辛くて美味いとは如何なることか
味覚には五種類ある。甘味、塩味、酸味、苦味、旨味がそれに該当する。しかし、近年の研究にはこれに加えて脂肪味という六番目の味覚が存在することが明らかになった。
ところが、辛味というのは味覚に該当しない。
辛味というのは痛覚である。舌を噛んだ時に感じるあの刺激と同じモノだ。しかし、巷では「辛くて美味い」と意味の分からないことを宣う輩が砂丘の砂粒の数ほどいる。これは一体どういう意味なのだろうか? 甘味や旨味等の味を感じて「これは美味い」となるのは理解の及ぶところではあるのだが、痛みを感じて「これは美味い」と舌鼓を打つのは如何なることか。責め苦の末に至ってはならない狂地に辿り着いたようにしか思えない。
私の友人にも辛いモノが好きというマゾヒストがいるのだが、あいつが特におすすめしているのがインドカレー。スパイスをふんだんに使ったインドラの雷のような激しい痛みが舌に走る、あのサラサラ。日本の甘口カレーでいいではないか。何故日本人の口に合うモノがあるというのに、態々口に合わないモノを食うのかね?
行く気はなかったのだが、友人にしつこく誘われてしまったため、やむなく行くことになってしまった。
インドカレー店は職場から百メートルほど先にある。とあるビルの一階で、駐車場は小さく、車が二台しか止められない。そういうこともあり、仕事のお昼休みに歩いて向かった。
店内は四人掛けのテーブルが三つとカウンター席が三つあるだけであった。客もカウンター席に一人座っているだけでがらんとしている。入り口のすぐそばにはガネーシャの木彫りの像があり、私達をお出迎えするように佇んでいる。壁には象が描かれた壁紙が貼られており、テーブル、カウンターにも象の木彫りが置かれている。異様に象が沢山いる。象を崇める新興宗教団体の集会場かと思った。
間もなくインド人かネパール人か分からない堀の深い顔の男がやって来てテーブル席へ案内される。席に着くや否やメニューを手渡す。インドカレーとは言ってもバラエティーに富んでいて驚く。メジャーなバターチキンカレーは勿論のこと、ほうれん草のカレーにキノコのカレー、シーフードのカレーもあって迷ってしまう。とりあえず、一番おすすめらしいバターチキンカレーを注文。それとナンを……と、これも種類があるのか。通常のナンにビターチョコレートが練り込まれたナン、チーズ入りのナンにジャガイモのナン。様々あるが、やはりオーソドックスなナンが一番だろう。
注文を終えて暫くすると、ステンレス製の器に盛られたナンとバターチキンカレーが運ばれてきた。見るからに辛そうなオレンジ色のルーには香辛料やバターの油が浮いており、そのど真ん中に鶏肉が転がっている。匂いも香辛料の独特な――良く言えば香ばしい――悪く言えば鼻につく――臭いがする。まあ、私は後者だが。それはさておき、料理が来たからには食わねばなるまい。
「頂きます……」
手を合わせる。カトラリーはステンレス製のお玉のような形をしたスプーン。明らかにナンへかける用である。しかし、敢えてそのまま頂く。
「ん、んんん……」
カレーを口に流し込んだ瞬間、インドの風が口いっぱいに吹き渡り、舌に灼熱で焼かれるような痛みが駆け抜ける。汗がどっと溢れ、体温が急上昇したかと思うとガクンと降下する。それを数回繰り返す。ニューデリーの風景が脳裏に……いや、違う。これは地獄だ。閻魔大王に冤罪の判決を食らい、ごうごうと炎があちらこちらで燃え盛り、鬼が棍棒で好き放題叩いている。畜生。やはり、食うべきではなかった。情に動かされるべきではなかった。
……いや、待て。こんな地獄絵図の中に優しい光が見える。業火の間を縫って表面だけでなく奥まではっきり浸透してくる。
私は柔らかくてジューシーな鶏もも肉を噛みしめながらそんな幻想を見た気がする。ん? 待てよ。こ、これは――
地獄の中に遊郭が見える!!!
炎の中から垣間見える光は次第に輪郭をくっきり露わにし、提灯や古風な建物が見える。窓から容姿端麗の女がもっと食え、私の姿をはっきり見ておくれと誘惑してくる。この野郎。やってやろうじゃねえか。俺だって男だ。別嬪の女が目の前にいるというのに尻尾を巻いて逃げるやつがどこにいる?
俺はバターチキンカレーを食い進めた。ナンにべったりつけて口に運ぶ。おお、なるほど。ナンに浸けて食えば辛さも半減するのか。バターの香りもさらに加わり、よりマイルドになる。動く、動くぞ! 手が休むことを知らない! こんなにうまいならほぼ毎日エレファント教集会場に来ても構わない。
俺はあっという間にカレーを完食した。
※ ※ ※
「おお、どうした。どこに行くんだよ?」
数日後、仕事の昼休みに友人がそう聞いてきた。俺は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「決まってるだろ。遊郭に行って来るのさ」