"Quiet moon" dreams of "Dr. Mavis"
それは、メイビス博士が『メイビス博士』を名乗る前、『静月』と呼ばれていた時の話。
首都郊外には、「文化財団」と書かれた看板が入り口にかけられたさえない建物がある。周囲の景色に埋もれて特筆事項のない、地上二階建ての二階の部屋に彼はいた。
「この人間をカバーし、組織に潜入しろ」
『暗月』と呼ぶ上司から差し出された書類の束には、『メイビス博士』と書かれている。先の任務を終え、しばらくの休暇を楽しみにしていた『静月』は、文句も言わずに書類を眺めた。
――――これはまた、愉快な内容になりそうだ。
休暇への興味は薄れ、新しい任務に取りつかれる。何をすればいいか迷う休暇よりも、スリル満点の任務を請け負うほうが何倍も生きている実感がわく。彼自身ワーカホリックではないと思っているし、実際その通りなのだが、いささか生の実感を追求しすぎるきらいがあるだろう。
そこに書き連ねてあるのは、国王の名で秘密裏に運営される諜報機関『宵闇』が調べ上げた情報と、王国政府が実行してきた「地下研究組織」への経済制裁一覧。先王時代から積み重ねられた情報と行動が、はっきりと組織への資金流入を邪魔し、量を減らしていることが見て取れる。
「ギフトの非人道的開発を目的とした組織でしたね」
もともと、先王や現国王の命を受けて『宵闇』はこの地下組織を探していた。『静月』も、今より若い時分に関わったことがあるので存在は知っている。自分が情報を得ていたころはまだ研究施設が把握できておらず、見つける間もなく別任務に回されてしまったのでその先を知らない。しかし、書類を読み進めれば、その施設の場所も書かれている。見つけたのか。
(首都北部の山、林道の先から入れる地下室か。灯台下暗し)
『静月』がコピーする人間は『メイビス博士』という小児科を専門とする医者だ。■■■■は一応医学部出身なので、それ故に選ばれたというところだろう。
『メイビス博士』は暢気でちょっとぼんやりしているらしく、子供を救うという理由だけで地下組織への就職を決めてしまったらしい。今頃本人は王国政府に丁重に「保護」されていることだろう。
「彼らの研究データに陛下は興味を持っている。しかし、そこでなされる所業については容認できないという」
「…となると、僕は斥候ですね」
書類を読み進めつつ、『暗月』への反応として肩をすくめた。ふ、と息を漏らすような笑い声の後、中性的な声が命令を下す。
「一番の望みは、施設の制圧。敵情が分かり次第報告しろ」
「承知しました」
そうして送られてきたのが僕、『メイビス博士』だった。
しかし、想定外なことに、任務初日で落下物に頭をぶつけて記憶を飛ばしてしまった。一応機関員の嗜みとして、表層の記憶を飛ばしても問題ないように、外してはならない重要なことは全て深層の記憶に封じ込める習慣がついている。自白剤対策とも重複する習慣のお陰で、記憶が無いながらに自分は任務をこなし、敵情の把握に努め、この施設を理解しきった。
あとは報告をするだけ、という状況になった時、またも想定外が起きた。子供たち、正確には双子とベネディクト、メルが脱走した。大人たちが実験に夢中になっているところを狙って脱走したのは良かったが、彼らの腕につけられたタグに管理装置がついていたのは知らなかったらしい。装置からの通報を受けた彼らは研究者とはいえ、大人だ。地下に閉じ込められて暮らす弱った子供たちを捕まえることは造作もなかった。
聞いた話では双子が最初に捕まり、次にベネディクト、最後にメル。メルは、街の中まで逃げおおせたらしいが、女性に助けを求めたところで見つかってしまったらしい。
「その女性、通報したのでは?」
「そうだとしてもここは分からんだろ。もう10年はバレてない」
今思い返せば、これが彼らの油断だろう。『宵闇』は、ここの存在を知っているのだから。
気絶したメルをアンネマリの部屋で看病する。ベネディクトはいつもの部屋でふてくされていたが、処置はおとなしく受けてくれたので放置でいいだろう――――そう考えながらメルの腫れた頬を冷やしてやり、ぶつけたのか鼻血の跡があったので拭っておく。目覚めるまで本を読んで待っていると、案外すぐに目を覚ました。
「メル…」
「………はか、せ…」
生理食塩水を渡してやると、コップ一杯分を一気に飲み干した。緊張状態で必死に体を動かして頑張ったはずなので、脱水症状が心配だ。これについてはベネディクト達も含めて今日一日は管理してやる必要があるだろう。
そう思っていると、急に白衣の袖口を引かれた。
「『静月』って、何?」
「………!」
思考にもやがかかっていた部分が快晴の空のごとく澄み渡る。
(まさか、機関員の心情をドンピシャで読み取って来るか?)
