九十五話:必敗の陣形
「なるほど空か。長姫らしい視点だ」
「天候など見る余裕もなくいましたが、このところ曇り空のような?」
「確かに必敗の陣形に持ち込めるならば、一考の余地はありましょう」
私たちの話を聞いた元仲はともかく、臧将軍も張将軍も揃って考え始める。
猛攻を受けている状態で、空を見上げる余裕がないのは当たり前なのだけれど。
「必敗の、陣形ですか?」
陣形などには疎い小妹が、意味を掴みあぐねて呟く。
「背水の陣と呼ばれるものよ。そこにいたら負けてしまうから、避けるべき状況だと言われているの」
「え、僕たち負けるの?」
小小が勘違いとは言え不安そうになるので、私は笑って見せた。
「知っているからこそ利用もできるのよ。有名なのは、漢王朝の高祖に仕えた韓信という知将ね。聞いたことはある?」
私の問いに、小妹と小小は首を横に振るけど、他の男子たちは改めて聞く必要がないほどの有名人だ。
前漢を起こした高祖劉邦に従った、軍事的才能のある人物。
高祖に従った傑物としてすでに名を馳せている。
ただ大変な野心家であった韓信は、後年冷遇を受けたことを怨んだ。
そして反乱を起こそうとして失敗し処刑されている。
そんな反逆者でも、後世まで名が残るほど才能は本物だった。
「韓信は必敗の陣形と言われる背水の陣をあえて取り、敵の攻撃を誘ったの。けれど本命は攻撃に前のめりになった敵の拠点を、少数で制圧すること。策ははまって敵は帰る場所を失くして敗走したわ。つまり、必敗の陣形であっても使い方次第なのよ」
東の海の向こうの知識では、必敗の陣形とは違う意味になっているようだけれど。
背水の陣というと、窮地にあって奮起するたとえなのだとか。
けれど私が習ったのは必敗の陣形で、成功例もあるけれど本来は負けるから避けるべき地形だ。
そして現状は、その負ける要素を呉軍に押しつける方向で話が進んでいた。
「天候に詳しい者はいるだろうか?」
「砦の内にいるかはわかりません。まずは天候を詳しく見張る役を据えましょう。敵の猛攻を堪えるようより奮起させるためにも雨が降ることで好転すると知らせます」
「その上で、天候に気づいて撤退する際に、こちらも追撃を出すために人員を今から用意しておいたほうがいいでしょう。防戦に疲弊しきっていては自らが流される」
元仲のほうは、どうやら背水の陣に呉軍が陥るのを待つつもりらしい。
今援軍が来ない内にと猛攻を仕掛けられているのだから、待つほうが確実なのでしょう。
苦しい状況だけれど耐える価値は見出せるようなら、無謀な突撃よりもずっといい。
「では、遊撃隊はどうする?」
元仲が阿栄の言を取り上げて、将軍たちに聞く。
守るばかりでなく攻められるなら、それがいい気もするけれど。
「さすがにこう隙なく詰められていますと、砦から出した時点で潰されるでしょう」
「機を窺うことはできますが、今から出すのは難しいのが現状です」
将軍たちからは、追撃のほうが現実的だという答えが返った。
「本当に天候が荒れるならば、呉も足並み揃えての撤退は無理でしょう」
「そこに後ろから追えば、水に落ちて数を大きく減らせるのが背水の陣です」
つまり、あえて混乱と焦りを煽って溺れさせる。
将軍たちの提案には殺意が明確に表れていた。
けどこっちも安全には代えられないので、私は深く考えないよう努める。
「天候を味方につけられるならいいが、天運に任せるだけと言うのもな」
大哥がもうひと押し安定的な勝利を求めるように呟く。
「そうね、孫権のように逃げられるのもそう何度はないはずだけど。将を無力化できれば、捕縛にも繋がるかも…………」
私が応じ喋っていたら、足音が立った。
見れば、藁を巻いた兵士がご注進に遠ざかっている。
兵士から聞いた元仲がはっとした顔で私たちのいる部屋を見たのだけれど…………。
待って、何を言ったの?
