第二話 脱走許すまじ
「何をしておるのだこの愚図がッ!!」
兵舎の一室で男が部下らしき人物に罵声を浴びせていた。
陶器の灰皿を投げつけられ額から血を流す部下は申し訳ありませんと発するのみ。
「アレが逃げ出しただと?ふざけるな、このことが帝都にまで届いたら私の出世に響いてしまうではないか!どうしてくれる!」
クソッ‥‥‥あの見習いのせいで帝都に送る報告の数が増えておる。隠蔽しようにも誰が本部からの監視か判らぬから迂闊な真似はできんし。内密に処理しようと腕利きの処刑人まで用意したというのに‥‥‥。
「仕方ない、今いる人員だけでも奴を探しに行かせろ。生死は問わん」
「よろしいのですか?」
「構わん、脱走したことにでもしておけば殺しても責は問われん」
ーーー
レンガ小屋を出て騎士団の詰所から脱出してから早数時間。
俺は未だ街の中にいた。
というのも俺が逃げたことは割とすぐにバレて街と外を繋ぐ南北に一つずつある城門は騎士たちに押さえられているからだ。
城門に行くには大通りに出る必要があるのだが、既に多くの騎士が闊歩している。
ああクソ、追っ手を気にしてチンタラしていたのが祟ったか。
いや、俺が懲罰房にぶち込まれているのは知られているはず。そんな奴が大通りにいたりしたら捕まえに来る。
そもそも、それを危惧して慎重に行動していたんだし。
仕方のないことだと割り切るしかない。
物陰に隠れて周囲を警戒していると、空が朱に染まっているのに気付いた。
強烈な夕日は街をオレンジに染め上げ、日陰とのコントラストを明確に作り出していた。
動くなら今しかない。
見習い脱走兵はそう考えた。
明るさに慣れている捜索隊の眼は影の微細な色の違いを判別できずにいる。
その隙に影伝いに外縁の街壁まで移動する。
日没までには届いてなければならない。
脱走兵は人通りの少ない道を駆け抜けた。
何度か二人組の捜索隊と出くわしそうになったが、咄嗟に路地に入ることで難を逃れることができた
向こうもかなり警戒しているようで二人一組で行動している。
帝国に弱兵なしと言われるほど強者揃いの帝国兵が兵士一人を捕えるために街全体を捜索している。
捕まれば処刑は必至。
冷たくじっとりとした汗が肌に張り付く。
正直生きている心地がしない。
それでも───。
そうして逃げ回ること一時間弱。
日は落ちたが何とか街壁まで辿り着くことができた。
このまま壁伝いに進むと城門があるのだが、多数の騎士や兵士が集まっているしそもそもこの時間には門は閉まっている。
このまま逃げ続け翌朝に門が開くのを待つか、どうにかしてこの15メートルはありそうな壁を越えるか。
どうしようかと物陰から思案しているとふと一人の兵士がこちらへやってくるのが見えた。
気付かれた!?
心拍が跳ね上がるのを実感する。
頭からつま先まで心臓の鼓動が響く。
相手の装備は槍と鉄の胸当てのみ。騎士ではなく一般兵だ。
これなら最悪見つかっても難なく黙らせることができるが────ん?
壁に向かって立ち止まったと思えばジョボボボという音を奏でている。
立ちションだ。立ちションしている。
‥‥‥油断している。それになにより一人だ。
脱走兵はその瞬間、思いついた作戦を実行できるか周辺の状況を確認した。
この辺りは街の外縁部だ。大通りからも距離があるため貧民や家を持たない人たちの住処となっており、みすぼらしい平屋が建ち並んでいる。
いけるか?
