百円お嬢さん
ドぎつい電飾に、やかましい音楽。酒の悪臭に、この熱気。
……ダメだ……、めまいがする。吐き気も……。俺はよろめきながら、やたらにきらびやかなゲートを出た。
光と音の刺激は入場ゲートの外も変わらなかったが、少なくとも空気はまだ新鮮だった。俺は壁に手を突いて、何とか呼吸を整えると、思わず言葉が口から漏れた。
「……スッちまった……。全財産スッちまった……」
やっぱり黒に賭けるべきじゃなかったんだ。けどいったい誰が、四回連続で赤が出るなんて思うよ……。
「畜生っ! 何がIRだよ! どこの馬鹿だッ! カジノなんて日本で合法化させやがったのはっ!」
俺は声高にそう叫びたかったが、警備の大男の視線に恐れをなし、密かに自分の胸にしまい込んだ。
……それにしても、これからどうする……? 貯金はゼロ。給料日はまだ十日以上先だ……。家賃も既に二ヶ月分滞納してる。今日明日にも、大家が乗り込んで来るだろう。……実家に避難するしかないのか……? 畜生……。カジノで稼いで、その金でゴールデンウィークをエンジョイする予定だったのに……。
「……喉、渇いた……」
五月に入ったばかり、しかも昼前だというのに、この暑さ。何か飲みたい……。ブッ倒れそうだ……。けど財布の中には、もう八円くらいしか入ってなかったはずだ。帰りの電車賃すらない。
それでも一応、俺は財布の中を確かめた。……が、やはり八円。……畜生っ、どこかに……、あッ。
コインポケット、即ちジーパンの右側に付いてるあの小さいポケット、そこに感触がある。俺はその狭い隙間に指を突っ込んで、平たい物体を掻き出した。
「百円……。やった……!」
令和元年と書いてある。結構古いな。いや、そんなことはどうでもいい。これで、そこの自販機で飲み物が買える。ちなみに昔は自販機はもっと高かったらしい(給料ももっと高かったらしいが)。いや、今はそんなことより、一刻も早く喉を潤したい。
俺はゲートのすぐ左手の自販機の前に立ち、虎の子の百円玉を入れようとした。その時……。
「百円ちょうだい」
声が、聞こえてきた。女の声。俺はすぐ声のした方に振り向いたが、誰もいないように、一瞬錯覚した。声の主は、俺よりずっと身長が低かったからだ。
それは、小学校低学年くらいの女の子だった。
――百円おばさん、というのをご存知だろうか。
『ちびま○子ちゃん』の単行本にも話が載ってるので、結構有名かもしれない。静岡の都市伝説だとか、時には怪談扱いされたりもする。
要するにこういう話だ。道端で突然、見知らぬおばさんが近寄ってきて、「百円ちょうだい」とか「百円貸してくれない?」とか声を掛けてくる。あげれば損だし、拒否したらしたで、おばさんは舌打ちや捨て台詞を残していくものだから、はなはだ不快で、迷惑だ、と。そして、そのおばさんの存在は、数世代に渡って目撃されていると言う――
「ねえ、百円ちょうだい」
目の前の少女が、俺を見上げて再び言った。
身長は120センチくらいか。おかっぱで、黒いワンピースに小さなポシェットを肩から提げている。小学一、二年のように思われるが、その顔つきはどこか大人びていて、俺は見下されているような気さえした。
「……ちょうだい、って……? お嬢さん、これは俺の金だよ」
俺は顔を引きつらせながらそう言った。すると、少女は鼻から軽く息をついた後、こんな風に言ったのだ。
「なぁんだ。やっぱり……。その感じじゃ、勝てなかったのね。ま、当然よね。カジノのゲームなんて、客が負けるようにできてるんだもの」
俺は途中までは勝ってたんだよ……!
