第1話 セカイのノイズ
夜の闇を切り裂くように、無数のネオンが降りしきる雨に滲んでいる。
長野県の中心都市、松本駅前。電車の発車を告げるベルの音、行き交う人々の控えめな喧騒、湿ったアスファルトを跳ねる車の走行音。あらゆる音が混ざり合い、一つの巨大なノイズが街を支配していた。
その喧騒を遥か眼下に見下ろすビルの屋上に、一人の少年が佇んでいた。雨に濡れるのも厭わず、黒い服を纏い。その首にはヘッドフォンが無造作にかけられている。
雷切鳴牙は、セカイの音など意にも介さないとでも言うように、ただ静かに眼前の空間を睨みつけていた。
常人には何も見えないはずの空間が、古いテレビの映像のように、ぐにゃりと歪む。
ジジッ——、と耳障りなノイズと共に、虚空から黒い糸屑が吐き出された。それは意思を持つかのように寄り集まり、やがて漠然とした人型を形成していく。全体が黒い糸の塊でできた、のっぺらぼうの人形。その中心部だけが、まるで断線したケーブルのように赤く明滅し、不気味な脈動を繰り返していた。
〈フレイド〉。
セカイの綻びが生み出した不純物。それが一体、また一体と、虚空の奥から滲み出してくる。
鳴牙は表情一つ変えていなかった。ポケットから取り出したスマートフォンを片手で操作し、耳元へ運ぶ。
「……松本駅東口。〈フレイド〉を複数体確認した。処理するぜ」
応答を待つこともなく、彼は通話を切る。そしてその右手の指先から、夜闇を貫く濃い黄色の雷光が迸った。一体の〈フレイド〉が中心のコアを焼き抜かれ、光の繊維となって霧散する。鳴牙は間髪入れずに身を翻し、空中で踊るようにしながら、立て続けに雷撃を放った。それは精密な射撃のようでもあり、苛烈な剣舞のようでもあった。数秒後、全ての〈フレイド〉を処理し終えた彼は、何事もなかったかのように再びビルの上に立ち、スマートフォンの通話ボタンを押す。横断歩道を歩く色とりどりの傘たちは、なにも気付いていない。
「処理完了。被害なし。……ああ、問題ない」
電話の向こうにいる相手に淡々と告げ、「じゃあな、静先生」と通話を終了する。
鳴牙は空を見上げた。
降りしきる雨が、その顔を濡らしていく。セカイの裏側で人知れず行われる戦い。それが、彼の日常だった。
◇
うららかな陽光が、教室の窓から惜しみなく降り注いでいる。
長野県安曇野高校の教室。昨晩の雨が噓のように空は晴れ、穏やかな時間が流れていた。窓の外には、のどかな田園風景と雄大な北アルプスの山並みが広がっている。
「――この安曇野に古くから伝わる泉小太郎の伝説。彼は、かつて湖だった痩せた土地の安曇野を憂い、母である犀龍の背に乗って岩を崩し、湖の水を抜いたといいます」
教壇に立つ現代社会担当教師、姫鶴静は、穏やかな笑みを浮かべて語りかける。
「やがて湖は犀川となりましたが、安曇野は湧き水が豊富な地域と、逆に水を吸ってしい本来なら田園に適さない土地とに分かれていました。特に安曇野中央部では、長く枯れた土地が続いたといいます。しかしそれも江戸時代に拾ヶ堰が作られたことによって、安曇野はようやく今のような豊沃な土地となり、現代へと至っているのです。安曇野のこの風景は、様々な人が歴史を紡ぎ、長い時を経て作り出した、自然と人とが調和した姿なんですね」
眠たい授業が続く。流星響は、隣の席に座る江雪糸音の横顔をそっと盗み見た。彼女は授業に集中しているのか、真っすぐ黒板を見つめている。その穏やかな表情に、響はなんとなく安堵の息を漏らす。
放課後、響と糸音は二人並んで家路につく。響が糸音の家に居候するようになって、もう何年になるだろうか。いつ、だれが、どのように決めたことだったろうか。幼過ぎて、当時のことはもう覚えていない。ただ糸音の体調を考えれば、それが一番の選択だった。響と糸音は、もはや家族のようなものだった。
「ただいま」
