九十七話:祖父の悪癖
雨で撤退の可能性があったため、増水の具合を見に行かせたら呉軍に動きがあった。
夜の間に移動して背後を突かれないようにしていたらしい。
こちらの追撃を狙う可能性を予想した上で、地の利があるからこそできた行動だった。
けれど偶然その動きは露見して、しかも張将軍自らが突撃。
事前に朱然に狙いを定めていたけど、相当に困難な状況のはず。
さらには急襲で混乱していたとしても、夜の敵中に突貫するのだ。
悠長に探してはいられない。
「つまり、陣の中でそれらしい人を適当に攫って来たということ?」
「指揮官を狙ったとは言っていたそうだ。暗い中それもまたすごいことだろうな」
私たちは荷車に乗って、話しをしていた。
大兄が阿栄からまた聞きした、朱然捕縛の時の様子だ。
呉軍が、雨が降っても猛攻を続けていたのは、こちらが疲弊して気づく余裕を失くすためだったらしい。
同時に長江が増水しきる前に、対岸へと呉軍は引いているため、最初に期待したような兵の激減はなかった。
「雨のことといい、天が味方をしてくれた」
「それを言うなら、長姫の提案が神がかってる」
「おおげさだわ。受け入れて、実行された方々がすごいのよ」
大哥と奉小に言い訳しつつ、実際神がかり的に得た東の海の向こうの知識だからこそ否定ができない。
なんにしても、今回は上手く行って良かった。
けどこの後は正直わからない。
だって朱然を生け捕りなんて、私の知る未来の知識にはない状況なんだもの。
「捕まってるなら、敵の武将見たいな」
「そんな怖いことを言ってはいけませんよ」
好奇心旺盛な小小に、小妹が心配そうに声をかける。
ただ私も、捕縛されているのなら見るくらいできないかと思ってしまう。
というか私が言い出したことだけど、実際どういう風になってるか見てないし聞いてもいないのが、いっそ不安だった。
「朱然はどうなるのかしら?」
「斬首にするには早いと思う」
「孫権の学友だから交渉材料?」
「まずは引見とかからだろうな」
男の子たちは盛んに意見を言い合うけれど、彼らもこんな状況は初めてだ。
ましてや司馬家や荀家は執政官寄りのおうち。
戦場での判断や扱いを聞いているとは思えない。
「朱然は私たちより先に送られているのよね?」
「捕まえて、そうだとわかって、その後に援軍が来たからな」
「守りを固めて、対応を諮るため曹丞相の元へと送り出したらしい」
「それで私たちもこうして兵より先に安全な場所へと出されているし」
私たちは砦を守る者たちを残して、曹家の祖父がいる本陣へと向かっている。
そもそも私たちがいること自体が場違いだから、砦の人たちとしても肩の荷が下りたのではないかしら。
私は振り返って、一つ心残りを呟く。
「もっと、ちゃんとお礼を言えたら良かったわ」
「お忙しいとは言え、失礼でしたね」
小妹も同じ思いで砦の方角を振り返る。
見送りを受け、元仲が代表として言葉をやり取りした。
発言権なんてない私たちは、緊急でもない場では礼を取るだけで話せもしない。
許されて皆でひと言お礼を言えたけれど、足りない気がしている。
「命がけで戦ってくれた相手にもう少し言葉を尽したかった」
そう言ったら影が差した。
「長姫の言うとおりだな」
元仲が馬で荷車に並走してくる。
近くには阿栄もいた。
「ってことは、看病してくれた長姫と小妹にも礼を言わないとだ」
「あら、だったら不注意で前線に行ってしまったことを怒られる時には庇ってちょうだい、阿栄」
「えぇ!?」
「わ、私も!」
「待て待て! 俺だって怒られるのは嫌だ!」
小妹にまで言われて阿栄は慌てる。
それには、私たち以上に責任者として責を問われる元仲も苦笑いだ。
「ともかく、申し開きはしよう。結果として事なきを得たんだ。ただ、それぞれの家内でどう言われるかまではどうしようもない」
元仲の言葉で、大哥や奉小も俯いて苦い顔をする。
