九十九話:川流れ
ようやく復調した私は外へ出ることを許され、まず大兄を捜して陣営の後方を歩きまわっていた。
「もう、真冬なのにどうして外に出ているのかしら?」
「砦で何もできずにいたのが悔しかったらしいです。それで修練をすると言っていました」
一緒に捜すのは小妹。
大兄を捜して天幕を訪ねたけれど不在で、さらに阿栄や大哥、奉小まで一緒に外に。
小小も兄たちについていったとか。
「それにしてもさっきも通り雨があったのに、凍えてしまうわ」
「ここはとても雨が多いですね。それに濡れていないのに濡れたように感じます」
「空気が濡れているからでしょうね。寒くなって私のように熱が出たらどうするのかしら」
「それに、こんな地面で修練をしても、どろどろになってしまいますし」
「そうよ。子供なんだから何かできるわけないじゃない。それよりも健康が大事よ」
「でも、元仲さまは立派に努めていらっしゃいますし、阿栄もついて行っています。だから大兄は、置いて行かれたくないのではないでしょうか?」
それで引っ張られ同じ年頃の大哥と小小、奉小まで外に出てしまったのは想像がつく。
やるのはいいけれど、もう少し時機を見てほしいわ。
そう思いながら捜すけれど、見慣れた顔ぶれがいない。
「何処へ行ってしまったのかしら?」
「水たまりのない所ではないですか?」
「じゃあ、下草がある場所を選んだのかもしれないわね」
「あとは、お邪魔にならない場所かもしれません」
私と小妹は思いつく条件を上げて捜した結果、本陣の端まで来てしまう。
ただそこでようやく痕跡を見つけた。
「この小さな足跡、きっと小小よ」
「つまり、あっちですか?」
地面に残った足跡の爪先は、木立の中へと向かっていた。
耳をすませば、木々とは違う唸るような音が聞こえて来る。
「どうどう音がします」
「あれは、たぶん増水した水の音よ」
「長姫はよく知ってますね」
「え、えぇ、ちょっとね」
そう言えば私も許昌で暮らしていたから、本来こんな音知らないはずよね。
でも東の海の向こうの知識があるから、増水した水の音には予想がついた。
ここは濡須口で、巣湖からの水が長江に合流する所。
その河口の権利を争う戦いをしているため、本陣も濡須口付近に敷かれている。
「もしかして、場所を探してここに来た大兄たちも音を確かめに木立の中へ?」
閃くのは水難事故という不吉な言葉。
「大変! 足を滑らせたら長江に流されるわ」
「えぇ!? じゃあ、すぐに追わないと」
「だ、駄目よ。私たちだけじゃ助けられないわ」
「だったら、人を呼びましょう!」
「えぇ!」
慌てて私たちは大人を呼びに本陣へ取って返す。
すると運の良いことに見慣れた顔があった。
「父上!」
「宝児? どうしたんだい?」
父がいたので事情を説明すると、すぐに人手として自分の部下を集めてくれた。
そのまま大兄たちを捜す手伝いをしてくれる。
「皆、足元に注意を。連日の雨で滑りやすいぞ」
私と小妹もお願いして同行させてもらった。
父は集められた兵士三十人ほどを指揮している。
それ以外に二人残して応援を呼ぶ段取りもつけてくれていた。
水にさえ落ちていなければ杞憂で済む。
けれど声を出して捜しても、大兄たちは出て来てくれない。
「大兄、何処ですか? 大兄! まさか、本当に、水に…………」
「大丈夫よ、小妹。きっと、水の音で聞こえていないだけよ」
あまりにもおかしな状況に小妹が泣きそうになるのを、手を握って慰める。
(まさか、そんなことは…………。だって、阿栄以外は大人まで生きるはずでしょ)
けれど、状況は変わった。
司馬の伯達さまが生きるように、今後私が知らないように変わっておかしくはない。
…………だったら、逆もありうるというの?
