九十四話:少しのずれと結果
曹家の祖父が、呉軍との戦いのために布陣を開始している。
私たちが前線に迷い込んだと知って急いでくれた上に、今立て籠もることになった砦にも増援の見込みがあるそうだ。
ただそれは呉軍にもわかること。
そのせいで増援が来る前に攻め切ろうと猛攻を受け、私たちは逃げ出す暇もない状況だった。
「攻め落とされる可能性は?」
「させません」
「身命を賭しても」
二日でなんとか寝台を離れることができるようになった元仲の前には、臧将軍と張将軍が揃っていた。
有名な張遼の実物は、ちょっと近寄りがたいくらいにピリピリした方。
けれど命がけで砦を維持するという言葉は、その分重身が感じられた。
そして重さを増す結果になってるのは、迷い込んだ私たちの存在だ。
「いや、命は大事にしてほしい。将軍たちの力は曹丞相閣下のためにこそ使うべきだ。私たちは本来軍務とは別に動いていた。気遣いは不要。自らの務めを果たしてくれ」
元仲は軍の中で言えば初心者。
けれど血筋で言えば曹家の祖父の長子の長子。
皇帝になると知らない人たちにとっても、未来の魏王だ。
(もしここで元仲に何かあったら、絶対的歴史に不名誉なことが遺される! というか、元仲が皇帝にならないなんてことになったら…………?)
私は自分の世代で継承者の争いが起こる可能性に密かに焦る。
もちろん大人が話す場に、成人してない私たちは出られない。
ましてや女だから軍事に口出しなんてできない立場だ。
私は声が聞こえる近くの部屋で控えているだけしかできない。
(でもおじいさまが未来よりも早く動いていらっしゃる。きっと良い方向に変わるなら、そこのはず)
本来ならもっと後に布陣して、この砦での攻防には間に合わない。
二人の将軍はこの砦で、攻勢を整えようとしたところでそれを阻む大雨に襲われる。
そして増水した長江でも船を出した孫権の軍に逆襲を受けるはずだった。
それが少しずれて大雨の前に孫権側が無理な攻勢をして来ていた。
もしかしたらここは、東の海の向こうの知識どおりには落ちない可能性も考えられる。
もちろん、それがこの砦で撤退もできないまま敗北ということもあった。
「それでも可能なら状況を教えてほしい。もし邪魔になるなら、私たちはいっそ先に出る」
一人対応していた元仲の発言が聞こえ、その意味に私はもちろん将軍たちも驚く。
それは敵がいる中で逃げ出すこと。
つまりは、どう考えても怪しい小集団という囮になるという意味だった。
そうなったとき私たちが助かる道は一つ。
曹家の祖父が増援を送ってくれる以外にない。
だから両将軍も状況を話して止めにかかる。
「そのご決断は早計でしょう。現状曹丞相閣下であれば決して我らを見捨てるようなことはなさらないはずです」
「退くのであれば機を見て足並みを揃えるべきです。今は敵に押されて出るほうが狩られるだけで無謀であると言わざるを得ません」
臧将軍が止めて、張将軍は意味がないと諭す。
私は気づけば硬く手を握り合わせて聞いてた。
そんな私の手に、大哥が気づかわし気に触れる。
「長姫、君は元仲さまを守ってよく頑張った。これ以上気負う必要はない」
「そうだ、不安かもしれないが今度は私たちに任せて休んだほうがいいんじゃないか?」
奉小も気遣ってくれるのはありがたい。
けどここが肝心だと思うから、休むわけにもいかない。
確実に状況が違うのだったらここで、何が話されるかをちゃんと聞いて考えないと。
(でも何を考えればいいのかしら。勝つ方法? そんなのわからないわよ)
私が知っているのは二千年ほども後に伝わる話。
どんな駆け引き、陣容があったか、日ごとの動きすら残っていないほどの時間が経った後のことだ。
わかるのは、歴史に残るほどの働きをしたのが誰かということ。
そして残された記録は曹家の祖父の負け戦だと語るだけ。
だからどう呉軍が上手くやったかしかわからない。
「雨が、降ったら…………」
思わず声が漏れると、それに小妹と小小が反応した。
「雨ですか? そう言えば太陽を数日見ていません」
「雨降ったら、みんなおうちに帰る?」
