第4話 赤炎と黄雷
――響……だよね?
響の内側で木霊しているのは、江雪糸音が絞り出した、か細い声。
糸音にそのつもりはないだろう――けれどそれは響にとって、響の存在そのものに、冷たい刃を突き立てるような声だった。
響は恐る恐る、自らの右腕に視線を落とす。服の袖は肘までまくられたままで、そこには今までなかったはずの紋様が、まるで熱した鉄を押し当てた火傷のように浮かび上がっていた。複雑な曲線が絡み合う、赤い亀裂。その中心からは、まだ燻る溶岩のような赤い熱が放たれている。
これが、あの化け物――〝黒い糸くず〟を消し去った。乾いた藁を円環状に編んだ〈茅の輪〉から迸った、炎の奔流。その〈茅の輪〉は、今はなにごともなかったかのようにただそこに鎮座している。
改めて、膝を落としスカートを汚した糸音と視線が交差した。彼女の瞳には、親しい幼馴染を見る色は欠片もなかった。危機から救われた安堵もない。ただ、得体の知れないものに対する不安な表情が色濃く浮かんでいた。彼女の視線が、響の顔ではなく、その右腕に釘付けになっていることに気づく。
「俺だよ。糸音」
いつも通りの、努めて明るく軽い口調を意識した。この一言で、彼女はホッと胸を撫で下ろし「もう……びっくりした」とでも言って、はにかんでくれるはずだった。だが、響の言葉は宙を滑り、彼女の足元に力なく落ちて砕けていった。
糸音は答えなかった。代わりに、その肩を微かに震わせ、響の一挙手一投足にビクリと肩を震わせている。その距離が――心の距離が、響にはまるで深淵のように感じられた。
これまで、俺たちの間には決して揺らぐことのない絶対的な繋がりがあったはずだ。しかし、今はどうだ。俺は彼女を不安がらせている。
でも、なぜ? どうして?
糸音を襲った謎のモンスターから守り、助けることができたのに。響が困惑していると、糸音はそっと両耳に手を添えた。
音が――、ノイズが――、酷いのか。
俺がいるのに、苦しいのか。俺は、糸音の苦痛を和らげる〈緩和剤〉。それが俺、流星響という人間の存在証明だ。でも今の糸音の様子は、まるで。
目の前の現実を受け止めきれず、響はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
その膠着した空気を切り裂くように、別の足音が境内に踏み入ってきた。
砂利を踏みしめるその歩みには、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。正面の鳥居から姿を現したのは、響たちと同じくらいの歳の少年だった。切れ長の鋭い目に、色素の薄い髪。首には無骨なヘッドフォンがかけられている。
「そのデタラメな振動……テメェもセカイを乱す側か」
雷切鳴牙。彼は昨晩〈サイレンス〉を名乗る少女、燭台奏との戦闘で、心の奥底に眠るトラウマを抉られ、完敗していた。その不快な残響は、未だ彼の内で渦巻き、思考を焦げ付かせている。
吉野神社の境内。強大で、かつ制御されていない振動の残滓。それを追って辿り着いたこの場所で彼が目にしたのは、まさしくその苛立ちを逆撫でする光景だった。
まるで空間に焼き付いた火傷のように、大気が陽炎のように歪んでいる。その中心に、力の源であろう少年が呆然と立ち、そして、彼に怯えるかのように少女が膝をついている。
鳴牙の価値観において、力とは完璧に制御されてこそ意味を成すものだった。制御できぬ衝動に身を任せるのは、ただの暴力であり、獣であり、弱さと無能の証明に他ならない。それは彼が最も嫌悪し、過去に捨て去ったはずのものだった。
鳴牙の目が、侮蔑と敵意を宿して響を睨みつける。
「答えろ。……男の方だ。お前も燭台奏の一味か」
吐き捨てられた言葉は氷のように冷たい。その指先からパチパチと威嚇するような放電の音が響き始める。黄色い電光が、彼の怒りを代弁するように揺らめいた。
殺気。純粋な敵意に晒され、すでに糸音のことでショートしていた響の思考は、無理やり再起動させられた。だが、意識に上ったのは複雑な状況判断ではない。ただ一つ、燃え盛るような本能。
――糸音を、守らなければ。
咄嗟に、糸音の前に立ちはだかるように一歩を踏み出す。その動きは、完全に無意識だった。
鳴牙はそれを明確な敵対行為と判断した。
「イエスってことだな!」
短い宣告と共に、鳴牙の右腕が閃く。放たれたのは、槍のように鋭い一筋の雷撃。黄色く荒々しい光が、空気を引き裂いて響へと迫る。
なんだこれ。速い――
響は理屈ではなく、ただ感情のままに右腕を振るった。自らの内に宿った、まだ名も知らぬ力を捻りだす。昂る感情が、そのままエネルギーへと変換されるのを感じる。
ゴオッと空気を喰らう音を立てて、響の腕から赤い炎の塊が舞った。それは洗練された技などではなく、ただの暴力的な熱量の暴発に近い。
赤と黄の全く性質の異なる二つの力が、神社を背景にして激突した。
凄まじい衝撃波と爆音が周囲を蹂躙する。二つの力の衝突点から熱風が吹き荒れ、石灯籠が凄まじい風を受け、〈茅の輪〉がけたたましく揺れる。
鳴牙は舌打ちし、さらに電撃の密度を上げる。バチバチと無数の雷の矢が、雨のように響へと降り注ぐ。対する響も、ただがむしゃらに炎の腕を振るい続ける。
なんだこれ。なんだこれ。
なんだこれ、なんだこれ!
