【10/18コミカライズ掲載中!】余命宣告を受けたので婚約者に嫌われるためにとことん悪女になるのですがどうも溺愛されているようでして
「マリー様、非常に申し上げにくいのですが、貴方の命は持ってあと一年―――」
良く晴れた昼下り。なんだか動悸が激しいと母に漏らしたところ、直ぐに専属医がやって来た。そしてハッと驚いた顔をしてから徐ろにそう言った。
――ああ。私は一年後、死ぬのね。
そのことは直ぐに両親に知らされ、一人娘だったマリーの残された命の短さに皆で泣いたことは記憶に新しい。
残された一年間は好きな事をしたいと両親に頼むと快諾され、マリーは真っ先に婚約者であるジークのことが頭に浮かんだ。
旅行や買い物、マナーを気にせずに食事をしたり流行りの恋愛小説を朝から寝るまでずっと読んでもいたい、なんてことも思ったけれど。
何より婚約者であるジークに別れを告げなければならないと。
――いや違う。余命のために婚約を破棄してほしいと言っても優しいジークのことだ。最期のその時まで側にいると言うに違いない。ジークは、そんな男だと婚約者のマリーが一番良く知っている。
だからこそマリーは解放しなければと思うのだ。優しいジークが悲しまないように。あんな女と別れて正解だと、死んで当然だと思ってもらえるように。
マリーは、愛してやまないジークが涙を流さず未来に進めるように、稀代の悪女になると決意した。
◆◆◆
窓辺に凭れながら友人たちと楽しそうに話しているのを見つける。
やや青みがかった茶色に髪が、窓から注ぐ光に反射してキラリと光る。
――彼はジーク・ディルク。男爵家の三男坊として産まれた彼は、いわゆる売れ残り組として貴族令嬢からは冷たい目で見られることが多かった。
しかし、爵位や出生順はどうであれ、性格は温厚で仲間思い、真面目だけれど冗談を言って笑い合ったりもする。彼を慕う友人は数多く存在し、マリーはそんなジークのことが大好きで仕方がないのだ。
そもそも侯爵家の長女として生を受けたマリーは、引く手数多だった。社交界デビューしてからというもの、そのたぐいの誘いや手紙は尽きない。
けれどどの人も侯爵家というブランドに惹かれていることは一目瞭然で、誰もマリー自身を見てくれなかった。
「ジーク様、おはようございます」
「マリー、おはよう」
そんな中マリーはジークに出逢い、すぐに心惹かれた。両親に頼んで婚約の話を進めてもらい、トントン拍子で婚約者同士になった彼等は周りから見てもお似合いで、仲睦まじかった。
――けれど、二人に末永い未来は訪れない。
マリーはジークの友人達の隙間から顔をひょこっと乗り出した。
「ジーク様、少しお時間宜しくて? 二人きりになりたいのですけど」
「え、今かい?」
これでもマリーは令嬢の模範だとか淑女の鏡だなんて言われている。
マリー自身も周りに恥じない程度には教育を受けさせてもらった自覚はあったし、現に今までならジークが友人と話している最中に余程のことじゃない限り話しかけたりしなかった。
挨拶を済まし、ジークが一人になるのを待ってから話しかけるか、話し掛けられるまで待っていたから。
(どう? いきなりご友人との時間を邪魔されてさぞ嫌な気持ちでしょう? これならきっと優しい貴方でも嫌な顔一つくらいは……)
しかしマリーの思惑をよそに、ジークは頬を染めて満面の笑みを浮かべている。
「マリーからそんなふうに言われるなんて嬉しくて一瞬夢かと思ったよ」
「え?」
「どこに行こうか? 授業が始まるまでまだ少し時間があるから中庭のテラスまで行くかい? それとも空き教室にでも行く?」
うきうきわくわく。ジークは目をキラキラに輝かせている。
周りの友人たちも良かったな、とジークの肩を叩いて送り出そうとしていた。
「い、いえ……やっぱり急ぎではないので後で大丈夫ですわ……」
「そうか…………。残念」
ジークのあまりにも悲しそうな顔に心臓がぎゅっとなり、マリーは罪悪感が押しつぶされそうになった。
(きっとこういうことの繰り返しで少しずつ成果が出るはず。今回は少し悪女具合が甘かっただけよね……反省)
マリーは決意する。もっと殻を破って悪女になるのだと―――。
◆◆◆
次の日、前日に作戦を考えてきたマリーは上機嫌で学園の廊下を歩く。
ちらちらと周りからの視線を感じるので、どうやら作戦は成功しているらしい。
(この姿早くジーク様に見せたいわ! びっくりして逃げ出しちゃうんじゃないかしら?)