「でもおじさん、どうせ何千円もドブに捨てたんなら、哀れな少女に百円くれたって変わらないんじゃない? ね、百円ちょうだい?」
俺は舌打ちをした。それから左手でスマホを出し、グーグルを開きながら少女に言った。
「あのね、俺は調べた事があるんだ。そうやって人の善意に付け込んで小金をせびるのは、『寸借詐欺』っつって、立派な犯罪なんだよ。ほらッ、書いてある!」
そういう事。それこそが、『百円おばさん』の正体だ。しかし少女は悪びれもせず言う。
「犯罪は『立派』じゃあないわよね」
「っ揚げ足取るなっ……! 小遣いもらってんだろ? 恥ずかしくないのかよ。親の顔が見てみたいね。金ってのは本来働いて手にするもんなんだよっ。欲しけりゃ親の手伝いでもしろ!」
俺はまくし立てた。興奮気味の俺の顔を、少女は一度、殺意でも込めるかのように睨みつけたものの、間もなく鼻で笑ってこう言った。
「金ってのは本来働いて、ね。バカみたい。……フン……。いいわ。バカは私ね。ギャンブル中毒の負け犬に、何頼んだところでムダだったわ」
少女はわざとらしく溜め息をつくと、くるりときびすを返した。俺は歯ぎしりをしながら、右手に百円玉、左手にスマホを、これでもかとばかりに握りしめていた。
が、その時。不意に俺の脳裏に、ある考えが浮かんできたのだ。俺は急いで左手のスマホを操作すると、右手を開いて百円玉を見つめ、ほくそ笑んでから、こう声を上げた。
「お嬢さん! 俺と一つ、ゲームでもしないか?」
既に歩き出していた少女は、こちらを振り返って言った。
「……ゲーム? ギャンブルってこと?」
「そうだ。君が勝てたら、この百円はやるよ」
「おじさんが勝ったら?」
「お兄さんと呼びな。俺が勝ったら、寸借詐欺として警察に通報する! ……と言いたいところだけど、そうしないでやるよ。君は心を入れ替えて反省するだけでいい」
警察を呼んだところで、俺の方が妙な疑いを向けられそうだからな。現に今だって、カジノに出入りする客や警備員の一部(ごく一部だが)は、不審の目をこちらに投げ掛けている。
ただ、小学生に負け犬扱いされたままでは、俺の気が済まない。この高飛車なガキの鼻っ柱を折って、日頃の鬱憤を晴らしてやる。晴らしてやる晴らしてやる!
俺がそんな事を考えているうちに、少女の表情は怪訝なしかめっ面から、不敵な笑みに変わった。
「面白そうね。やるわ。それで? ゲームの内容は?」
「グッド……!」
俺は思わずそう言うと、百円玉を正面に向けて少女に見せ、それからすぐに手の内に隠した。
「勝負は簡単。百円玉に、ギザギザがいくつあるか、当てられれば君の勝ち。当てられなければ俺の勝ちだ!」
少女は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐにニヤニヤ笑いだした。
「へ~え。百円玉のギザギザ……。私が答えるのは一回? お兄さんは、答えを知ってるの?」
「一回きりの勝負だ。答えは知ってる。数える必要はない。ウィキペディアに書いてあるからな。言っておくが、スマホを見るのは無しだぞ」
「私スマホ持ってないわ。そんなのなくても、この勝負は私の勝ちね。だって私、答えを知ってるもの」
「なっ!」
俺は仰天した。が、次の瞬間、少女は声を上げていたずらっぽく笑った。
「キャハッ! ウソよ。そんなの知るわけないじゃない。でも……、私の勝ちっていうのは、変わらないかもね……!」
少女は再び不敵な笑みで俺を見上げた。俺は思わず息を呑む。
……いやいやっ、当てられるわけがない。こんなの、エスパーでもなきゃ当てられっこない……!
「ほらっ……! どうした、お嬢さんっ? やるって言ったんだろ? 早く答えなよ……!」
「あら、せっかちね。ゲームは今、始まったばかりよ」
少女はそう言うと、肩に提げたポシェットの中から、ファンシーな筆箱とメモ帳を取り出したのだ。
「そうね……。まず、百円玉って、直径何ミリくらいなのかしら?」
彼女は鉛筆を持ちながら言った。
「は? 直径?」
「一円玉は直径2センチよね」
「っと、そうだっけ……? もっと小さそうだけど」
「何にも知らないのね。一円玉は直径2センチ。重さは1グラム。厚みは1.5ミリ。アルミニウム100パーセント。それくらい常識じゃない? ま、いいわ。一円玉が2センチで、次に小さいのが五十円。その次は五円で、次が百円、それから十円、五百円よね」
百円玉って、十円玉より小さいんだっけ。俺がそんな風に思っているのを、まるで見透かしたように少女は鼻で笑い、続いて筆箱から定規を出してじっと見つめた。
「1ミリずつくらい大きくなるのかしら? だとすると百円玉は直径23ミリ……。まあ、もう少し小さいような気もするけど、ダトウなとこね」
俺はこっそりスマホでググッた。百円玉、直径……。22.6ミリ……!