「確かに敵を減らすことも大事だ。だが、狙えるならば将兵を捕縛する好機にもできるかもしれない」
「おぉ、それは狙えるならば狙うべきですな。天候と共に旗の位置も確認する役を据えましょう」
「そうなると捕縛で優先すべきは蔣欽だが、欲を掻くのも失敗の元。こちらも相応に消耗しているとなれば、次点は誰か?」
さらに将軍たちまでのって本当に検討し始めた。
「…………俺、駄目だったのに、長姫は採用かぁ」
「羨ましがらないで、阿栄…………」
私は釘を刺しつつ、本当にそれは上手くいくかどうかを考える。
そしてやるならいったい誰を狙うべきかという張将軍の問いの答えを探った。
考えると浮かぶ名前は、次の大都督は呂子明。
そしてその後を継ぐのが陸伯言。
(将来最も長く大都督を務める、陸伯言は、この戦いに参加しているのね)
けれど今は無名で、この戦いに参戦しているはずだけれど、無名の相手を捕縛すべきだと推す理由が思いつかない。
もし押さえられるなら、きっと私たちが大人になった時に呉の力を弱める端緒にもなりそうなんだけれど。
「長姫、君が考え込んでいることを伝えに行ってしまったよ」
苦笑いで奉小に教えられる。
顔を上げると、笑顔で兵士が戻って来るところだった。
「言があるならば聞くようにと仰せつかりました。さぁ、どうぞ」
「え、いえ、そんな…………。私、実戦経験なんてない、ただの子供なのに…………」
そんな善意を満面に浮かべて待たないでほしいのだけれど。
私は待たれている状況で、もう一度考える。
そうして浮かんだ別の名前を告げた。
「…………朱然という、方は、どうでしょう?」
私が上げた名前を、大兄が身内に気安さで確認してくる。
「誰だ、それ? 朱氏と言えば、呉に多い名前だろうけど」
「そうね、孫権の学友を務める側近よ」
三十代働き盛りで、孫権に信頼される人物。
幾つもの戦場に表れて戦果を上げるため、すでにそれなりに名前は売れているはず。
そして陸遜亡き後、老齢で大都督を継ぐ者でもあった。
朱氏は後に、呉の四姓と呼ばれるほどの大家になる。
四姓とは張氏、顧氏、陸氏、朱氏のことで、孫権を支えた有名な一族のことだ。
「たぶん、狙って、動揺は、誘える、と思うわ…………」
「ではそのようにお伝えいたします」
お願いだから多分に含んだ不安の気持ちもお伝えしてほしいわ。
私は笑顔で去る兵士に心の中で願った。
「学友、つまりは側近だな。確かにそれを抑えられるなら戦況に影響するか」
「一番影響するのは孫権の身内だが、それなりに地位ある者なら狙い目かもしれない」
大哥が納得すると、奉小も頷いた。
後に呉の四姓と呼ばれる陸氏の始まりは、後の大都督である陸遜だ。
朱氏は朱然の養父である武将が始めだけれど、孫権の時代には朱然の存在感が強い。
「けれど雨が降ると冷えてしまいます。また寝込んでは大変ではないでしょうか?」
「確かに、元仲さまと長姫は心配だな」
小妹の心配の声に大兄が私の名前まで上げる。
すると大哥が思い出したように私の手を取った。
「もう冷えている。もっと厚着をしたほうがいい」
「寝込んだら長姫も僕が看病するよ」
「大哥も小小も、心配はありがたいけれど、これ以上着たら動きにくいの。私は大丈夫。それよりも雨よ。本当に降るかしら?」
前提にしているけれど、天気のことなんてわからない。
降りそうで降らないなんてこともよくあることだ。
ましてやこちらに有利になる時期を逃さず降ってくれるかがわからない。
もし東の海の向こうの知識どおり、こちらに不利になるように降られても困るのだ。
(何より、降る前に攻め落とされては、今こうして相談する意味もないわ)
そんな不安を抱える中、一日経ち、二日経ち。
雲はあるけれど雨の気配はない冬の乾いた風が吹くばかり。
その間も呉軍の猛攻は衰えず、砦の内部では疲労と苦痛が重くのしかかる。
それでも天を仰いで待っていたある日、私の耳に遠雷が聞こえた。
同じく聞き取った元仲と一緒に、寒さで締め切っていた戸を開いて外へ出る。
「…………雨だ」
元仲は小さく掌に落ちた雫を見据えて、そう呟いた。
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