Battle of the Children
人が歩ける程度に整備された山道を、メルは走る。
地面の色濃い茶色、木の葉の穏やかな緑色、空の鮮烈な青色。呼吸の合間に感じる土の香り、岩に張り付く苔の湿り気。太陽の日差しが与える熱と、木々の影が冷ます熱。
久方ぶりの外は、とても息がしやすかった。
(いつぶり?)
思わず現実から逸れる思考を修正するように、前を走るベネディクトに手を引かれる。
「よそ見しない!ほら、ここ飛び降りて」
「飛び…?!」
「ちょっと降りると短縮になるだろ?」
言われるがままに下る。ボロボロの靴でもなんとか木の葉や柔らかい土を崩しながら降り、最後に着地したそこも道だった。ケガはない。
【く !どこ い !】
【道 下って に違いな 】
ギフトで大人たちの声を確認するが、ノイズが走ったり聞こえにくかったりするので距離が離れていることが何となくわかる。その事実を、ちょうど跳ねるように降りてきたベネディクトに伝えれば、彼は口の端に笑みを浮かべた。
「今のところ順調だな。――――行くぞ!」
再び走り出す。木々の隙間から、麓の町並みが見える。そこを目指して、一目散に走るのが、今やらなくてはいけないこと。
そうなった経緯を、メルは思い返す。
メイビス博士のお陰ですっかり四人の溜まり場となったアンネマリの部屋で、ベネディクトとメルを挟むように双子が座る。
「?」
戸惑う私たち二人に、アンネお姉ちゃんは笑顔を向ける。メルの腕をつんつんと突いて、ギフトを使ってほしいとお願いしてきたことはちょっと珍しい。
【なあに、アンネお姉ちゃん】
【今から四人で内緒の話をしたいの。伝達してもらえる?】
【わかった】
集中するために正面を向いて目を閉じたメル。確認すれば、アンリお兄ちゃんやベネディクトの返事も聞こえてくる。うまく【心読み】を手繰ってやりとりができているようだ。
【実はね、明日の昼に脱走しようと思うの】
【は?】【え?】
ベネディクトが素っ頓狂な声を上げた。メルも閉じていた目を開ける。
どうどう、と落ち着かせられて続きを聞かされる。
【お昼の…ちょうどこのくらいの時間、いつも誰も来ないし、鉄格子の向こうも人が歩いてないでしょう?だから脱走しよう!】
【あー…姉さんの説明に補足すると、麓へ助けを求めに行こうと思ってる】
詳しい説明をアンリお兄ちゃんがしてくれる。【私はパッションで動きがちだが、アンリはきっちり筋道を立てて動きたいタイプなので任せておく】――――とアンネお姉ちゃんの心が聞こえたので、「そうなんだあ」とアンリお兄ちゃんの言葉に集中して意識を向けた。
そうやって大体の説明を受け、内容は理解できた。が、疑問が浮かぶ。
【内容は分かった。でもなんで急にこんなに決まってるんだ?】
ベネディクトの疑問は尤もだった。メルも同じことを思っている。
その言葉を受けてか、双子の心に何人もの子供の顔が浮かんで消えた。メルも、おそらくベネディクトも知らない子供たち。多分、ここで生きて、死んでいった子供たち。私たちよりも長い期間をここで過ごしている双子がずっと見てきた子供たち。
【詳細は省くけど…情報を残してくれた人がいるんだ】
【そっか】
ベネディクトは踏み込まなかった。私も、その必要はないと思う。きっと、知らなくていいから双子は教えてくれない。なら、聞く必要はない。
役割分担などをしてからその日は眠りについて――――翌日、昼間の一瞬を突いて、私たちは外へ飛び出した。警報の音にびっくりして、蜘蛛の子を散らすように逃げ出して、そうして今に至る。
息が上がって苦しい。それはベネディクトも同じだったみたいで、適当な落差のある所で縮こまって座る。土と木の隙間に隠れて、荒れた息を整える。ちょっと息が楽になったら、ベネディクトは立ち上がって私を連れて歩き出す。
