九十三話:早すぎる展開
濡須塢への攻撃が始まったと教えてくれたのは、臧将軍がつけてくれた兵だった。
他は子供になんて構っている暇はない。
「築城部隊を攻撃開始しました。濡須塢に防御拠点を作られるわけにはいかないので」
「わかっています。報せてくれてありがとう」
私は兵に応じて室内に戻る。
すると落ちた体力を回復しようとしていた皆がこちらを見ていた。
中でも、まだ寝台から降りられない元仲が声をかけて来る。
「濡須塢というのは、先年に作られた呉の堤だったな」
「えぇ、そこに砦を作ろうとしているそうなの。それをされては攻めるに難儀するから攻撃を仕掛けたのでしょうね」
私たちがいても、いえ、いるからこそ、そんな所に防衛にも攻撃にも使える砦を作られるわけにはいかない。
情勢が傾けばすぐにここも戦火が及ぶ。
臧将軍は前線へ行っている。
元よりそちらには張遼という歴史に名を残す将軍が睨みを効かせていた。
全力で攻撃して、建設は阻止されるだろう。
(東の海の向こうの知識では成功する。けれどその後敗走するのはこちらなのよね)
きっかけは大雨だそうだ。
攻める好機を天候に邪魔される形になる。
そしてそんな濁流にも船を出せた孫呉の軍が、今度は機先を制するのだとか。
こちらに孫呉ほどの操船技術がない限りこの戦いは不利なまま終わる。
「曹家のおじいさまの下へ合流する準備を始めましょう」
「負けると思うのか、長姫?」
そう聞く大兄の問いはおかしい。
「私にわかるわけがないでしょう? だったら、どちらに転んでもいいように備えるべきじゃない」
「確かに長姫が言うとおり、私たちではわからないな」
奉小が緊張ぎみに言うけれど、私たちは十歳前後の子供ばかり。
周囲は戦う者も多いとは言え、実際これほど戦場に近いのは初めてのことでこれだけ落ち着いているほうがすごいと思う。
私と違ってこの先のことなんて何も知らないのに。
「では、元仲さま指示をお願いいたします。半数の兵は居所がわかっております」
大哥が年長者でもある元仲に指示を求めた。
夏侯の祖父がつけた兵は、補給拠点に向かわせた三人が半数を見つけてくれている。
本来向かうはずだった砦には伝言して、守りのために見つかった兵はこちらに回すようにも頼んだ。
もちろんその件は臧将軍からも許可を得ている。
そして目印として藁で編んだ縄を頭に巻かせ、巻いている兵は私たち専属として見わけるようにしてもらった。
(これで荷車に乗せてでも逃げることはできるはず)
いつそうなるか細かな時期はわからない。
何より主導的立場の呂子明がいないことで、相手は動きを変えてくるかも知れない。
「誰か、蔣欽という武将を知っている? 相手方にいるそうなの」
呂蒙と並んで歴史に名を残すということは、相当に重要な将のはずだ。
すると阿栄が手を挙げる。
「それって張将軍が追い返した時にやられた将兵の一人だろ」
「つまり、孫権を打ち取らせずに守り切った将ね」
私が言い直すと、皆不安そうになってしまった。
不安がらせたいわけじゃないけど楽観は禁物、それを私は知っている。
そんな私の慎重さがわかったのか大哥も楽観的なことは言わない。
「そうだな、確か威徳のある人物だと聞いた。私怨に走らない、奢侈を好まない自制心に、孫権も重んじるのだとか」
聞いていて生じる知識は、蔣欽が二年後に亡くなるというもの。
しかも関羽を打ち取る戦いの後、つまり、荊州攻めにも呂蒙と参加しているそうだ。
(この二人を分断できたのが良い方向になってくれればいいけれど)
そうして話しつつ待つと、外から声が聞こえ、足音が近づく様子に私たちは身構えた。
「失礼します! 濡須塢築城部隊撃退に成功!」
走って報せに来てくれたのは臧将軍が置いて行ってくれた兵。