少女はメモ帳に「Φ23mm?」と書き記し、それから更に、俺の度肝を抜いた。
「これだと円周は……、72.22ミリ」
少女がそう言って、数字を書き加える。彼女はスマホも電卓も持っていないどころか、余計な数字すら書いていない。まさか、23×3.14とか暗算したのかっ?
「さて、ここからが難しいけど……。百円玉のギザギザ、さっきチラッと見た感じでも、ギザギザの幅は、1ミリはないわね。0.5ミリから1ミリの間のどこか。するとギザギザの本数は……」
俺は寒気を覚え始めていた。
「73本から144本! ……72通りか。なぁんだ。これじゃあ幅がありすぎるわね」
助かった……。けど俺だったら、その73と144から72を導くのさえ怪しい。1引くんだっけ? 足すんだっけ?
と、ここで少女は、俺の顔を覗き込むようにして見た。
「こんな勝負を仕掛けるくらいだから、ちょうど100本とか、野球ボールの縫い目と同じで108ってことはないでしょうけど、それでも70通り……。お兄さんは既に知ってるのよね? 何かヒントはないかしら?」
俺はさっき見た答えの数を思い浮かべる。
「駄目だ。ノーヒント」
「……素数かしら?」
「っ………、ノーヒント……!」
「キャハッ! 良かったわ! 素数は知ってるのね! 1とその数自身でしか割り切れない数!」
そのくらいは俺でも知ってる。けれども俺には、勇気を与えてくれないらしい。
「頭に思い浮かべたわよね? それから私が素数って言ったら、少し、けど長めに、考えたわよね! ねえ、割り切れた? 7で割り切れた? 全ての桁の数字を足して、それを3で割り切れるなら、元の数も3で割り切れるのよ? 割り切れた?」
「………うるさいっ! 答えねえよ!」
「と、言いつつ、また少し、けど長めに、考えてる。これで大体決まりね。ギザギザの数は素数。73から144までの素数は、73、79、83、……」
俺は悪魔でも相手にしてるのか? このままじゃ当てられるかもしれない。何とか手を打たなければ……。
俺はスマホでググッた。何かないか……? 何か……。
「ヒント、やるよッ……!」
俺は言った。この情報は使える……! 駆け引きだッ……!
「ヒント。五十円玉のギザギザの数は、120本だ」
さあ悩め。苦しめ……! 五十円玉が120本なんだぞ? 百円だっていかにも同じっぽいだろ? あるいは……。
「フフッ……。それは、墓穴よ」
少女は怪しく笑った。
「まずかったわね。120なんて割りやすい数は、既に候補から外れてるもの。だとしたらその情報は……」
彼女は少し間を置いて、声を大きくした。
「ずばりッ、私をミスリードさせるため! 『五十円玉が120本なら、百円玉はもっとギザギザが多いんじゃないか』と思わせる。そういう意図がバレバレねッ。つまり、正解の数は、120より小さいというのが真実……!」
畜生っ! このガキっ、どこまでお見通しなんだっ!
「73から144の間の素数の数は、14個だった。その中で120以下は10個。73、79、83、89、97、101、103、107、109、113、よ」
10個……。いつの間にか、確率10分の1は負ける勝負になっている。俺は数字が読み上げられる間、正解の数に反応しないように必死だった。
「この中で……、101は、ありえないわね。『百円玉のギザギザの数は101本』、だったりしたら、トリビアとして広まってるはずだもの」
残り9個……。少女は再び定規を眺めた。
「ギザギザの幅を改めて考えても、1ミリとか0.9ミリっていうのは太すぎる気がするわ。そうすると、7、80本は考えにくい……。89だと、ギザギザ0.8ミリ……。113だと、0.6ミリちょっとか……」
少女はそう言いながら、メモ帳に書いた数字を、少しずつ斜線で消していく。
「候補は97、103、107、109。次点は89と113。こんなところかしら?」
少女の言う通りだった。その数個の中に、正解はある。本命4つに対抗2つ……。サイコロでピンが出るより、確率高そうじゃねえか……!