いや、やるしか道はない。
そう決意した瞬間、脱走兵の足は動いていた。
まずは小便野郎を無力化、槍を奪い取る。
音もなく迫る脱走兵は背後から顎を狙って一撃を当てると気絶した兵士を静かに横にして槍を回収。
時間を掛ければ仲間が様子を見に来る可能性があるため急ぎ次の行動へ移る。
魔力を全身に循環させて身体を強化すると軽やかに平屋の上に飛び乗り、全力で槍を街壁へと投擲する。
バゴンッと大きな衝撃音を響かせた槍は壁に深々と突き刺さっていた。
聞きつけた兵が集まってきている。
すかさず俺は槍の柄へ飛び移った。
あとはこの壁を越え、平原を突っ切って森の中へ身を隠すだけ。
かなり距離はあるが街中で身を潜め続けるよりかはマシな選択だ。
壁に手を付けゆっくりと膝を曲げる。
ここで足を踏み外しでもしたら一巻の終わりだからな。
そして慎重に跳躍の体勢を整え、脚部に魔力を集中させ爆発力を高めてから────
一気に解放する。
宙を舞う体は壁の上端をゆうに超えるほど高くあった。
「あ────しまった」
高く飛び過ぎたのだ。
本来は壁上で一度着地してから安定した体勢で地上へと降りる予定であった。
しかし予想外の大跳躍のせいでそのまま壁を乗り越えてしまった。
この脱走兵、そもそも全力の垂直飛びなど一度もしたことがない故、加減が解らなかったのだ。
まずいまずいまずいッ!!このままだと死ぬ!体を強化すればどうにかなるか?いや、なったとしても着地の衝撃でまともに動けなくなるのは目に見えてる。いやいやいや、今はそんなこと考えてる時じゃない────って、あ。
気付けば地面はすぐ目の前だった。
「かっ‥‥‥は‥‥‥」
背中からの着地。二度のバウンドで弾かれるように地面を転がった後に静止。
強化しているとはいえ、20メートル近い高さからでは身体へのダメージは甚大だ。
「あちゃー、ありゃ死んだな」
壁上にいた兵士も額に手を当て呟くほどだ。
その凄まじさは洒落にならない。
肺が圧迫され呼吸が上手く機能しない、視界が明滅して思考がまとまらない、衝撃による痺れで手足が思うように動かない。
最悪の状況だ。
まだ息があるのは咄嗟に身を丸めて衝撃を分散させようと努めたからだろう。
意識まで手放さなかったのが唯一の救いだ。
「ま‥‥‥だ‥‥うご‥‥く‥‥‥」
視界の端で城門が開き始めているのが見える。
「はやく‥‥‥す‥‥こし‥‥でも‥‥‥遠くに‥‥‥」
呼吸すらままならない状況、震える足で何とか立ち上がり草原を駆ける。
「ハァ‥‥ハァ‥‥ハァ‥‥‥ッ!?‥‥‥クソッ」
一心不乱に森を目指していると背後から地鳴りのような低音が迫ってきた。
視線を後ろにやると複数の騎兵が認められる。
「厄介な‥‥‥」
脱走兵は唯一使える攻撃魔術を生成し、迫る騎兵へと放つ。
初級火属性魔術、火弾だ。
騎士団に入団する以前から使い続けていたこともあってか、かなりの練度を誇り、生成速度、射出速度は並ではない。
走りながら後方へ撃ち続ける。
目的は追っ手の撃破ではなくあくまで牽制、時間稼ぎだ。
故郷のジジイから動物は本能的に火を恐れると聞いた。
これで馬の足が止まってくれればいいんだが。
身体強化を常に発動しつつ火弾で牽制。
やたらめったらに撃っているとあっという間に魔力が尽きてしまうため一発一発を無駄にはできないが
。
確認している余裕はない。あと少し、あと少しだけだから───
「隊長さ~ん、逃げられちゃいますよ~。森に入るわけにはいかないんでしょ?」
「ぐぬぬ‥‥‥。いいだろう、貴様ならどうにか出来るのだな」
壁上の気の抜けた声に地上にいた隊長は苦虫を嚙み潰したような顔で返した。
「俺は弓兵だ。的を射抜くことぐらいしかできませんが、まぁ確実に仕留めてみせますよ。
───ポイズマ」
最後の呟きのあと、番えた矢の矢尻が紫に染まる。
上級闇属性魔術のひとつ、ポイズマは対象に解毒困難な強力な猛毒を与える魔術だ。
効果範囲が狭いことが弱点であるが、矢に範囲を絞る、つまりエンチャントすることで遠距離の相手にも当てることが可能となった。
加えて、魔術特有の長ったらしい詠唱を省いて魔術名のみで発動させる詠唱破棄も使用している。
エンチャントも詠唱破棄も長い修練を必要とする高度な技術だ。
壁上の弓兵を忌々し気に睨む隊長もそのことを理解しているため彼に始末を任せたのだ。
弓兵にしても、使用するのが慣れた愛弓ではなく訓練用であるにも拘らず余裕綽々でいられるのは絶対的な自信によるものだろう。
あんな体でよく逃げるなぁ。‥‥‥距離は5キロってところか。
弓兵は弓を魔力で強化、狙いをすまし───放った。
豪速の矢は直線的に標的へと進んでいく。
矢が脱走兵に届くまでは一瞬だった。
森はもう目の前、逃げ込んでしまえばどうとでもなる。
そんな希望を持ちはじめていた時だ。
トスッと背中から押されるような軽い衝撃が加えられた。
なんだ?