幸い、衝撃的なメルの一言で記憶を取り戻した『静月』。
おやすみ、とメルに誤魔化しのために偽の記憶を植え付けるよう催眠をかけながら寝かしつける。そうしてまた眠りに戻ったメルをいつもの部屋へと戻し、鉄格子の向こう、医務室から『宵闇』に情報伝達と突入部隊要求の通信を送った。"救援"が到着するのは最速で明日の朝だろう。そこまで何もなければ、子供たちを無事に外へ出すことが出来る。
(いつもなら…問題ない)
そう思っていたが、二度あることは三度ある。――――朝までは何もされないと踏んでいた子供たちが危険にさらされた。
鉄格子の向こうで、メルがこちらに気付く。
「博士!」
機関員は目立ってはいけない。しかし、目の前で守るべき子供が手を出されようとしていて、それを止めてほしいと幼子に助けを求められてなお任務を優先できるほど出来た機関員ではなかった。
(僕は、『暗月』のようにはなれない)
気付けば盗んだ鉄格子の鍵で中へ入り、メルの思いを読ませてもらっている。
(やりやがった)
機関員にあるまじき感情が沸き上がった。
閉じ込められたメルたちを放置して、アンネマリの部屋の扉を蹴破る。こちらを振り向いた研究員、何時ぞやの医務室で本を読んでいた男の腕を捻じり上げる。彼がアンネマリから離れたところで、容赦なく意識を刈り取らせてもらう。殺しはしない。罪や罰を決めるのは僕ではなく、法だ。
男の衣服をはぎ取って、縄代わりに縛り上げる。…この程度のひ弱な肉体なら、これでも十分拘束にはなる。
「は、博士…?」
「君はこっち」
髪をぼさぼさにしたアンネマリを連れて廊下へ出ると、今度はアンリマユ達三人のいる部屋の扉を蹴破る。…盛大な音がした。もう誰か起きてきてしまうだろう。
「…すげぇ」
こちらを見て、ボヤくように言ったのはベネディクト。呆然としている三人にアンネマリを預け、扉を閉める。鍵は先ほどの蹴りで壊してしまったので、本当に閉めるだけだ。
鉄格子の向こうから、研究者が数人入ってくる。
「メイビス、何してる」
「アンネマリに無体を働こうとした輩がいたので、取り押さえました」
「別に、何も問題はないはずだ」
「…それは、新しい実験体が欲しいという意味で?」
「もちろん」
(………)
うねる熱をねじ伏せるように、隠し持った麻酔瓶をポケットの中で掴む。ふたを開けて、同じポケットにしまっていたハンカチに滲ませていく。
(………死ぬな、殺すな、そう、殺してはいけない)
幸い、ここには引きこもりの研究員しかいない。長年経済制裁を受けてきた組織は、もう警備に金を割けないのだから当然だ。そして、こちらには『宵闇』の機関員――――何でもできるとお墨付き、『暗月』の英才教育を受け『月』を与えられし一人。
(自分は今、自分の感情のために子供たちを守ろうとしている)
僕は諜報機関『宵闇』の『静月』。
しかし今だけは、『メイビス博士』だ。
「うが、」
「ぎっ」
「ぶえ!」
大人の悲鳴が短く響く。ふと左を見ると、扉についた監視窓から、右目を隠すように包帯を巻いた子供が恐る恐るこちらを見ていた。ノーマルの子供のうちでも、比較的元気な子供だった。ウインクしてやれば、理解の範疇を超えた光景に思考が追い付かないらしい、普段は胡乱げな顔にはっきりと困惑の表情が見えた。
流石に、大人たちの内紛は子供達には想定外どころか実在すら考えられてなかったらしい。確かにみんな同じ白衣を着て、実験を狂ったように行うやつらばかり。僕のように大人を殴る蹴るするような人間、久々に見ただろう。
汚い床に倒れこんだ、3人目の白衣の男の頭を蹴って意識を刈り取る。力加減は完璧だ。殺しはしないが、すぐに目覚めることもない。
「メイビス、お前まさか政府側――――」
「子供たちに近づくのはやめてもらおうか」
今更すぎる質問を無視し、こちらの要求を押し通す。女性研究員が助けを求めに連絡を取りに行ったようだが、夕方までに通信回線を王国政府機関直通に弄り直しておいたので、どのダイヤルにかけようが、誰にかけようが、相手は訓練されたスパイが相手する。『暗月』に潜入前から伝えられている作戦通りなら【声帯】のギフトホルダーが担当するはずなので、一人で何十人も性別を問わず演じ分けてくれることだろう。
「くそっ、くそっ!メイビス!」
研究員がナイフをやみくもに突き出してくる。よく見れば手から生えているので、ギフトホルダーだ。…そういえば、ここには一人、【ナイフ】のギフトを持つ研究員がいた。確か、【身体から短い刃物を生やせる】だったか。彼のことらしい。