残念ながら昨日は不発に終わったが、今日こそはと気合が入る。
今日の作戦は名付けて『派手ではしたない女作戦』
毛先をかなりきつめに巻いた髪に、目の印象をきつくするためにメイクを施した。そして極めつけの真っ赤な紅を指した唇。
制服はリボンを下げて着崩し、スカートはありがたくもセパレートタイプだったので、ウエストの位置で折ることで極限まで短くすることができた。
貴族令嬢として有るまじき見た目だが、今のマリーには怖いものなんて無い。
教室に入り、こちらを見てぎょっとするクラスメイトには脇目も振らずジークに猫なで声で話しかけた。
「ジーク様ぁ、おはようございますぅ」
「えっ、あっ、えっ? マリー? だよね?」
驚いてガタリと立ち上がったジークの肩にするりと両手を回す。
そうして至近距離で目をじっと見つめる。普段とは違いまつ毛が重くて半目になりそうなのを必死に耐えた。
肩幅程度に開いたジークの脚の間に、マリーはするりと右脚を割り込ませる。膝小僧から20センチ程上に位置するスカートは、ぎりぎり下着が見えないよう調節した力作だ。
「マリー? 急にどうしたんだ……っ」
ざっと数年は陽に当たったことがない艶めかしいけれど無垢なそれから、ジークは慌てて目を背けた。
「ジーク様ぁ、どうしたんですかぁ?」
「っ……!!」
――目を逸らして唸るような声を出すなんて、これはもしや作戦成功かしら?
もしかしたら数日後婚約破棄の知らせが届いているかもしれないと、マリーは本気でそう思った。しかし。
「だめだ……今は人前だ……抑えろ……抑えろ」
「へ!?」
――バサッ。
ジークはマリーの腕を解くと、ブレザーを躊躇なく脱いでマリーの腰辺りに巻き付けた。
スカートが捲れ上がるのを防いでから、ジークはマリーの膝下に手を差し込んで横抱きにすると性急に教室から飛び出す。
「ジッ、ジーク様どちらに!?」
「どこでも良いから二人になれる所だ。こんなに妖艶な君を他の男になんて見せたくない」
「よう、えん……!? まさか褒めてますか!?」
「当たり前だろう? 普段とはまた違った美しさだ……意識が飛ぶかと思ったよ……しかもあんなふうに抱き着かれたら……僕は……。 ダメだ太ももが頭から離れない……太もも……太もも……」
「少し落ち着いてくださいまし!?」
マリーは悟った。どうやら今日の作戦も失敗に終わったらしい。
(大丈夫よ……まだ時間はあるもの。次こそもっと悪女を演じて嫌われてみせる!)
しかし、そんなマリーの決意は期待した結果を生むことはなかった。
あるときは我儘を言いまくったが「やっと我儘を言ってくれるようになったんだね。嬉しいよ」と言われ撃沈。
またあるときはジークの友人ついて適当に悪口を言ってみたのだが。
「え? ミストラスは裏の顔があるから友達をやめたほうがいいって? あはは、大丈夫だよ。 あいつは確かに表裏がある男だけど友人の僕たちのことを信頼してるからこそ見せてくれてるんだ。……もしかして、僕のことを心配してくれたのかい? 嬉しいなぁ……優しいねマリーは」
(この調子ではだめだわ……こんな生半可なことでは一年後のその時までに嫌われている未来が想像できない! なんとしても嫌われないと……!)