「……決めたわ……。それじゃあおじさんも、覚悟はいいかしら?」
少女はそう言って俺の目を見据えた。俺は今にも逃げ出したかった……。
彼女はポシェットに筆箱やメモ帳をしまうと、のけぞり気味の俺の体の方へ、一歩近付いた。
「百円玉の、ギザギザの数は……」
少女が俺の目を凝視しながら言い始める。俺はもう随分前から無言のままで、喉は渇ききって舌も動かせないでいる。
「『103本』ッ! どう? さあッ、答えはッ?」
少女は目を爛々とさせている。俺は天を仰いだ。今すぐ地面にへたり込みたかった。……こんな小学生に出会ったのが、運の尽きだったんだ。
俺は黙ったまま、鉛の様に重い右腕を持ち上げると、手を開いて、百円玉を少女に差し出した。
「やったッ! 正解ねッ! 私の勝ち! それじゃあ遠慮なくッ!」
彼女は素早く俺の手から百円玉を奪うと、付着した俺の汗をスカートの裾で拭い、固く握りしめて、足早に去っていった。
もはやカジノのゲート周りに俺に見向きする者はなく、大音量の音楽だけが、敗者の体に注がれていた。
「……それにしても……」
俺は思わずつぶやいてから、つらつらと考えた。
あの子はいったい、あの百円で何をしようというのだろう。この自販機には、用はなかったみたいだし……。
「……気になる……」
ただの小遣い稼ぎか? けど、普段から他人に金をせびってるようには、どうも思えない……。あの様子だと多分、必要な物にしか金を出してもらえないルールの家なのだろう。それが今、親にも黙って、百円が欲しかった……。なぜ?
後をつけてみよう。
幸い既に、俺とあの子の関係を誰も気にしていなかったし、カジノの前の通りはしばらく一本道で、すぐにあの少女は見つかった。
彼女は心なしか浮かれた足取りで、真っ直ぐコンビニに入っていった。それからレジで何か頼むと、イートインコーナーに座って、何やら作業に没頭し始めた。俺はコンビニの外の壁際で、何気ないふりをして様子をうかがう。
やがて、少女は再び浮かれた足取りで出てきた。俺のほとんどすぐ脇を通ったのに、気付きもしない。その時――。
「危ねえっ!」
車が、駐車場内とは思えない程の猛スピードで迫ってきた。俺は叫びながら少女の腕を引き寄せる。
「キャッ!」
紙が一枚、少女の手から離れ、地面に落ちてタイヤに轢かれた。
「馬鹿野郎ッ! 危ねえだろッ!」
怒鳴ったのは、車の運転手だ。デカイ男が車から出てきて、殺意を抑えるのに必死な俺と、黙ってうなだれている少女にガンを飛ばしてきた。そいつはコンビニに入ると、タバコを買ってすぐに車に乗り込み、再び猛然と発進していった。
間もなく俺が何気なく視線を落とすと、地面に、タイヤに轢かれて無残な姿をした、一枚の紙切れが落ちていた。
葉書だ。少女はあの百円で、この一枚の葉書を買ったのだ。
少女が動こうとしなかったので、俺がそれを拾い上げる。文面の方はタイヤの土で汚れきっていたが、一部は読む事ができた。いや、読もうとしなくても、最初の一文が目に入れば充分だった。
「『パパへ』……」
俺は思わず口に出して読んでしまった。少女は俺の傍らでぴくりと体を動かしたものの、うなだれたままで何も言わない。
「……そうか……、これを出したくて……」
やがて少女は小さく溜め息をつくと、黙ったまま歩き出そうとした。
「待てよ」
俺は言った。少女は不機嫌そうに振り返ったが、俺の手に差し出されたスマホを見ると、ちょっと不思議そうな顔をした。
「スマホ、貸してやるよ。電話できるんだろ? 他人のじゃ、すぐ出てもらえないかもしれねえけど、俺はこの後、予定もねえからさ」
「……それより百円ちょうだいよ。そっちの方が早いじゃない」
「フッ。外したな。俺の手持ちは残り八円だ」
少女は苦笑いをすると、俺の手からスマホを取って、番号をタップした。そのまましばらく表情を強張らせていたものの、数十秒後、彼女はにわかに満面の笑みになって喋りだした。
「パパ? … そう、私! パパ元気? … うん、私も元気。 … 頑張ってるよ。私ね、今日、中学三年の数学まで終わらせたんだよ! それでね――」
二十五年後……。一人の日本人女性数学者が、何やら数学の大きな賞を獲ったとのニュースが世間を賑わせた。記事に載っていた写真を何気なく見て、俺は思わず声を上げた。
お分かりだろうが、それは百円玉を巡って俺と勝負した、あのお嬢さんの成長した姿に間違いなかった。
写真の中のその数学者は、賞状を手にして、今の俺と似たような壮年の男と腕を組み、子供の様に笑っていたのだった。
……俺? 俺の事はどうでもいいんだよ。
ただ、あの勝負以来、ギャンブルからは足を洗ったとだけ言っておこう。