気がした。見ず知らずの、顔も知らない大勢の人間の想い。そんなものが、この腕に宿っているというのか。
「なんだよ、借り物の力か」
壁に寄りかかったまま、鳴牙が嘲笑うように吐き捨てた。その言葉が、響の胸に鋭く突き刺さる。
「でも、俺は……」響の声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。「俺は、そんな力が欲しかったわけじゃない。ただあいつから、糸音を……」
「そうなんですね。でも、あなたは目覚めてしまった」静は淡々と続ける。「そしてきっとその力は、これから江雪さんを守るために必要になると思います」
静の視線が、憂いの表情で話を聞いていた糸音へと注がれる。
「江雪さん……あなたの体質を、私たちは〈超共振体質〉と呼んでいます。〈ワールドストリングス〉の振動を無意識に取り込んでしまう、極めて稀有な特性です。その体質が〈フレイド〉を引き寄せ、同時に、ある者たちの標的にもなり得ます」
「ある者たち……?」
「〈サイレンス〉」
その単語が静の口から放たれた瞬間、教室の空気がピリッと静電気を纏ったかのようにふわついた。それまで窓枠に座り、どこか芝居がかった態度でいた鳴牙の纏う雰囲気が一変している。彼の身体から、ちりちりと電気が漏れている。瞳の奥に宿る冷ややかながらも燃え上がるような憎悪が、どこか虚空を見つめている。
「彼らは私たちと同じ〈調律師〉でありながら、全く異なる思想を持つ組織です。〈サイレンス〉は〈ワールドストリングス〉を完全に掌握し、苦痛や悲しみといった振動を根絶した〝静寂なる調和世界〟を創造しようとしています」
静はそこで、初めて人間らしい、苦々しい表情を浮かべた。
「そのために、おそらくは江雪さんの力が必要となるでしょう。今はまだ彼らに見つかっていませんが……時間の問題です。江雪さんは〈サイレンス〉にとって計画の成否を握る最高の触媒と見なされる危険があります」
その言葉が、引き金だった。
「冗談じゃないッ!!」
響の絶叫が、古い教室の窓をビリビリと震わせた。パイプ椅子が床を引っ掻き、けたたましい音を立てる。
「セカイがどうとか、祈りがどうとか……知るかそんなもんッ!」
恐怖も、混乱も、怒りも、何もかもがごちゃ混ぜになって、制御できないまま噴出する。響は、静と鳴牙を睨みつけた。
「俺がやりたいのは、セカイを救うことじゃない!〈サイレンス〉? そんな奴らと戦うことでもない! ただ、ただ……!」
響は言葉を切り、振り返る。そこにいるのは、不安そうに自分を見上げる、たった一人の幼馴染。
「ただ、糸音に……こいつに、普通の生活を送ってもらいたいだけだ!」
「……響」
糸音が、か細い声で彼の名前を呼ぶ。その声が、痛いほど優しい。だからこそ、響はもう一度、はっきりと宣言した。
「〈フレイド〉?〈サイレンス〉? ワールド……なんとか? そんなもの、俺たちには関係ないですよ」
響は静と鳴牙に背を向け、糸音の隣に立った。もう何も言わせないし、聞くつもりもない。
「行こう、糸音」
響は有無を言わさず糸音の柔らかい手を取り教室を後にした。そしてそのまま一時限目の途中から教室に入り、努めていつも通りの毎日に参加する。
空き教室に取り残された静と鳴牙。鳴牙は黙って静の反応を伺っている。静は長い沈黙の後、だれにでもなく、ゆっくりと頷いた。
「……今はそれでいいかもしれないけどね」
二人が去った教室には、沈黙だけが取り残される。その静寂を破ったのは、鳴牙だった。
「……静先生」その声からは先ほどまでの刺々しさは消えていたが、彼が身に纏う電気のようにピリついた棘が残っている。「あんた、なんで〈サイレンス〉のことをそこまで知っているんだ。それに昨晩現れたあの女――燭台奏のことも知っている口ぶりだったな」
静は、窓の外に広がる安曇野の風景に視線を向けたまま、すぐには答えなかった。けれど、やがて諦めたように小さく息を吐く。
「……私も、かつては彼らと同じ場所にいたからですよ」
「あ……?」
「〈サイレンス〉の前身となった、研究組織にね」
その告白は、重い響きを持っていた。鳴牙が何かを問い質す前に、静はくるりと彼に向き直る。その顔には鉄のような仮面が貼り付けられていた。
「話は終わりです。他校の生徒がいつまでも無断で敷地内に立ち入っているものではありません。早く出ていきなさい」
「はっ、あんたが連れてきたんだろうが」
「ですから、もう出ていきなさいと言っているんです」
有無を言わせぬその口調は、理不尽極まりなかった。