「もうちょっとしたら、また走ろう」
「うん」
少しでも距離を稼いでおかないと、大人たちはすぐ私たちに追い付いてしまうだろう。
歩きと走りを交えて、何とか捕まることなく山を下る。見慣れない建物や石畳に戸惑っていると、手を引かれた。
「こっちだ」
人の隙間を縫って進んでいく長い髪を追いかける。そういえば、警察にいこうって話になったけれど、ベネディクトは迷いなく歩いていくのがすごい。私は何もわからないのに。つい、ギフトで話しかける。
【場所がわかるの?】
【ああ。なんてったって、俺は5歳までここに住んでた】
話を聞けば、ここは首都の北部エリアで、労働者の町なのだという。ベネディクトはここで育ち、不慮の事故で両親と死別してからは首都郊外の孤児院で暮らしていたという。
【記憶にある町並みにあまり差はないし、すぐ行けるぞ】
頼りがいのある言葉だ。自分より一回り大きい手をきゅっとつかんで、離れないようについていく。広い道から、狭くて人の少ない道に入る。
【ここは裏路地だから、目につきにくいんだ】
【冒険してるみたい】
【…そうだな】
静かに、薄暗い路地を進む。さっきの明るい街並みと違って、ここは自分の見た目にはしっくりくるような空間だ。
そう考えて、ふと気づく。
(わたしは…自由で、明るい世界にはいられない?)
親に捨てられ、周囲の人にも好かれず、地下で縛られた生き方しか知らないわたしは、ずっとその通りにするべきなのではなかろうか。
わたしに、眩しい世界はダメなのかもしれない。
俯く顔を重たい色をした長い髪が覆っていく。メイビス博士が止めてくれたピンが視界の左端に映る。
(………)
あの人は、ここにいるわたしを見て、地下にもどれと言うだろうか?
わからない。知らないもの。何て答えるか、想像したこともない。
「――――メル」
「?」
引っ張られるまま、木箱の陰に隠れる。現実に戻った思考をフル稼働させてベネディクトを見上げると、彼が困っているのがわかった。そっとギフトの範囲を拡げると、地下の大人達の声。
【行く手に二人、戻ってもいそうな雰囲気】
ベネディクトの手が離される。
「ベネディクト、」
「俺がおとりをやるから、メルはこっそり行け。いいな」
長い前髪の下、琥珀色の瞳が笑う。
(………!)
気づかなかった。路地裏でさえ地下よりも明るいこの世界では、彼の瞳は宝石のようにきれいに見えるなんて。
(もし、もしも、太陽の下にベネディクトがいたら、彼の瞳はどんなにきれいだろう)
アンリお兄ちゃんやアンネお姉ちゃんの二層の瞳は、どんな風に見えるだろう。
きれいな服を着て、髪を整えて、みんなで太陽の下にいたら、それはとっても素敵なことなのではないだろうか。
「この先、左手に『警察署』があるから。そこに駆け込んで、助けてもらえ」
「でも、」
「大丈夫だ。俺は足も速いし、それに、メルの方が上手に状況を伝えられる。お前は賢いって、みんな知ってるから!」
彼が飛び出していく。
白衣の大人達が、みんなベネディクトを追いかけていく。
「うるせー!帰らねえぞ俺は!」
地下にいる時よりも楽しそうな声。
木箱の陰から垣間見れば、ベネディクトは必死に走っている。けれど、それでも彼はとても自由に見える。長い髪も、琥珀色の瞳も、なにもかもが輝くようだ。
(あれが本来の姿なら)
みんながあのようにキラキラするのなら、きっとそれは、悪いことではない。
「…!」
明るくて、眩しい大通りへ出る。見たことのない人の多さに怖気づくが、【心読み】を使って人を見分けていく。
【あーかったるい】
【上司が今日も無茶言う】
【おやつ何にしようかな~】
【新刊落とした…】
【陛下と食事を一緒に外でするのは久しぶり】
――――っ、あの女の人!