このままでは一年後、ジークの心に深い傷を残すことになる。それだけは阻止しなければ。
とある休日の午後、マリーはベットの上に寝そべって目を閉じて思案する。
「あっ、……いい考えが思い付いたわ!! まさにこれは悪女!! 悪女の中の悪女だけが為せる技よね!」
実行に移すには両親の協力が必要不可欠だが、おそらく大丈夫だろう。
マリーはジークのを事を考えながら、つと訪れた睡魔に抗えず閉じた。
◆◆◆
「ジーク様、私好きな人が出来ましたの。別れてくださらない?」
ある日の放課後、ジークを自身の屋敷へ招待した。久しぶりだな、と笑顔を見せるジークをよそに、足早にエントランスを通ると中庭へと到着した。そうして直ぐに向き合い、別れを告げる。
悪びれた様子は欠片もなく、さぞ当たり前かのように言ってのける姿にマリー自身が驚きを隠せなかった。
(私って……こんなに演技が上手だったのね)
セリフは事前に頭に叩き込んでおいたとはいえ、想像以上のクオリティだ。これならばジークから別れを切り出してくるのでは? と思わずにはいられない。
しかしマリーはこの数日で学んだのだ。ジークはそう簡単に裏切ってこないし、やすやすと別れる選択肢を選ばないということを。
「何かの冗談だろうマリー。今日は一体どうしたんだい?」
笑顔を貼りつかせて問うジーク。普段よりやや声色は低い気はするし笑顔も冷たい気がしないこともないが、動揺を面に出さないところを見ると信じていないらしい。
こうなることも予想の範囲内だ。マリーは何度も脳内でシュミレーションしたのである。
真の悪女となりジークに嫌われるためにはもう一撃、決定打が必要だ。
マリーは明後日の方向を向いて手をふりふりと動かすと、いらっしゃい、と猫なで声を上げた。
ぐおん、と首がもげてしまいそうな勢いでジークはマリーが呼び掛けた先を確かめる。可もなく不可もなし、といった印象の青年がこちらに歩いて来たのでジークは目を瞠った。
「ダーリン! 会いたくて仕方がなかったわ!」
「やあ私の可愛いハニー!! 遅くなってすまない」
ダーリン、と呼ばれた男はマリーの隣に立つやいなや、遠慮なしに彼女の肩に腕を回す。マリーはというと、ジークに見せつけるように身体を預けている。
「ジーク様、これでお分かりかしら? 私たち愛し合っていますの」
マリーは今回の作戦でジークとの関係を灰燼に帰すつもりだ。そのために両親に頭を下げて後腐れのないフリーの男性を探してもらった。
マリー自ら演技指導も行い、お互い「ダーリン」「ハニー」と呼び合うほどの相思相愛ぶり。スキンシップも図り、誰が見てもマリーのことを最低最悪な悪女だと思うだろう。
例に漏れずジークもその一人のはずだ。
わなわなと拳を震わせながら、顔を伏せたきりで口も利けないように打ちひしがれるジークに、マリーは胸が痛むが追い打ちをかけるように言葉を吐いた。
「もう一度言いますわ。…………別れてくださらない? 私の運命の相手はジーク様ではありませんわ」
「ダーリン」「ハニー」と呼び合うよう指示したのはこの方が仲睦まじく見えるだろうという理由だけではなかった。身内を除けば、ジーク以外にマリーと呼ばれたくなかったから。
スキンシップだってもっと過激なものを考えたけれど、体が拒絶して出来なかった。
マリーは、ジーク以外に肩を抱かれている今現在も自身の精神にムチを打って耐えているほどだった。
今回の件でマリーはより痛感した。心からジークを愛していることを。そうしてそれは、出来れば知りたくなかったと、そう思うのだ。
「マリー」
訪れた、この瞬間。マリーはついに悪女を演じることをやめることが出来る喜びと、もうジークが笑顔を向けてくれなくなる悲しみと、自身の気持ちをより深く知ってしまった切なさで頭がぐわんぐわんとする中、じっとジークを見つめる。
ゆっくりとした足取りで近付いてくる婚約者との最期の会話になるのだろうと、耳を尖らすようにして言葉を待った。
「戯れはこのくらいで良いだろうマリー」
「ジ、ジーク様……?」
言葉は穏やかだというのに声はこれ以上ないくらいに冷ややかなものだ。マリーはジークのこんな声を聞いたことがなかったのでびくりと肩をビクつかせた。
恐怖を感じたのは男も同じだったようで、無意識にマリーの肩に回す腕をぎゅっと強めると、ジークの視線が移る。
地面から脚、上半身、そしてマリーの肩に回された男の腕で止まった。
「離せ、これ」
彼女の肩に回された男の手を、ジークは掴み上げる。本来動かすべきではない角度に力を込められ、男は悶絶の表情でぺたりと地面に座り込んだ。
「ぐわぁぁあ……!!」
「安心しろ。折れてもいないし脱臼もしていない」
「ジッ……ジーク様……っ」