相手はなに者なんだ。なにをしているんだ。そして俺は、それをどうしているんだ。電撃が炎を穿ち、炎が電撃を霧散させる。
なんだこれ! 鬼滅の呼吸か? なにかの呪術か!? そんな異能、本当に実在しているのか!?
制御などできていない。それでも、糸音に攻撃の余波が及ぶことだけは、絶対に許さなかった。赤い炎が黄色い雷撃を飲み込み、黄色の雷撃が赤い炎を貫く。神社を取り囲む木々の太い枝に火の粉や電撃の迷子が力なくぶつかり、消えていく。拝殿の正面で、凄まじい衝突が巻き起こる。
「お前らの目的はなんだ! 答えろ!」響と対峙する、荒々しい彼がそう叫ぶ。「答えないなら――もうどうでもいい」
そして彼の右手に太陽よりも眩しい光が集中した。凄まじい攻撃が繰り出される。相手は今までこちらの様子をみていたんだ。響がそう直感し、力の差をまざまざと感じ取った、その時だった。
「そこまでにしなさい」
凛として、しかし有無を言わせぬ絶対的な凄みを持った声が、全ての音を支配した。響と鳴牙の間に、いつの間にか一人の女性が静かに立っていた。
静……先生。
だがその佇まいは、響が知る現代社会担当教師のそれとは全く異なっていた。穏やかな微笑みは消え、その瞳には全てを見通すかのような、底知れないほどの冷静さが浮かんでいる。
静は、荒れ狂う二つの力の前で、なんの動揺も見せずに片手の指をぱちん、と鳴らした。すると彼女の周囲から無数の青い光の粒子がまるで蝶のように舞い上がり、響の纏う炎に触れると、燃え盛っていたはずの真っ赤な熱源は勢いを失い、陽炎のように透明になって掻き消えた。鳴牙の放つ黄色の雷撃に触れると、激しい放電は嘘のように弾けて消え、ただの静電気のきらめきとなって消滅した。
攻撃でも防御でもない、ただその場を支配しする圧倒的な力の介入。戦闘の熱が急速に奪われ、境内に静寂が戻ってくる。
呆然と青い光の残滓が舞う中空を見上げる響。すぐ後ろで、目の前の光景を信じられないといったように、息を呑む糸音。
静先生はつかつかと黄色い髪の少年の元に歩くと、パシンとその頬に平手打ちをした。突然のできごとに、彼はしばらく唖然としていたが。
「……痛ってぇな! なにすんだよ!」
「鳴牙こそなにをしているの」あの優しい静先生が怒っている。
「なにって……コイツが〈サイレンス〉の一味だからぶっ殺そうとしたに決まってんだろ!」
頬を抑えながら、鳴牙は獣のように唸る。
しかし「あの子たちは〈サイレンス〉とは無関係です」と、静の射貫くような冷たい言葉を受け、表情は徐々に勢いを失っていく。
「はぁ!?」
「そもそも彼の〈炎域〉は荒々しいけれど、ただ純粋なだけ。淀みも、ましてや悪意もないことくらい、あなたにも感じられたはず」
「でもじゃあなんだってんだよ! このデタラメな力の暴走は!」
鳴牙が必死に反論の糸口を探す。だがよく見ると、〈炎域〉の使い手は背後の少女を背に守っているかのようだ。鳴牙は目を見開いた。
「それは私にもまだわかりません。でも」と、静が鳴牙を冷たく一蹴する。「あなたのその激情こそ、あなたが唾棄する『デタラメな力の暴走』でしょう? 昨晩、奏に敗れた自分の苛立ちをぶつけたかった……そんな風に見えますよ」
追い打ちをかけるような一言に、鳴牙は返す言葉を完全に見失った。忌々しげに舌打ちをすると、バツが悪そうにそっぽを向いてしまう。その横顔は、先程までの凶暴さが嘘のように、まるで叱られた子供のようにも見えた。
静はふぅ、と小さく息を吐くと、その視線を鳴牙から、呆然と立ち尽くす響と糸音へと移した。
そこで初めて、響は静と視線が合った。
その瞳は、教室で見るものとは全く違っていた。優しい教師のそれではない。どこか哀れむような、それでいて、これから起きる全ての出来事を見通しているかのような、厳しく、そして深い色をしていた。
「よく……鳴牙と戦えましたね。生きていて本当によかった」
口調は優しい。が、この人も俺たちとは違う。
鳴牙と呼ばれた彼も、静先生も、きっとセカイのどこか裏側にいる、特別な人間なんだ。響はその事実を決定的に理解した。そして、そのセカイに片足を突っ込んでしまった自分自身にも。
やがて、静がゆっくりと口を開いた。その声は、戦闘の熱が冷めきった境内に、凛として響き渡る。
「流星さん、そして江雪さん。少し、話をしましょうか。あなたたちが巻き込まれてしまった……このセカイの話を」
響は相変わらず立ち尽くしているその傍らで、不安げに響の服の裾をぎゅっと握りしめる糸音。
「糸音……」
それに気付いた響は、逆に戸惑った。その様子に、糸音は心底申し訳なさそうに言う。
「ごめん、響。さっきは少し驚いちゃって……すごく音がうるさくて。でも今はもう大丈夫。心配させて、ごめんね。守ってくれたんだよね。……ありがとう」
糸音の言葉に、少しだけ遠慮しているかのようないつもの笑顔に、響は涙が出そうだった。
美しくも穏やかだった安曇野は、ただ変わらずそこにあるというのに。