九十六話:雨の攻防
巣湖と長江を繋ぐ濡須口で、雨が降り出した。
雨の予兆から忙しく兵は走り回り続け、攻防が続いていることだけはわかる。
雨で退かないまま戦いが続いていること以外、私たちにはどうなってるかなんて、わからなかった。
「避難の用意をしよう。戦えない私たちは、邪魔にならないことが優先だ」
降り出した雨を確かめた元仲は、室内へそう声をかけた。
そこから藁巻きの兵を動かし出す。
こうなると私の出る幕じゃない。
そんな中、元仲を手伝う阿栄に呼ばれた。
「長姫、小妹、小小が荷車に乗れ。たぶん走らせるより早いだろ?」
「あと、これ。雨避けに被ってろ。雨足が強くなってきた」
大兄がむしろを持って来て、荷車に乗り上がる私たちに渡す。
「今日まで退かなかったってことは、呉軍は天候を気にしてないのか?」
「ここから退くために動き出すというのが予想だから、状況は変わるはずだ」
奉小と大哥は戦いの行方を気にしている。
地の利は呉軍にある。
天候を先に察知される可能性もあったはずだ。
なのに雨が降った今でも砦を落とすべく激しい攻撃が行われている。
それがどういう狙いなのか私たちにはわからない。
退いたとみて打って出たら、押し返されるなんて可能性もある。
そんな最悪の可能性を警戒して、私たちは逃げる準備をしていた。
「雨降ったら良くなるんじゃないの? 負けるの?」
ついて行けてない小小が、兄である大哥の言葉に不安そうに私の袖を引く。
「攻められ続けない限り、負けは、ないはずよ」
定石としては籠城する側のほうが有利だと聞いたことがある。
「籠城相手には三倍の兵力がいると言われるんだ。だから守りにおいては門扉を閉じて壁の中に入った時点でこちらが有利といえる」
小妹にむしろをかぶせていた大兄が応じると、奉小も気づいて話に乗って来た。
「現状維持ならそうそう負けはない。だが、降伏となると別問題だ。兵が戦いを嫌って将を討ってしまえばそれで負けになる」
「そうならないために鼓舞したり慰撫したりするの。それに曹家のおじいさまが援軍をくださる可能性が高いのだから、簡単には折れるはずはないから、これは念のためよ」
私が補うと小小は首傾げ、理解にはまだ難しい様子で黙る。
その様子に大哥が荷車の上の小小を撫でた。
「このまま去るのを待つのも手だが、必敗の陣形というさらなる有利の可能性もある。それを利用しないほど、ここの将軍方は臆病じゃない」
攻撃を耐えさせるのが将軍たちの仕事だけど、元仲から私たちが話していた案を聞かせられた。
そして検討した結果ありと判断したのよね。
「将軍たちの話では、呉軍は攻め落とすことを優先して塹壕は掘ってない。同時に後方では濡須塢の防御を固めるための人も入れている」
元仲が状況を教えれば、阿栄も聞きかじった話を聞かせてくれた。
「将軍たちがいうには、ここで撤退を決めたとしたら、ごちゃつくんだってよ。そこに脅しで兵を出して走らせれば、水に落ちて沈む奴いるだろうって」
実は元気になってから、阿栄は廊下で将軍方の話を聞かせてもらっていた。
寒い中でそれはと思ったけど、鼻の頭を赤くしながら、そうして年長者の経験を取り入れようと意欲的で。
止めようかどうしようか、阿栄の先を知っていると迷ってしまったのよね。
「その上で、私たちがこうして逃げる準備をしているのは、あちらがこの作戦を予期して対応して来た時のためよ」
つまり、撤退が囮だった場合。
本当は準備万端で迎撃用意をしていた場合、出た兵は潰される。
その上で策が外れたこちらの兵は動揺し、対応が遅れ防衛に隙ができるだろう。
そうなると落とされる危険があった。
「だからこれは念のため。目の前の敵に集中しなければいけないのに、背後にいる私たちを気にかけている余裕はないから」
だから砦が落ちるとなれば一番に逃げる。
それがさらなる動揺を広げさせないためにも必要なはずだ。