「安心して? マリーには痛いことなんてしないよ。ああでも、僕以外の男に肩を抱かせるなんて酷いじゃないか。後でたっぷりと理由は聞かせてもらうとして……とりあえず」
じろり。獰猛、その一言に尽きる瞳でジークに見下された男の体には戦慄が突き抜けた。「ひゃんっ」と怯えた、犬のような悲鳴に似た哀れな声に、マリーは同情を禁じ得ない。
「君はもう行って良いよ。僕の婚約者の戯れに付き合せてすまなかったね」
まさしく脱兎の如く、男は一瞥をくれることもなく屋敷の出口へ向かって走り去っていった。
残されたマリーはというと展開が追いつかず放心状態になっており、ジークはその姿を見て天使のようににっこりと微笑む。
―――これはまずい。マリーの脳内で警鐘が鳴り響いた。
「部屋に案内してもらっていいかい? ふたりきりで話そう。ああ、もちろん使用人たちには下がってもらってね。何のもてなしもいらないから」
「ええっと……その…………」
「大丈夫。ふたりきりになったって変なことはしないよ? マリーがこれ以上隠し事をするなら話は別だけどね」
何かを隠していると知られてしまった時点で、マリーは白旗をあげるほかなかった。普段とは全く違う、笑顔なのに威圧的なジークに敵う気がしなかったのだ。
「それで? 一体何があったの? 最近ちょくちょく様子がおかしかったのもそのせい?」
部屋についたので一応お茶の用意を、と使用人に話しかけようとすると、ジークの怖いくらいに清々しい笑顔が向けられたのでマリーはソファに腰を下ろした。
その隣にピタリとジークも腰を下ろすと、どうすればよいのかと様子をうかがっているメイドに目配せをして下がらせる。
ジークの反撃の狼煙が上がった。
「マリー。もう怒ってないからちゃんと答えるんだ」
「っ、はっ、はい……」
(やっぱりさっきまで怒ってたんだ。こわぁい……)
マリーは協力をお願いした男を思い出し、改めて後で何か心安らぐ品物でも贈ろうと思った。ついでに必要ならば治療費も。
さて、ジークの質問にどこから答えようかとマリーは難儀していた。
どうにか余命の話だけは避けたい。ともすれば、なぜ数々のおかしな言動、行動に及んだのか。
「わっわたくし悪女に憧れていますの!」
「悪女? あの悪女で合ってる?」
「えっ、ええ! あの悪女ですわ!」
ジークは小説や舞台で存在を知っていたのか、悪女が何たるかを知っているらしい。
マリーは説明が省けたのと、我ながら上手い言い訳が出来たことに鼻をふんっ、と鳴らした。
(あら、今の物凄く悪女みたいだわ!)
どやりと、すました顔をするマリーに、ジークは耐えようにも耐えきれずクスクスと笑みが口角に浮かぶ。
「どうやら僕が知っている悪女とマリーが演じた悪女には随分と違いがあるみたいだ」
「違い……ですか?」
「うん。マリーが演じた悪女はね、凄く可愛くて魅力的だったよ。もっとマリーのことが好きになった」
「!?」
パクパクと金魚のように開けた口が塞がらないマリーに、ジークはとどめを刺す。
「もしかしてそこまでが計算だったのかい? 悪女を演じて僕を誘惑するつもりだったのかな?」
「ちっ違いますわ!! 私は悪女を演じてジーク様に嫌われようと……っ、あ…………」
「…………そう。僕に嫌われたかったから悪女を演じたんだね」
先程までとは一転して、二人の間に重々しい空気が流れているのを感じる。
冗談だと言える雰囲気でもなく、それらしい嘘を付ける気もしない。ジークはそれほどに婚約者に嫌われているのかと勘違いしている現状は、マリーにとっても望ましいものではなかった。
しかし、マリーはこの現状を打破する最善策をまだ見つけられていない。
それこそ余命宣告を受けたことを伝えれば、ジークの誤解を解くことは出来るだろう。
(けれど、誤解を解いたところで? ……私は来年の今頃、彼の側にはいられないのに。……それならいっそのこと)
マリーは徐ろに立ち上がって、大袈裟に深呼吸をするとジークを見下ろす。
ジークはそんなマリーをじっと見つめて名前を呼ぼうとしたところで、それを飲み込んだ。
マリーの喉が、込み上げてくる涙を吞み込むかのようにごくりと動いたことに気付いてしまったから。
「私はもう、ジーク様のことをお慕いして、いないのです……っ、ですから別れて、くださ……い、ひぐっ、……わた、しは! ジーク、様のっ、ううっ、ことなん、か……きら……!」
「もう良いよマリー。分かった。分かったから」
ぶわりと涙が込み上げてきて止まらなかった。言葉がとぎれ、鼻水まで出てくる始末。
こんな終わり方を、マリーは望んでなんていなかった。
(けれど言えたわ……! ちゃんとお別れを言えたわ……! これできっとジーク様は、前を向けるはずだもの……!!)