キャパオーバーで垂れてきた鼻血を拭う。“陛下”という言葉で偉い人だとアタリをつけ、メルは迷うことなく彼女に向かって走り出す。
何かを察知して話しかけてくる大人たちの声を振り切り、驚いた様子でこちらを見た彼女に、問答無用で手を押し付け、地下への道のりと地下空間の惨状を見せる。
「?!」
彼女はメルの行動にギョッとしたものの、手を引くことなくこちらを見つめ続ける。ギフトにも驚かず、メルにとって今まで受けたことの無い不思議な反応を見せた彼女がふと、言葉をつぶやく。
「…『静月』?」
記憶を見せた相手が、メイビス博士のことをそう呼んだ。何故――――と聞く間もなく、
「メル、勝手に出て行っちゃだめじゃないか」
彼女に触れていた手を掴まれ、引きはがされた。背後へと捻じるように腕が回され、痛みに思わず悲鳴を上げる。
「ちょっと!なにして――――」
「すみませんねえうちの子が。やんちゃなもんでして」
逃げようと暴れるも、腕に何かを打たれて力が入らなくなる。
地面に頽れる。
女の人の怒ったような声と、男の人の窘めるような声が聞こえる。
【たすけて】
石畳の冷たさに飲まれるように、メルの視界は真っ暗になった。
地下の医務室で、本を広げる医者が一人。彼の過ごす時刻はまだ午前中で、脱走事件が起きる前の時間。
今日の仕事をほとんど終えてしまった――――もともと子供たちの体調管理くらいしかすることがない――――メイビスは、ため息をつく。
(いつ手に入れた…?)
気づけば、鉄格子の鍵を入手していた。丁寧に靴底へと隠す所作は明らかに犯罪者のそれな気がするが、自分は犯罪行為をするような人間ではなかった気がする。なんか、何か理由があってこんなことを覚えて実践していたはずなのだが、肝心の理由を未だに思い出せないでいる。
誰も来ない医務室で一人思考を回していた時、警報が鳴る。
「何ですか?」
廊下へ顔を出せば、慌てた様子の研究者たちが走りだしていた。ちょうど正面を行こうとしていた女性が疑問に答えてくれる。
「子供たちが脱走したのよ!」
「へー…へ?」
「しかもよりによってあの四人よ!急いで連れ戻さないと!」
わたわたと走っていく方向を見れば、確かに施設唯一の出入り口が解放されていて、初夏の青々とした緑が見えた。
(もう外は夏が近い――――いや、そうじゃないんだよなあ!)
現実逃避しかけた頭を抱える。
え?子供たちが脱走?聞いていない。いや、聞いていないのは当然としても、想定の外だった。どうやって助ければいいんだとか考えている間に子供たちのほうが先に行動を起こしてしまうとは。
大人が情けない。子供達の方が余程よくやっているではないか。
(そのやり方だって、よく知っていた気がするんだが…)
靄がかかる記憶と知識の一部分が行動を抑制する。飛んだ記憶は余程重要だったらしい。何もできない自分に苛立ちだけが募った。
結局、取っ捕まって鎮静剤を打ち込まれた子供四人に、彼らの牢獄で生理食塩水を点滴によって補給させる。まもなく目覚めた擦り傷だらけのアンネマリに消毒を施し、打撲傷が見えるアンリマユには氷を渡し、無傷のベネディクトは不貞腐れた様子で部屋の隅に縮こまったので放置した。
疲労が大きかったのか、なかなか目覚めないメルのために、アンネマリが自室を提供してくれたので、言葉に甘えて彼女を寝かせた。本当なら医務室に寝かせておきたいが、四人の脱走で警戒心を強めた研究者がそれに反対した。
一応部屋も全部ひっくり返して捜索して新たに脱走の道具が発見されなかったのだからいいじゃないか、という自分の意見はあっさり却下され、信用のなさが伺える。
「全く、イヤになってしまうよ」
「う…?」
「!」
呻く声がしたので視線をずらせば、メルが目を覚ましたらしい。ぼんやりとした様子の彼女に声をかければ、まだ薬の効果が抜けきらないのか緩慢な様子の彼女がこちらを見る。
「ねえ…『静月』って、何?」
メルが小さく言ったその言葉に、自分が静かに目を見張った。
***
「………?」
メルは、何か物音を聞いた気がして目を覚ます。目をこすり、ぱちぱちと瞬きをしてあたりを見回せば、いつもの地下室だった。
(脱走、失敗したんだっけ…助けは…呼べたのかな…?)