我が家のようにリビングのドアを開け、電気とテレビを付ける。これまでシンとしていた一軒家が目を覚ましたかのように、ニュース番組の音声が流れはじめる。
『――主に安曇野地域で頻発する原因不明の異常現象。専門家は地盤の緩みとの関連を指摘しています』画面は、最近続く微小振動地震を調査するヘルメットを被った作業着のおじさんたちの姿を映していた。『特にここ数ヶ月、長野県の安曇野周辺では、私たちの感覚では体感できないほどの小さな地震が連続していると観測されています』
明るく暖かいスタジオに場面が切り替わり、人の良さそうなアナウンサーが神妙な顔で語り始める。
『この地域には糸魚川から安曇野や松本を通り静岡に抜ける、糸魚川構造線と呼ばれる大きな断層、フォッサマグナが走っています。今回の連続微小地震について、これが関連しているのではないか、大地震の前触れではないかという問い合わせが松本市役所や安曇野市役所に相次いでいます』
「気になる?」アナウンサーが原稿を続ける中、静かな笑顔で、糸音が言う。「安曇野大地震、いつかあるってずっと言われ続けてるもんね」
「あぁ、まぁ。大地震が来たらウチの実家は潰れるだろうなって。でも糸音の家なら安全」
そう言うと、少しだけ明るかった糸音がやや下を向いた。
「たまにはお父さんお母さんに会いたいよね」
「いや、別に」また、変なことに気をつかわせたかもしれない。響の家族の話となると、糸音の表情が若干曇るのだ。「おれ、もともと両親とあんまし仲良くないから。だからこうやって離れて暮らせるのはありがたい」
「でもそれも、ずっと小さい頃から私と一緒だったからだよね」
「小さい頃は糸音の体質なんて知らなかったしさ。だからシンプルに糸音がおれに寄ってきてくれて嬉しかったってだけ。それで今こういう生活で落ち着いてるんだから、おれはこの生活で満足してるし、いい家に居候させてもらってるのはありがたいと思ってるよ」
爽やかに言いきり、糸音はコクリ、と頭を垂らしたまま頷く。
「だけど、響もそろそろ彼女とか欲しいでしょ。でも私なんかが一緒だから、邪魔しちゃってる」
それは逆だろ、と響は思う。
糸音はいい子だ。自分が響に依存しなければまともに生活できないことを知っている。だからよく、こんな風に響を気遣ってくれる。
けれど、きっと逆なんだ。
糸音は解放されたがっている。
こいつだって彼氏の一人や二人、欲しくなる年頃だ。それか同年代の女の子たちと一緒に松本駅前にでも繰り出して、カラオケやらカフェやらで遊んで楽しみたいだろうに。
「お互い様じゃね?」と、響はスクールバックを床におろした。「糸音、もし病気が治って一人になったらなにしたい?」
「んー。響の尾行」
「なんだそれ」
「一人になった響がなにするのかなって、こっそり見てみたい」
「お前さ。もし俺がお前にそれしたらどう思う?」
「キモッ。ストーカー!」
「さっさと風呂入れ」
「はーい」
糸音のいたずらっぽい笑みは、学校では中々見せないレアな表情だ。いつかこういう俺しか知らない糸音のすべてを知る男が現れるんだろうな——そう思うと、不思議と響の気持ちは沈んでいく。けれどすぐに頭を振って気持ちを改めるのだ。俺たちはそういう関係じゃない。兄妹というか、姉弟というか。そういう、家族が家族から離れてしまうという意味での沈む気持ちに違いないと、響は思うようにしていた。
その日の夜。
やはり体調が優れないのか、糸音はリビングのソファで膝を抱えていた。なんとなく眠れなかった響が隣に座ると、彼女は躊躇うように、そして、最終的には安心しきったように、少しだけ近づいてくる。その距離の分だけ、響は糸音から離れた。
俺たちの距離は、一定を保たなければならない。そうでないと――この危うく、歪で、しかし何物にも代えがたい穏やかな時間。
この二人の時間が、響にとっては自分が自分であることの証のように感じていた。