数年したらマリーが婚約者だったことなんて忘れて、他の誰かと結婚するのだろう。子供ができて、幸せな家庭を築いて、最期は同じ墓に入るのだろう。
そんなジークの未来をマリーは心の底から願っているのに涙は一向に止まってくれそうにない。
ズビズビと、マリーが顔をくしゃくしゃにして泣く中、カタリと小さな音を立ててジークが立ち上がる。
そっと右手をマリーの目元に持っていくと、人差し指で壊れ物を扱うかのような手付きで涙を拭った。
「泣かないで。君の涙を見ていると、胸が苦しくなるんだ」
「う、っ、……ひっ、……ふっ」
「だけどごめんねマリー。君の願いは叶えられない。僕はね、何があってもマリーのこと手放せそうにないんだ。……愛しているんだ、世界中の誰よりも」
「うわぁぁぁん……!!」
淑女の嗜みだとか鼻水が出ているだとか、そんな些細なことなんてどうでも良い。今だけは彼の婚約者として触れていたいと、マリーはジークの胸へと飛び込んだ。
「ジーク様……っ、ジーク様ぁ……! 別れる、なんて、やだ……! ずっと、一緒に、いた、いっ」
「うん、僕も同じ気持ちだよ」
「けどっ、わたく、し……っ、よめ、いがっ、いちね……ん…………」
「!? マリー!? どうしたんだマリー!! 誰か……! 誰かいないのか―――」
深海にゆっくりと沈んでいくように、意識が遠くなっていく。
「マリー!」と切羽詰る声で叫ぶジークの声もどんどん聞こえなくなって、抱き締められた腕からじんわりと伝わってくる熱が心地良い。
(ああ、これ死ぬのかな……まだ、大好きだって、言えて……ない、の……に…………)
カクンと膝の力が抜ける。そこでマリーは完全に意識を手放した。
もし叶うなら、再びこの腕に抱かれたいと思いながら―――。
◆◆◆
少しカサついた大きな手が頭を撫でた。優しく優しく、それは何度も繰り返される。
(きもちいー…………)
――ピタリ。
一瞬止まった手の動きを不思議と思ったのか、重たい瞼を薄っすらと開ける。ふるふるとまつげが震えた。
視界が半分ほど開けたところで、ようやく焦点が合う。マリーは乾いた喉をそのままに、小さな声で呟いた。
「ジーク、様……」
「マリー……おはよう」
じっと見つめてジーク本人であることをきちんと確認すると、彼の手が頭に伸ばされていたことに気付く。
反対の手はマリーの左手に繋がれており、ギュッと力を込められた。
「えっと、私は一体……」
ここが自分のベットの上であることは感覚的に分かる。
マリーは一体どれだけ眠っていたのだろうと疑問に思い、カーテンを瞠る。隙間からわずかに溢れる月明かりに、倒れてからゆうに2、3時間は経っていることが分かった。
マリーは再びジークに視線を戻す。ジークはぐっと顔を近付けた。
「ここはマリーの部屋で、今は午後7時。……ゆっくり休ませてあげたいけど、大事な話があるから起きれるかい?」
「はい」
ジークはそう言うとベッドサイドにあるベルを拝借し、使用人を呼び出した。
飲み物、軽食、羽織物、テキパキと必要なものを用意するよう伝えると、最後に「手筈通りに頼むよ」と言って、マリーが起き上がるのを支えようと立ち上がる。
「あの、ジーク様、手筈通りとは……?」
「ああ、多分直ぐに分かるよ……って、もう来たみたいだ」
「?」
扉の外から近づいてくるようにバタバタと慌ただしい音に、マリーが両親の姿を想像するのは簡単だった。娘が倒れたのだから走って様子を見に来るのは当たり前とまでは言わずとも、何も変わったことではない。
――ガチャン!