日中からの記憶が曖昧だ。一度目覚めた気がするのだが、よく覚えていない。明日、誰かが教えてくれるといいのだけど――――そう思ったところで、物音を聞いた。今度はちゃんと認識した。
「………」
室内に特に何かが起きている様子はない。アンリマユは規則正しい寝息をしていたし、ベネディクトはいつものように布団をはみ出して床で寝ている。自分はそこそこ寝相が悪いが、今日はちゃんと枕が頭の位置にあるから良い。
(…勘違い?)
ふわ、と欠伸をして、布団に潜りこんだその時、頭に悲鳴が響く。
【嫌!嫌!助けて!誰か!】
「アンネお姉ちゃん…?!」
布団を跳ねのけて叫ぶ。靴も履かずに地べたを走り、部屋の扉を開けようとしてそれが開かないことに気付く。
(閉まってる?!)
引いても押しても動かない扉に、いつもはかけられていない鍵がかけられたことを知る。つまり、部屋の外で何かが行われている。それは誰に?
【アンネお姉ちゃん!】
「…メル?」「んあ…何?」
思い余って心の声が漏れ出してしまったのか、アンリマユとベネディクトが起き上がる。寝ぼけ眼の二人に、メルは思いっきり思念を送る。
【アンネお姉ちゃんに何か起きてる!】
「――――どいて」
血相を変えて起き上がったアンリがガタガタと扉を開けようとするが、やはり開かない。
【ちっ、ガキどもが気づきやがったか。さっさとやっちまわねえと――――】
アンネの悲鳴の合間に、そんな低い声を聞き取ってしまったメルの背中が冷汗に濡れる。
(どうしよう)
普段はかけられない鍵をかけられてしまった。いや、これも計画のうち?そうだとしても、これではアンネマリが傷つけられてしまう。そもそも、アンリマユも慌てているあたり、これは想定外なのではなかろうか。
(どうして、どうすれば、だれか、だれかたすけて)
絶対にありえない願いを叫びそうになって、唇を噛む。私は知っているじゃないか、ここの大人たちはみんな子供を傷つける。子供の叫びに耳を傾ける人はいない。子供が死んでも、涙一つない。
私たちは道具だ。私たちは人なのに、人でないのだ。
(でも、だからってどうして私たちがこんな目に)
アンリお兄ちゃんが監視窓の隙間から腕を出しているが、鍵部分に手は届かなかったらしい。腕を引き戻して、いら立ちのままに扉を蹴飛ばしても何も変わらなかった。
そんな時だった。扉につけられた監視窓の斜め向こう、メイビス博士が見える。気づけば叫んでいた。
「はかせ!」
メルの呼び声にいつもにこやかな彼が、こちらの様子を見て取ったのか血相を変えて向かってくる。鉄格子の鍵を開けてこちらの廊下へとやって来た彼に、監視窓の隙間から手をつきだし、ちょうどこちらを覗こうとした彼の顔に触れてギフトを発動する。
「――――っ、」
抵抗するアンネマリの悲鳴を筒抜けに聞かせる。
もしかしたら、メイビス博士も大人だから、私たちを助けてくれないかもしれない。いつも優しいのは、単に嘘つきだからかもしれない。私たちなんてどうでもいいかもしれない。でも、前髪を整えてくれたことも、髪にクリップを留めてくれたことも、気絶した私が起きるまで横にいてくれたことも、私をこわがらないでくれることも、全部が嘘だって思いたくない。思わせないでほしい。
不安と恐怖であふれる涙をぬぐうこともしないで、ただ必死に伝える。
【アンネマリお姉ちゃんを、助けて!】
一瞬瞳が開かれて――――それが太陽の下にあるかのようにうつくしい、と思った時にはすでに、彼の姿は無くなっていた。