小小は私を見て、そして兄の大哥を見る。
そう思ったら、突然私の手を握って来た。
「でも、いつまで雨の中いるの? 長姫、冷えてるよ」
小小に心配されてしまった。
手を握っているのは大哥を真似てのことらしい。
雨は確かに冷たいけれど、それは他も同じだから気にしなくていいのに。
「ではもっと近くに寄って、温めてくれる? ほら、小妹も」
「長姫、熱が出るようなことがあれば倒れる前に言ってください」
不安そうだった小妹は、小小に触発された様子で言う。
嫌じゃないけど私のほうがお姉さんなのに。
とは言え、結局冷たい雨に打たれて全員が凍えたため、一度屋内へ避難することになる。
いつでも出られる準備をして、日暮れまで続く攻防の結果をじっと待った。
「夕暮れまで呉軍は粘った。こちらも消耗したけれど、これが最後のひと当たりではないかとのことだ」
元仲が将軍たちから報告を受けて、話してくれる。
その話では、明日まで雨が続くなら撤退されるかもしれない。
そうなれば足並み揃えての撤退で、そこを襲ってもこちらが返り討ちに遭う。
「将を生け捕る話はどうなったのでしょう?」
「足並み乱れた撤退なら近づけるかという話だったし、無理だろうな」
大哥の確認に、元仲について行っていた阿栄が応じる。
私は別に気になることがあった。
「長江の水量はどうかしら?」
「それはさすがに聞いてないな」
どうやら元仲を困らせてしまったようだ。
時間あったから色々考えてしまったのよ。
結果、東の海の向こうの知識から、天気の知識が出て来た。
それによると川の上流から降る雨の後は、下流が増水するそうだ。
「夜にでも水量が増えていたら、逃げる暇もないかと思ったのだけれど」
そう呟く私に大兄が首を捻る。
「どうなんだろう。さすがに気づいて対処するんじゃないか?」
「濡須塢に留まる施設がない今、作業要員は夜は対岸に退いてるはずだろう」
大哥が指を立てて指摘すると、奉小が考え込む。
「そうなると、将軍が予想した混乱もなく撤退済みか。だが、夜の水はどうなるか」
経験不足の私たちでは想像もできない。
だから元仲が聞きに行ってくれた。
そして事態が動いていたことを知る。
どうやら元仲の問いで、水量が見える位置に人を派遣してくれたそうだ。
すると野営しているはずの呉軍の陣で動きがあることがわかった。
砦の内部でも日中の戦闘による疲労があり、呉軍の動きが密かだったので近づかなければわからなかったという。
「それで、張将軍が打って出たの?」
「旗を確認できたから、朱然を縛するか、退かせることができるかもしれないと」
元仲の言葉尻が弱くなる。
たぶん退かせるだけの大怪我を負わせるか、命を奪うということなのでしょう。
できると言うか、するつもりで出て行ったらしいのがすごいわ。
そんなことを思うと頭に言葉が浮かぶ。
「遼来々…………?」
「あぁ、たぶん呉軍でそう叫ばれるんだろうな。俺もそうなりたいもんだぜ」
阿栄、それ怖がられてるのよ、いいの?
そんな話をしつつ夜を迎え、張遼が出ているので砦には松明がたかれた。
私たちも寝ていられず、かといって会話する気にもなれず、雨音の中じっと時間を過ごす。
「…………歓声が、聞こえる」
私は砦の中に波のように広がる声をとらえた。
それだけで、張将軍が無事戻ったことはわかる。
そう思ってたら足音が近づいていた。
応じて戸を開ければ藁巻きの兵士が暗い中でもわかる喜色の雰囲気を露わにやってきている。
「お喜びください! 朱然を捕らえました!」
夜に似つかわしくない大きな声で、張将軍の帰還でも、無事でもなくそう告げられた。
一拍置いて、私の後ろで室内のみんなが声を上げる。
本当にやってのけたのだと、私は胸を撫で下ろすことができた。
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