「そうだといいけれど、そうはならないわ」
小小が言うとおりになれば、いいけれど呉軍は悪天候さえも味方にしてしまった。
船の話になるから、内陸で培われた曹家の祖父の強みも生かせない。
私たちの話を聞いて、大兄は考え込んでいた。
「いや、本当に帰るかもしれない。確か、長江は増水すると岸の上まで水が来ると父が言っていた」
「そう言えばここ、長江よりも遠いのに一番前線に近い砦だよな。ってことは、増水しても水がこない際がここなのか?」
阿栄に言われてみれば、確かに砦が離れ過ぎているように思える。
(そうよ、知識では呉軍が悪天候を活用したけど、私たちが活用できないわけじゃないわ)
私は握り合わせていた手をほどいてみんなに問いかけた。
「ねぇ、今攻めている呉軍。雨に降られて長江が増水したら、どうするかしら?」
私の疑問に年長者が考え込む。
水辺の戦いがどうと呟くから、たぶん習ったことのある過去の戦いを思い浮かべて、まだ知らない実戦でどう動くかを想像しているのだと思う。
「背水の陣の例で言えば、決して退けない地になるはずだ」
「死を覚悟しなければならない状況に陥るから、退くしかないと思うな」
奉小が上げる言葉に、大兄も応じる。
「ってことは、長江増水した途端、今より苛烈に攻めて来るんじゃないか?」
「逃げ場がないからか。いや、前兆があれば地の利で増水前に退くかもしれない」
悪い想像をする阿栄に、一度は納得した大哥が背水の陣になる前に退く可能性を上げる。
「つまり、今の攻勢はいずれ変わるということかしら?」
「そう考えられる。攻めるにしても退くにしても天候で隙ができるかもしれない」
私の疑問に大兄が答えると、阿栄は顎に拳を当てて唸る。
「うーん、うちの親父みたいな遊撃隊でも伏せられるなら隙もつけるけどな」
「あぁ、緩んだところを横からつければ潰走させられる可能性も高まる」
大哥も応じるけど、あまり表情はよろしくない。
それを見た奉小もため息交じりに言った。
「できる方と言えば、丞相閣下しかいらっしゃらないが、連絡手段がないからな」
そこでみんなが黙ってしまった。
私たちは囲まれてるから、状況を報せる連絡手段がない。
のろしで簡単なことは伝えられるけれど、これは囲んでる呉軍からも見える。
細かな打ち合わせなんて相手に漏らすようなことはできない。
「だったら元仲さまが言うように俺らは逃げるふりして合流目指すとか?」
「それは敵も本隊の動きに警戒するきっかけになりかねないからな」
「というかまだ前哨戦で、ここは消耗を最小限に乗り切ることを考えるべきだ」
「だったら天候で退いてくれるよう脅かすだけでも有用性はあるはずだ」
男の子たちが意見を言い合う。
聞きながら私も知識を探りつつ考えた。
(増水しても水上を移動できる。だったら退かせても、ここに籠ってたらまた攻撃を受けるわ。だったら下手に勝って留まるべきじゃない、はず…………)
攻撃に耐える必要はある。
相手側も強く、焦っているからこれで攻め落とされても困るのだ。
攻めて来てるのは旗から蔣欽だとわかってる。
戦い慣れた武将だから、濡須督という周辺の総司令官としても信任されていた。
さらには孫権が引き連れて来た兵の指揮も一手に引き受ける総大将になっている。
正面から退かせるのは、難しいと私でもわかる状況だった。
「…………知りたいのは、蔣欽が退くことを知る武将かどうかよ」
私の呟きに話し合っていた男の子たちがこちらを向く。
「それで呉軍の動きに当たりをつけられるはずだと思う」
「それは、聞いてみてはいかがですか?」
「聞きたそうにしてるよ」
考えに引かれて俯きぎみだった私に、小妹と小小が袖を引いた。
顔を上げれば部屋の入り口に人がいる。
私たちに報せをくれることで顔見知りになった、藁を巻いた兵士だ。
どうやら私たちが元仲たちの声が聞こえるように、こっちでも話してるのは漏れる。
結果、私たちの話の詳細を聞いて来いと差し向けられてしまったそうだった。
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