起きたばかりのマリーには耳を塞ぎたくなるような大きな音を立てて扉が開いた。
「お父様お母様……とマッケン先生と……え? ダンバル先生までどうしてこちらに?」
現在のマリーの専属医のマッケンが現れたことには然程疑問を感じなかったが、まさか前専属医のダンバルまで来るなんて、何かおかしい。
自分が寝ている間に一体何があったのだろう。
現れた人物たちが何とも言えない表情しているので尋ねることが出来ないマリーは、答えを探るようにジークの表情をちらりと覗う。
(あら……完全に怒っている顔だわ……一体何に怒っているの……?)
笑顔だが目の奥が全く笑っていない。どころかグオオと溢れんばかりの怒りのオーラが込み上げているようにさえマリーには見えるのだ。
「マリー目が覚めて良かった。調子が悪いところはないかい?」
「お父様……大丈夫ですわ。ここ最近で一番調子が良いの。ご心配をお掛けしました」
「それは良かった。―――その、それで、だな。……先生方から話があるようだからよく聞きなさい」
「? 分かりました」
(何? なんなのこの重々しい雰囲気……まさか余命が短くなったとか……? 明日死ぬ、とか……)
マリーは最悪の展開を想像して泣きたくなったが、ジークが側にいてずっと手を握ってくれているので気丈に振る舞う。
医師二人がベッドの近くまで歩いてくると、現医者のマッケンが起立した状態で口を開こうとしたのだが。
――ガゴンッ!! ガゴン!! ガゴン!!
「こらマッケン!! 正座をせんか正座を!! 」
「痛いよ爺ちゃん! 分かったから殴んないでよぉ……!」
目の前でかなり強めのげんこつが三発振り降ろされ、マリーはぴしりと身体を硬直させる。こんな鬼の形相で手をあげるダンバルを、マリーは見たことがなかった。
マッケンとダンバルは孫と祖父の関係で、代々マリーの家の専属医を担ってきた。ダンバルの高齢を理由に、孫のマッケンに代替わりしたのはついこの間の話だ。
――そうしてマッケンにマリーは、余命宣告を受け現在に至るのだが。
「早く言わんか!! これでも医者の端くれだろうが馬鹿者!」
床に正座した二人。ダンバルはおどおどして何も言わないマッケンに怒号を飛ばし、そして――やっとマッケンが口を開いた。
「お嬢様……! この度は申し訳ありません……!」
額を床に擦りつけるように頭を下げたマッケンの謝罪に、マリーは慌てて頭を上げるよう言うが、どうやら聞く耳を持っていないらしい。
隣りに座っていたダンバルも「わしからも謝らせてください」と頭を下げられる始末に、マリーは理由を問いただす。
「実は……その、この間お嬢様に余命宣告をしたのですが……」
「……ええ。はっきりと覚えているわ」
ジークの反応から察するに、どうも余命のことは既に知っているらしい。
マリーはジークに持っていかれた意識をマッケンに移す。
そうして、信じられない言葉が耳に入ってくるのだった。
「その件なのですが……、ご、誤診だったのです! お嬢様の身体は本当は健康そのもので……っ! 申し訳ありません……!!」
「へ!?」
「わしからも、申し訳ありませんお嬢様! この阿呆の完全なミスでして、言い訳のしようもございません」
「え……? つまり……? 私、死なないの?」
「「はい」」
突如の奇跡に、ゆらゆらと視界が揺れる。目の端に溜まった涙を零さないように天井を見上げたマリーは、繋がれた手に力強く握り返した。
「私っ、生きられるのね……!!」
(なんだか嘘みたい。体も軽くなった気がするわ!)