弾んだ声に良かったと思う反面、この後は敗走するという知識のせいで私は喜べない。
そんな様子に小妹が袖を引いて来た。
「長姫、まだ不安がありますか?」
「勝ったらしいぜ?」
小妹に続いて阿栄にも言われて顔を上げれば、報せに来た兵まで不安そうだ。
「ごめんなさい。築城を阻止できたことは喜ばしいわ。けれど、濡須塢を占拠できたわけではないならまだここは攻撃範囲内。気を抜くべきではないと思うの」
「長姫の言うとおりだ。相手の防御を阻止しただけ。こちらが有利になった訳でもない」
元仲が応じると、私の様子から考え込んでいた大哥、奉小、大兄が話し合う。
「たぶん、濡須塢には足場はあっても陣を敷くほどの備えはない」
「だったら我々の軍も留まって防衛に使うことはできないんだろう」
「そうなると今度はこちらを攻撃するため防御を後にすることも考えられる」
私たちの視線を受けて兵は慌てる。
「た、確かに軍は攻撃を終えてこちらに退いてくる予定です」
「人いっぱいになるの?」
小小が言うように、こちらに人が増えれば療養どころではなくなる。
それにその後は籠城からの敗走だ。
その前に出なければいけないことを考えると、数日の内に動くべきだろう。
「二日様子を見て、元仲が熱を再発させないなら、ここを出ましょう」
「気が早い、とも言えないだろう。すでに攻撃が始まった。それなら、反撃もされる」
元仲はまだだるさが残るらしい腕を上げつつ、私に応じる。
「臧将軍には世話になった。だがお忙しいことだろう。書を残そうと思う。書くものを」
「は、はい」
報せてくれた兵は元仲の要望に応えて背を向けた。
そして廊下から声が聞こえる。
「都の人は子供でも違うもんだなぁ」
「いや、あの方々が特殊だからな」
「お大尽のお血筋ばかりだから才能がすごいんだよ」
地元で徴発されただろう兵に、夏侯の祖父がつけてくれた者たちが応じているようだ。
それはいいし、軽口を叩けるなら気持ちにも余裕もあるのでしょう。
けど、何故室内の誰もが私を見ているの?
順番に全員と目を合わせても、誰も何も言わない。
「私だけじゃないと言ってるでしょう?」
「長姫が妙に落ち着いてるから、俺たちも慌てずに済んでる」
「長姫がいなかったら私は何をしていいかわかりませんでした」
「うん、僕も」
大兄に続いて小妹と小小も頷く。
「うーん、前線で動けないとか、情けないけど助けられたよな」
「熱で意識もなくなっていたから、長姫がいなければどうなっていたか」
「その、同行を願い出ていながら、今日まで何もできていないことが、恥ずかしいほどだ」
阿栄に続いて、大哥と奉小も反省するように言う。
「病気なのだから、あなたたちのせいじゃないわ」
それにまだ本当にみんなを助けられたわけじゃない。
そう思っていたら、悪い予感は当たってしまった。
濡須塢攻撃から二日目、にわかに砦がひりつくほどの緊張に溢れる。
「呉軍が濡須塢を渡って来ました!」
報せの兵が駆け込んで叫ぶ。
やっぱり実戦を知らない私の甘い考えでは駄目だったようだ。
早すぎる展開を予想できず、砦に籠ることになってしまった。
さらにもう一つ報せがもたらされる。
「曹丞相が布陣を開始! ここで耐えれば増援の見込みもあります!」
それも早すぎる報せで、私が驚くと顔馴染みなった兵は満面の笑みを浮かべた。
「みなさんがいるために急いでいたそうです」
私の知識では敗走後に曹家の祖父は布陣に向けて動く。
そして陣が整わずにいるところを、呂子明の果断で襲われるのだ。
けれど呂子明はいないし、すでに布陣を開始しているなら、急襲を受けても耐えられる。
悪いばかりかと思っていた早すぎる展開に、思わぬ変化が起きていた。
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