ギフトの発動を阻害する装置も手段も持ち合わせていないので、ポケットに突っ込んでいたハンカチを彼の顔面に投げつけてやる。驚きで動きが止まったところを、すかさず手を広げてハンカチごと顔面を掴み、右の壁に押し付ける。ハンカチに染み込んだ麻酔薬と僕に与えられた打撃とでめちゃくちゃになったらしい彼が崩れ落ちた。ナイフはもう生えてこない。
丁字路にじりじりとにじり寄る。鉄格子を境に、研究員たちが後ずさる。顔は真っ青で、ひどい奴は自分よりも小柄で力がなさそうな女性研究員を男も女も性別問わず盾にしている。呆れを通り越す。いや、彼女がとっても強いのかもしれないが…恐らくそうではない。
(残り、ひーふーみー…)
あと何人倒せばいいかを数えている間に、外との出入り口の扉が荒々しく開けられる音がする。
「大丈夫か?!」
男の声と共に、複数人が入ってくる足音が響く。
「やった、救援だ!」
「早く!あいつとんでもなく強いぞ!」
さっきまで死人のような顔色をしていた研究員たちが喜びすさんで出入り口の方へ動き出す。我先にと助けを求めに行く様は愉快だ。
「………」
一方、僕は仕事が終わったことを認識した。
(…どう聞いても、知ってる声だ)
男の声には聞き覚えがあった。鉄格子から向こう側へと顔を出してみれば、予想通りの絵が完成していて。
「どーも、地下組織の皆さん――――国王です」
名乗りを上げた階級に見合わぬラフな服装――――Tシャツ、リュック、腰巻きウィンドブレーカー、ズボン、トレッキングブーツ。山登りを楽しんだついでに来たと言わんばかりだが、それでも笑顔は名乗りを上げた階級に見合う上品なさわやかさ。その周りにいるのは僕よりもこの場向きな戦闘員たち。跳弾を警戒したのか、武装は銃ではなく刃物だが、それでもこの状況には十分すぎるだろう。
「制圧しろ」
人間離れが疑われる我らのボスすら従える若き王は、冷徹な光が差す瞳で命令を下した。
***
この地下にいた白衣の大人たちが軒並み伸された後、鉄格子を越えてくる一人の女性に声を掛けられる。
「『せ』――――じゃない、えっとえっと、博士!大丈夫?!」
「ブライト侯爵令嬢…?どうしてここに?」
『静月』ではなく、ちゃんと今の役職で呼んでくれる彼女は、古い知り合い。彼女も何故か、国王と似たような登山服だ。
「ここから子供が脱走してない?その子に助けてって言われたから来たんだけど」
「ええ…登山服で…?」
「彼女を殴った男の人相もちゃんと【念写】したし、陛下がここに間違いなくいるって言ってくれたんだけど…」
まさか、メルが助けを求めた相手が浮かれ登山服とはいえ元同僚――――過去に『月光』と呼ばれていた事務職の元機関員だとは恐れ入った。メルの強運もしくは『リシュテア・ブライト』の嗅覚にドン引きしていると、背後からメルの嬉しそうな声がした。
「あ、昼間の女の人…!」
「あっ!いた!陛下、彼女ですよ!」
リシュテアが国王陛下の袖を引っ張る。連れてきた部下に指示を出していた陛下は、夜空色の瞳を下に向けた。気づけば、僕の周囲にいつもの子供四人が張り付いている。
陛下がこちらを見る。先ほどの冷徹さは消えていたが、それでも仕事中の真剣な面持ちだ。
「脱走したのはこの四人だな?走れる程度には健康だと聞いているが」
「はい。状態は良いです」
ふむ、と再び視線を下げた彼が四人を順に眺める。そして、判断を下した。
「おい、部屋の子供たちを警察病院へ運べ。病院でも部屋は可能な限り一緒か近くにしてやるように。そこの四人は、事情を聴きたいので俺が引き取っていく」
「承知しました!」
「………」
他人に放り投げるつもりは元々なかっただろうが、彼が『自分の仕事』として明言したことに安心した自分がいる。
気づけば白衣を掴むメルの右手を、自分の左手で包んでいた。それに気づいたメルが、恐る恐るこちらの手を握る。小さい手を、こちらも握り返した。
「四人は俺についてきてくれ。――――リシュテア、『メイビス』、帰るぞ」
「はい」
おいで、と手招きされた子供四人がこちらを見上げる。安心させるために微笑みを浮かべて手に入れた力を緩めれば、小さい手が離れ、子供たちが陛下とリシュテアの元へ歩き出す。
「そうだ、『メイビス』」
「はい」
雇い主が嬉しそうに目を細める。
「よくやった。上司に褒めてもらえ」
「いえ、殴られそうです…」
「?」
首を傾げる雇い主はまだ普通の人間だ。…まさか頭をぶつけて記憶を吹っ飛ばすなどという、見てないところで行われたやらかしすら見抜きそうなあの魔王が上司なのだ。こってり絞られるに違いない。
臣民として敬愛する陛下の目前にも関わらず、『静月』は頭を抱えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ストックが尽きたので続きはちょっとお待ちください…間に合わなかった…