プロローグ
セカイは紐でできている。
この星も、大気も、そこに生きる万物も。人々が今している呼吸も、胸に秘めた淡い恋心も、熱い野心も、冷めた諦観も、遠い過去の記憶さえも。そのすべてが、人間には到底知覚できないほど微細な〈紐〉の振動――その振れ方によって成り立っていた。
これは、そんなセカイの、ほんの些細な綻びと、ささやかな調和を巡る物語。
◇
肺の隅々まで洗い清めていくような、清冽な空気が満ちている。
信州、安曇野の朝。
東の空から差し込む陽光が、常念岳の峻険な稜線を桃色に染め上げていた。眼下に広がる広大な田園には、穏やかな流れの拾ヶ堰から分流された豊沃な水が絶え間なく流れ、その清らかな水流の囁きが辺りの静寂へと溶けていく。やがて大糸線の六両編成の電車がその田園風景を貫いて、無機質な車両がガタンゴトンと走り去ると、忙しなかった静寂はまた、その緩やかさを取り戻した。遠くでは、太く白いパイプかなにかで作られたかのような電波塔が最頂部をチカチカと白く点滅させている。
まだ朝靄の名残が漂うアスファルトの通学路を、二つの影が並んで歩いていた。制服の着用が義務付けられていないこの地域の多くの高校生と同じく、彼らもまた、思い思いの私服に身を包んでいる。
流星響は、オリーブグリーンのパーカーに少し色褪せた薄いデニムジャケットを羽織っていた。この服装が、他ならぬ隣を歩く少女が選んでくれた服であるということを、響は少し気恥ずかしく、それでいて誇らしく感じている。
「――っ」
不意にその少女、江雪糸音の足が止まった。繊細なレースの襟がついた、少し大きめのワンピースに包まれた華奢な身体が揺れる。長い黒髪がさらりとこぼれ落ち、蒼白になった顔を隠した。白い指先が、こめかみを強く押さえている。
その変化に、響は言葉を発するより早く反応した。ごく自然な動作で糸音の肩をそっと支える。まるで、それが長年繰り返されてきた、二人だけの決め事であるかのように。
響の体温と気配がすぐそばにある。その温もりを感じた瞬間、糸音を苛んでいた見えない何かが、すうっと潮が引くように和らいでいった。嵐のように鳴り響いていた耳鳴りが遠ざかり、セカイに色が戻ってくる。彼女は浅く息をつき、支えてくれる響のジャケットの袖を、弱々しく掴んだ。
「……ごめん、響。また迷惑かけちゃってる」
「ん。別にいつものことだろ。……で、もう大丈夫なのか?」
努めて明るい声で問いかける響に、糸音はこくりと頷く。その顔はまだ白いままだが、苦痛の棘は消えているようだった。彼女は掴んでいた響の服の袖をくい、と少しだけ引いて彼の顔を覗き込むと、悪戯っぽく微笑んだ。
「んー、でもやっぱ、まだダメかも。貢茶飲みに行きたい」
「なんでだよ」
「そしたら一発で治るから」
「コンビニの?」
「お店お店」
「長野駅にしかねーよ」
「買いに行こ?」
「アホ。最寄りから松本駅まで行って長野駅って何時間かかるんだよ。一日潰れるだろ」
響が心底呆れたという声色で返すと、糸音はわざとらしく頬をぷくりと膨らませた。
「ケチ。響のいじわる。私の体調なんかどうでもいいんだ」
「どうでもいいよ」
「うわ。ひっど」
やれやれと首を振りながらも、響の口元は自然と緩んでいた。彼女がこんな風に我儘を言えるくらいに回復したのなら、それで十分だ。糸音は響の袖を掴んだまま、こてん、と自分の頭を彼の肩に軽く預ける。シャンプーの甘くて清潔な香りが、ふわりと響の鼻先を掠めた。
「でも、ありがと。おかげさまで、もうすっかり元気」
そう言って顔を上げた彼女の瞳は、悪戯っぽい光が消え、透き通るような穏やかさを取り戻していた。まるで、嵐が過ぎ去った後の、静かな湖面のように。
彼女は響の袖からそっと手を離すと、一歩だけ後ろに下がり、改めて響に向き直った。その一歩分の距離が、なぜか響の胸をチクリと刺す。
糸音は、心の底から慈しむような、はにかんだ笑顔を浮かべ、優しい眼差しで響を見つめた。
「響の音は、優しいね」
その言葉に、響はいつものように「なんだそれ」と短く応え、笑い飛ばしている。だが、その茶褐色の瞳の奥には、喜びとは違う、もっと複雑で切実な光が揺らめいていた。
(音、か……)
糸音は、世の中の〈不協和音〉に敏感だった。また彼女が言う、自分が発しているという〈優しい音〉も、響自身には何も聞こえない。
彼女が物心ついた頃から抱えている原因不明の体調不良。その症状が、なぜか自分の隣にいる時だけ和らぐという、不可思議な現象。医者も、高名なカウンセラーも、その原因を突き止めることはできなかった。ただ響がそばにいるという事実だけが、糸音にとって唯一の安らぎになっていた。
江雪糸音を守りたい。
その想いは、響の行動原理のすべてだった。彼女の苦しむ姿を見るのは辛い。彼女が心からの笑顔を見せてくれるのなら、自分はなんだってできる。そう、本気で思っている。
けれど、同時に理解してもいた。自分は彼女にとって、恋愛対象やそういった存在であってはいけないということを。ただ、苦痛から逃れるための〈緩和剤〉に過ぎないのだ、と。
彼女にとっての俺は、痛み止めのようなものだ。心を落ち着かせる効果はあるけれど、ただそれだけの存在。だれかの心を激しく揺さぶるような、情熱的な味も香りもない。彼女の人生は、もっと自由でなくてはいけない。
それでいい。そう言い聞かせる。
俺が彼女の隣にいられるのは、この〈緩和剤〉としての役割があるからこそだ。それ以上の何かを望むのは、許されない――そんなことをすれば、この奇跡のように危うい均衡は、あっけなく崩れ去ってしまうだろうと、響は恐れていた。
交差点に差し掛かり、薄く『道祖神』『大國天』と彫られた二つの石碑が目に入る。そこからしばらく北アルプスを背にして歩き、国道を渡って古い神社の鳥居を過ぎれば、自分たちが通う長野県安曇野高校にたどり着く。
「行こっか。遅刻しちまう」
「……うん」
再び歩き出した二人のペースは、先ほどよりも少しだけゆっくりとしていた。
響は、糸音の歩幅に合わせるように、意識して速度を落とす。糸音は、まだ少し響の袖を掴んだまま、その背中を追うように歩く。
すでに昇っている太陽が二人の姿をアスファルトの上に色濃く映し出している。近づき、寄り添い、そしてまた少しだけ離れる二つの影。それは、彼らの心の距離そのものを表しているかのようだった。
響は、澄み切った安曇野の空を見上げる。この美しく、静かで、そして少しだけ歪んだ穏やかな日常。それを守れるのなら。俺にできることは、ただそばにいてやることだけだ――
その決意を、だれに聞かせるでもなく、胸の内で静かに反芻する。雄大な自然に見守られながら、少年と少女が高校へと向かういつもと同じ朝の風景が、そこに広がっていた。