マリーはこのまま喜びに浸りたいところだったが、問題が残っていることに着目しなくてはならない。なぜ誤診が起こったかということだ。
マリーの考えていることをジークは即座に理解して代弁すると「説明してくれる?」とあの貼り付けた笑顔で医師たちに尋ね―――脅した。
マッケンはジークに凄まれたことで完全に機能が停止したようで、代わりに祖父であるダンバルがゆっくりと口を開く。
「まず、先程眠っているお嬢様をわしが診察しました。この命を懸けてでも健康状態は良好、と言って差し支えないでしょう。倒れてしまったのは極度の睡眠不足とストレスですな。……余命宣告を受けたことが原因かと思われます」
「なるほど……。それで、誤診に至った理由は何かしら……?」
「孫いわく、お嬢様の心臓の鼓動が異常に速かったからだと。直前に運動はしていないことは確認済みだそうです。最近原因もなく心臓が速い鼓動を刻む病気が発見され、およそ余命が一年の症例が多かったことから、そう診断したと……完全なるこやつの時期尚早というやつです」
じろり、とマリー以外がマッケンを冷たい目で凝視する。今にも穴が空いてしまいそうだ。
あまりにもかわいそうなので、マリーは助け舟を出すことにした。
「まあまあ……マッケン先生はまだお医者様になってから日は浅いんだし、仕方がないですわ。それにほら、もし何か病気があって見逃されるよりは良いわ! ね? そうでしょう?」
「お嬢様アアア………!!」
一番迷惑を被ったはずのマリーがこう言うのだ。周りがこれ以上マッケンを責めることは出来なかった。
暫くして、マッケンとダンバルは深いお辞儀をしてから屋敷を後にした。
余命宣告を受けたことでジークとの婚約を解消しようと躍起になっていたことを知っている両親は気を使ったのか、また後でくるよと言って出ていく。
全てが解決した中で、マリーは自室でジークとふたりきりになった。
ジークはベッドの縁に座り直すと、マリーの肩をぎゅっと引き寄せる。
「はあ……本当に、人騒がせな医者だったね」
「ふふ、ごめんなさい」
「マリーが謝ることないよ、むしろ被害者でしょ」
「確かに……そうですけれど。ジーク様に酷いこと沢山言ってしまいましたから」
マリーの言葉に、ジークはゆっくりと頷く。「確かに傷付いたなあ」と言いながら顔をすりすりと寄せてくる姿はまるで大型犬だ。
甘えられるのが嬉しくて、マリーもすりすりと顔を動かしてみる。
ジークがフッと微笑んだのが肌越しに分かった。
「それにしても、どうして今日はダンバル先生まで来たのでしょうね?」
「それはね、マリーが倒れた時にご両親が余命宣告を受けたことを話してくれたんだ。けど僕はなんだか腑に落ちなくてね……マリーの体のことは医者より僕のほうが分かってるつもりだから」
「お、お医者様より……?」
「うん。だから他の医者にも診てもらったほうが良いと進言したんだ。―――あと、これは推測だけど、もしかして診察をされた日って僕と初めてキスした日じゃなかった?」
「……! どうしてそれを」
「やっぱり」
(何で分かったの? ジーク様ってもしかしてエスパー? ってそんなわけないものね)
黒目をキョロキョロさせて考える素振りを見せるマリーに、ジークは耳元で囁いた。
「キスしたドキドキで診察に引っ掛かったんじゃない?」
「!?」
「まったく……キス以上のことしたらどうなるんだか」
マリーはジークの言葉通りの想像をして、全身の血液が顔に集中してゆくような熱を感じた。
「それにしてもいくら余命宣告されたからって僕と別れようとするなんて無謀だよ。僕はもし君が死んでも他の誰かと添い遂げることなんて無い」
「そんなこと分からないじゃないですか」
「本当にそう思う? まだ……僕の愛の重さ伝わってないかな?」
「―――いえ。……伝わりましたわ」
余命宣告をされてからの数々の所業。そのときのジークの反応を思い出し、頬が緩むのを隠そうと伸ばしたマリーの手はスッと奪われてしまう。
「今凄く可愛い顔してたから隠さないで?」
「いっ、意地悪ですわ……!」
ぷりぷりと怒るマリーにジークは余裕綽々といった表情だった。
そのままマリーの手首を掴んでいた手を解き、そっと後頭部に手を回して自身の胸に押しやると、空いている方の手でサラサラとした髪の毛を優しく梳かす。
絡むことのないの艶のある髪を一束摘んで、そっと口付けた。
「可愛い。そんな反応してるようじゃ、マリーはどうやっても悪女にはなれないね」
「い、いつかはなってみせますわ……!!」
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