(まさか、歴史にない動きをして早くに死ぬなんてこと…………)
嫌な想像に息が詰まる。
胸を押さえて下を見た私は、近くの下草と低木が視界の端に映る。
そして、埋もれるようにして靴が見えた。
長い裾を踏まないように爪先が反り返った靴で、そんなものを佩くのは上流階級だけ。
動く兵は身分が高ければ動きやすい長靴を、低ければ草履かいっそ裸足。
しかも見える靴は小さい。
どう考えても小小のものだ。
(でも倒れてるわけでもないのに、この距離で返事をしない? 脱げてるわけじゃなさそうだし…………。つまり、喋れない状況とか?)
想像した私は、ぞっとして小妹の手を引く。
浮かぶ知識には、川からの奇襲というものがあった。
時期は雨の後で、狙われるのは曹家の祖父のいる本陣。
つまり、ここだ。
(襲ってくる相手の名前は、徐盛。水上攻撃のはずが、流れ着いて船を失った。けど、そのまま奇襲をかけて、おじいさまの軍を破る功績を上げる人…………!)
その人物なら相当な実力者だ。
前年に失態を犯しており、この戦いに対して汚名を雪ぐため意気が高いと知識に出て来る。
船を上手く使う呉軍なのに、船を失う失態だなんて笑えない。
運悪く川流れをしたからって、格上であることには変わらないのだから。
私は震えそうになるのを抑えて父の元へ足を向けた。
「ち、父上、声を漏らさないようお願いします」
「どうしたんだい?」
「敵が、潜んでいます。たぶん小小が捕まっていて、声を出せないようです。こちらの数がわからないのか動く様子はありません。捜すふりをして、今の内に人を増やしてください」
手を繋いでいた小妹の手が痛いくらいに握り返される。
けれど、今焦っては駄目よ。
奇襲で、船が壊れている中動く相手は少数のはず。
けれど知識どおりなら名の知れた武将がいるはずで、せめて数の有利を取らなければこちらが危険になる。
安全は、はからないと。
そうでなければ、私たちはもちろん父や、本陣に私を迎えに来てくれた母まで危険に陥る。
(今は落ち着いて。大兄たちがどうなったかは、今は、考えないで)
そうじゃないと、心配で叫んでしまいそうだ。
「宝児、よく知らせてくれた。君たちがいた近くだね。二人を帰すために人をつけて、その者たちにより兵を募るよう命じよう。必ず助ける。だからどうか、落ち着いて」
震えないようにと思っていたのに、父に手を置かれて肩が揺れていたことがわかった。
「し、司馬、伯達さまにも、お、お知らせしたいです」
「そうだね…………二人でお声をかけてくれ」
あの方なら、すでに目通りをしているから私たちでも会えるかも知れない。
何より、甥である小小は確実に異常事態に見舞われている。
確実に味方になって動いてくれる方に、いち早く報せないと。
私と小妹は安全を計り、一度帰されるという理由で父は人を割いた。
その上で戻るまで待機という名の、潜む者の監視を父と兵士たちがその場で行う。
父も相手の数がわからない以上、助けがくるまで無茶はしない。
だったら急いで伯達さまに動いてもらおう。
「そうか、君のお父上が冷静で良かった」
運よくすぐに話を聞いてくれた伯達さまは、厳しい表情ながら笑みを浮かべた。
「人質を取っているなら、相手が諦めるほどの数で囲まなければ。投降を促し人質の解放をさせる」
「では私も、戦果をいただいた返礼をここでいたすとしましょう」
伯達さまとたまたま一緒にいた張将軍も、動いてくれるという。
一軍の指揮を任される将軍の存在で動員される兵の数は跳ね上がった。
「二人はともかく安全なところでお待ちなさい」
兵が動き出したことで、母が私たちを迎えに来てそう言った。
でも不安は募るばかりで、小妹も一言も発せられず私の手を握ったままだ。
その姿に母は私たちを安心させるように抱きしめる。
「きっと、無事に戻った時には他の子たちも同じように冷えているわ。戻って安心できるよう湯を沸かして、泥を落とせる準備をしなければ。一緒にしましょう?」
「は、はい」
母なりに気を使ってくれたのはわかるし、私も悪い結果ばかりを考えてしまうのをやめられない。
だからやることがあるのは、気を紛らわすのにはいいと思う。
ただそれでも、小妹は私と手を繋いで、泣きそうになるのを堪えたままだった。
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