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第2話 安息の繭

 夜明け前の空気は、硝子のように冷たく澄み渡っていた。

 東の空が白み始め、北アルプスの稜線が深い藍色から柔らかな紫へとその表情を変えゆく頃。江雪家の二階、響の部屋では、ベッドの主がすでに活動を開始していた。

 軋む筋肉の悲鳴を、吐き出す息で無理やりねじ伏せる。床に両手をつき、流星響は静かに、そして一心不乱に腕立て伏せを繰り返していた。汗が顎を伝い、ぽたりと畳に小さな染みを作る。

 大それた正義感を抱いているわけじゃない。セカイを救いたいなどと、微塵も思ったことはない。ただ、己の無力さが、どうしようもなくもどかしかった。糸音の――他人の痛みに過剰に共感してしまう、このひどく臆病な性格を治したかった。

 だから、鍛えている。

 せめてこの身体だけは、自分の意志のままに動くように。せめて、たった一人、隣で苦しむ幼馴染だけは、何があってもこの手で守り抜けるように。それが、響が夜明け前の静寂の中で自らに課した、誰にも明かすことのない習慣だった。

「――響、まだぁ?」

 階下から聞こえる、少しだけ不満げな糸音の声に、響は「おー、今行く!」と慌てて声を張り上げた。


 長野県安曇野高校。

 数学担当の教師が抑揚のない声で黒板に数式を書き連ねていく。その規則正しいチョークの音が、江雪糸音にとっては耐え難い苦痛の始まりだった。カリ、カリ、と硬質な音が鼓膜を直接引っ掻いているかのようだ。生徒たちがノートに文字を走らせる、無数のペンの音。ひそひそと交わされる囁き声。そんな些細な音の全てが、彼女の頭の中で増幅され、不協和音の濁流となって渦を巻いていた。

(……うるさい)

 セカイから発せられるあらゆる音が、容赦なく彼女を苛んでいく。まるで、自分だけ調律の狂った楽器になってしまったかのようだ。ぎゅっと唇を噛み、耳を塞ぎたくなる衝動を必死にこらえる。

 ただ一人、隣の席の響が糸音の異変に気づいていた。響は誰にも気づかれないよう、そっと自分の椅子を糸音に近づける。不思議なことに、それだけで、あれほど乱雑に鳴り響いていたノイズの奔流が、すうっと凪いでいくのだ。

「大丈夫?」

「……うん。ごめん」

「別に。いつものことじゃん?」

 教師の目を盗んで交わされる、最小限の会話。響の存在は、まるでノイズキャンセリング機能のついたイヤホンのようだった。けれど、その効果も万能ではない。授業が進むにつれて再び顔色を失っていく糸音に、響は小さくため息をついた。これ以上は限界だろう。彼は静かに挙手し、教師がわずかに頷くと、糸音の腕を支えて教室を後にした。

 周囲の生徒たちは、時折体調を崩す糸音に「またか」という視線を向ける。そこに悪意はないが、それが逆に彼女をより深い孤独の繭へと閉じ込めていく。響だけが、いつだってその繭に小さな穴を開け、光を届けてくれる唯一の存在だった。

 保健室のベッドに横たわる糸音。その横にパイプ椅子を置き、響が授業のプリントに目を通す。

「私のせいで、響の時間、また奪っちゃったね」

「ホントだよ。俺が数学マスターになる可能性を奪いやがって」

「……ぷっ。なにそれ。ごめんね」響の軽口に、糸音の口元から小さな笑みがこぼれる。「じゃあ今度、お礼になんか奢る」

「サティのサーティワン爆盛りな」

「……太るよ?」

「糸音より?」

 響が笑うと、糸音は枕を掴んで響きをぼふっと叩いた。

 二人とも軽口を叩き合いながら笑っている。けれどその実、糸音は罪悪感から逃れられずにいた。もし、私が普通の子だったら。響はもっと自由に、自分の時間を生きられたはずなのに。

「じゃ、俺は戻るわ。なんかあったら呼べよ」

「うん」

 ひらひらと手を振って保健室を出ていく響の背中を見送りながら、糸音はゆっくりと目を閉じた。

 響が居てくれると、どんな時も静寂が広がる。特に問題がない時は離れていても大して支障はないのだけれど、糸音の身体が発作的に音を拾いだしてしまうと、響の静寂が必要になる。それは息が続かない状態の水面から顔を出した時のようにひっ迫していて、そして心地のいいものだった。だからたとえ症状が落ち着き、響が同じ学校の中にいるとわかっていても、彼が自分の傍から離れてしまうセカイは、少し不安だった。もちろん、響という存在に守られて、セカイから隔絶された場所でしか得られない、借り物の安らぎということはわかっている。いつかこの繭を破って、自分の足で自由に、どこへでも行ってみたい気持ちもある。けれど、それはそれでどこか切なかったりもするのだ。

 はぁ。惨めだな。

 糸音の想いは重いため息となって白いシーツに溶けていった。


 学校が終わり、江雪家リビングで過ごす時間。地元のニュース番組『ゆうがたGET!』が、安曇野の片隅で起きている奇妙な現象を報じていた。

『いやー、不思議なこともあるもんですねぇ! なんでも、穂高のあたりで小石がひとりでに浮かび上がったり、大王わさび農場の水車近くで、奇妙な水の波紋が広がったりするそうですよ!』

 タレントが、オカルト専門家と称する男の話に大袈裟な相槌を打っている。

「……だってさ。響、信じる?」

 ソファに並んで座り、糸音がマグカップに口をつけながら尋ねた。

「さあ。テレビ局がネタに困ってんじゃないの」

 響は興味なさそうに答えながら、ポテトチップスに手を伸ばす。

「でもちょっと面白そうじゃない? ひとりでに浮く小石。見てみたいな」

「ありえないって。水の波紋も地震の余波かなにかでしょ」

 ソファでテレビを見ていた響が呟く。糸音も「まぁそうだよねー」と相槌を打ち「そのうち大きな地震とか来るのかな」などと他愛のないやり取りをする。

 テレビの話題は切り替わり、信州の旬を伝えるコーナーを終えると『ゆうがたGET!every.は、YOUが、ターゲット!』と決め台詞を放ち、次のニュース番組へと移行した。

 響は、ふと窓の外に視線をやった。どこにでもある、見慣れた安曇野の住宅街の風景。電柱、瓦屋根、遠くに見える常念岳のシルエット。その景色が、ふと――まるで真夏の陽炎のように、ぐにゃりと一瞬だけ歪んだかのようにみえた。

「……ん」

 目をこすり、瞬きをする。陽炎の歪みなんて、どこにもない。

 テレビは全国ニュースを開始している。全国的には、もうすぐ梅雨に入るらしい。ということは、しばらく晴れの日が続きそうだ。例年そうだ。梅雨になると晴天が続き、梅雨明けになると雨が降り出す。隣では、同じようなことを糸音が呟き、番組にツッコミを入れている。何も変わらない、いつもの日常。こんな生活も、きっとしばらく続いていくのだろうと響は漠然と思っていた。

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