脱走兵には何が起こったのか理解できなかった。
だから走り続けた。こんなところで終われないから。
しかし異変は直後に現れた。
整い始めた呼吸が再び乱れはじめ、口の中に鉄の味が広がるのだ。
「ぐ‥‥‥がはっ‥‥‥なんだこれ‥‥‥あ‥‥‥」
吐き出したものを確認しようと視線を下げると右胸から矢が飛び出していた。
べっとりと血が付着しており赤黒い。
ようやく自分が狙撃された事に気付いた。
気付かなければ良かった。
気付いてしまったから現実が追い付いてきてしまった。
「ちく‥‥しょ‥‥‥う‥‥‥こんなとこで終われるか‥‥‥」
最後の力というのだろうか。
胸を押えながら追ってくる騎兵に向かって火弾を放った。
魔力が尽きるまで放った。
魔力欠乏による疲労感と射抜かれたことによるダメージや出血が脱走兵を追い詰める。
すこしでも遠くに。
薄れゆく意識の中、ただそれだけを考えて森の中へと進んでいく。
ーーー
どのくらい歩いただろう。
この先に目指すものがあるわけでもないってのに。
‥‥‥この出血量からしてもう助からんな。
「あ~あ、俺、何してんだろ」
自嘲気味に一人笑ってみせる。
脱走兵が逃げ込んだのは魔物がひしめく大森林。屈強で知られている帝国兵であっても迂闊に立ち入ることがない程、この森の危険度は高い。
ポタポタと血をたらし、魔物の好む匂いを振りまいているのに未だ襲われていないのは奇跡だと言えよう。
行く当てもなくただ前へと進んでいく中、ふと開けた場所に出た。
互いを見つめるように空へと伸びる二つの大樹。大樹を仰ぎ視線を上げれば星々の光を塗りつぶすほど皓皓と輝く真円の月。それを映し出す紺青の泉。
この世界に生まれ落ちて21年。故郷の村を離れここに至るまでこんなに綺麗で神秘的だと思えるものに出会ったことのなかった彼にとってこの光景は贅沢過ぎた。
「これを独占するだなんて‥‥‥俺には勿体ないよ‥‥‥」
猛毒に侵され激痛が響いていたというのに、今やもう何も感じない。
俺の命はここまで。なんとなく察していた。
だから勿体ない。この空間を楽しむだけの時間が残されていないから。
今にも崩れそうな体を引きずりながら空間の中央辺りまで頑張ると、誰かが奥の大樹に背を預けているのが見えた。
白髪で長髪のエルフの老人だ。纏う鎧は戦闘の痕跡を刻みつつも未だ輝きを残している。
お互いの視線が交差する。
どうやら生きているようだ。死んだようにぐったりしていたから死体かと思っていた。
「少し、話相手になってくれるかい?」
エルフは柔和な表情でポンと自身の隣に手を置いた。
「ええ。喜んで」
脱走兵も笑みで返し、彼の隣に腰を下ろす。
「すごい怪我だね。矢が刺さったままじゃないか。何があったんだい?」
「そうですね、どこから話そうかな────」
ーーー
そうして二人は時間の許す限り話し合った。
何があったのか。何を思ったのか。どうしたのか。
互いに死期が近いことを理解していたからこそ包み隠すことなく、気兼ねなく話すことができた。
しかしそんな時間も長くはない。
先に限界に達したのは脱走兵の方だった。
睡魔に襲われたようにカクっと頭が下がった。
視界が真っ暗になり、すべての感覚が機能を停止したのだ。
すぐに意識を取り戻すが、誰の目から見ても限界なのは明らか。
「君は、まだ生きたいか?」
エルフがそんなことを訊ねたのは突然だった。
当然だ。やり残したことがたくさんある。いや、違う。まだ何も成していないんだ。ようやく一歩踏み出したところなんだ。これからのはずなんだ。
「ま‥‥‥だ‥‥‥死ね‥‥‥な‥‥‥い‥‥‥」
気付けば口さえまともに動かなくなっていた。
それでも振り絞った声にエルフは満足そうに頷く。
(死ねない、か。この子はもう自分の役目を定めているようだね。ならば────)
エルフが自身の胸に手を当て静かに目を閉ざすと、まるで今宵の満月のように白く輝く光球が姿を現した。
綺麗だ。
人生最後の光景なのだ。せめて最期の瞬間まで堪能できるように目に焼き詰めよう。
首を動かす力さえ消え失せ、辛うじて機能している視界の端にうっすらと確認できる光球をただそう思った。
取り出した光球を俺の胸元に運ぶエルフが見えた。
なにしてる?
「若人よ、生を全うしなさい」
言い聞かせるように呟くエルフ。
押し込まれる光球は何の抵抗もなく脱走兵の中に入っていくと────
ドクンッ
心臓のこれまでにない鼓動は脱走兵の意識を刈り取っていった。
ーーー
「そこの若いの」
深い眠りにつく脱走兵をまるで自身の孫のように見守るエルフは気配のない誰かに向かって声を掛ける。
「気付かれていたとは‥‥‥」
姿を現したるは黒の長髪を流す男。
どうやら敵意はないようだ。
「その若さでこれほどならば十分だろうて。それで、だが、この子を頼まれてくれんか。こんな気持ちの良い子を死なしてしまうのは世界の損失。どうかこの通り」
片手合掌で軽めに頼み込む姿はどこか茶目っ気が滲んでいる。
これがこの人物の生来の気質なのだろう。
悪人ではないか。
エルフの態度から警戒を解いた長髪の男は脱走兵を担ぎあげる。
「あなたも重傷だ。どうする、我らの拠点に来るのなら治療するが」
「いや、私はいい。少し贅沢をしたい気分なのでね」
「そうか、では」
ふぅと息を吐き月を見上げるエルフを背に男は森の中へと溶けていった。