私も叱られる可能性大なので他人ごとではない。
けれど大兄は何でもない顔をしていた。
「大兄、おじさまにお叱りを受けるんじゃない?」
「母は心配して小妹に慎むよう苦言を呈すかもしれない。だが、結果として朱然捕縛のきっかけは長姫だし、長姫の発言を採用された元仲さまだ。その行いを否定するようなことは言われないだろう?」
なんでもない風を装って、怒られた時には私や元仲を引き合いに出して言い逃れるつもりだという。
こういうところが、本当に計算高いわね。
そして言われて言い訳にできると気づいた阿栄が大きく息を吐いた。
上の曹家、しかもその継嗣になろうという方の長子の決定と言われれば、夏侯家では否定の言葉なんて出ないものね。
「…………私の母上は、いっそ子桓叔父さまに文句を言いそうで困るわ」
「それは、私も困る」
「できるだけ止めてみるけれど、その時には子桓叔父さまにも謝ってみるわね」
元仲に慰めの言葉をかけると、大哥が顎に指を置いて考え込む。
「それなら、父を納得させられる可能性もあるか? 長姫、子桓さまへの口添えをこちらもお願いできるだろうか?」
「うちはどうだろう? いや、でも長姫は子建さまとも? あ、でもあの方は…………」
奉小が悩む様子を横目に、私は西のほうへ目を向ける。
子建叔父さまは今、江夏で関羽を誘い出す囮のような籠城作戦を行っているはず。
どうなっているか、ここからはわからないけれど、呂子明は濡須口にいなかった。
それが子建叔父さまの不利にならなければいいけれど。
「皆、無事で何よりだ。曹丞相が無事を確かめたいと呼んでおられる」
本陣に着いたところで大哥と小小の伯父、司馬伯達さまが出迎えてくれた。
その姿に私は思わず声を上げる。
「お加減は大丈夫なのですか?」
「あぁ、薬を勧められて良かった。君たちが発ってから一日後に発熱したんだ」
「こちらも伯父上からいただいた薬でなんとかしのげました、感謝いたします」
「僕、看病しました」
伯達さまもやっぱり危うくなっていたそうだ。
それを聞いて大哥は礼儀正しく頭を下げ、横で小小が子供らしくはしゃぐ。
「聞いているよ。薬を渡してあることは言ってあったのだが、やはり丞相も心配しておられる。お顔を見せてあげなさい」
そう言われて、私たちは伯達さまの案内で本陣の中へ入った。
けれど私たちが曹家の祖父の天幕に着いた時には、別のことが起きているようだ。
伯達さまは一度足を止めて、見張りに中の様子を聞く。
けれど中から曹家の祖父の声が聞こえていた。
「どうだ、仲謀を支えるその才、わしの傍らで発揮してみないか?」
その発言に伯達さまはすぐさま中へ。
私たちも置いて行かれては困るので続いた。
すると、縛られて跪く男性が兵に挟まれる形でいる。
その前には楽しげな曹家の祖父。
「曹丞相お待ちを! いささか早計でございましょう」
他の人たちもざわつく中、伯達さまが止めに動くと、賛同の声が上がる。
どうやら祖父の悪い癖が出たようだ。
後世人材狂いとまで揶揄される、才ある者は敵でも犯罪者でも抱えて使う悪癖が。
(でも張将軍も臧将軍も降伏して登用されたのよね。それを思うと間違いではないはずだけれど)
ただ張将軍は先年の大活躍までなかなか信用されず、肩身が狭かった。
臧将軍はまず下ってすぐに、仲間だった者たちの元へ投降を呼び掛けに向かって、交渉決裂なら命の危機もあったという。
朱然が応じたとしても前途多難だろう。
「いい目をしている。聞けば生国は揚州。縁者の引き立ても考えるぞ」
つまり曹魏の領地出身だそうだ。
そんな曹家の祖父の誘いに、朱然は無言で表情を動かさないようにしていた。
ただ目には戸惑いがちらついているのが見える。
身内の私たちも困っているから、その反応は仕方ないことと言えた。
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