九十二話:濡須口開戦
濡須口の戦いにおいて、功績を上げる敵将呂子明がいない。
喜ばしいことだけれど、そうなると代わりに誰が敵対するのかしら?
後の歴史に名前を残すほどの将で、この戦いにも参加している者と言えば、次の大都督陸遜だ。
ただこの時はまだ無名に等しいから、呂子明ほど大きな権限は与えられない、はずよね?
「こ、ここが前線? しかももう、開戦間際。なんてことだ。すぐに、兵を…………」
「落ち着いて元仲。あなたようやく熱が下がったのに、無理をしてはいけないわ」
砦についてすでに三日が経った。
熱で意識もはっきりしなかった元仲も、今日になってようやく落ち着いたところだ。
ただ、すでに準備を終えていた軍は、前線へと兵を並べる段階に移行。
元仲の手前言わなかったけれど、もうこれは開戦したも同然。
「はい、まずはこれを飲んで。熱いから気をつけてね。まだ兵の移動が始まっただけよ」
私は椀に入れた重湯を元仲に握らせた。
東の海の向こうの知識にあった病人食で、言ってしまえば粥の上澄みだ。
これで効くのかは正直不安がある。
ただ病で弱った時には、確かに物を飲み込むのも辛い経験があった。
だからこの重湯なら、ただ粥を食べるよりもましだとは思う。
(回復が遅いのはやっぱり栄養が二千年先とは違うせいかしら?)
他の男子も熱は引いているのだけれど、熱が出たことで体力が消耗してしまっていた。
だから今、元気でいられるのは最初に薬が効いて体力の消耗も少なく済んだ小小だけ。
「まだゆっくり回復に努めないと。無理をしては治るものも治らないわ」
「きついなぁ。長姫よく平気だな、これ」
だるさで寝ていても辛いと言う阿栄が、声だけは元気に不満を漏らす。
熱が引いてすぐに立とうとして、手足に力が入らず転ぶと言うことをすでにしている。
床から出ることを禁止して安静を継続させているけれど、一番元気に喋ってる阿栄だ。
「平気じゃないからなかなか屋敷も出られなかったのよ」
「長姫、すまない。手を煩わせた。小小のことも、ありがとう」
小小から看病されてる態の大哥が、上機嫌な弟の頭を撫でながら改まってお礼を言う。
実際は暇を持て余した小小の相手をしてもらっているから、こちらのほうが病み上がりで辛い時にありがたいのだけれど。
大哥も比較的早く回復したけれど、やはり体力の消耗から回復が遅い気がする。
(東の海の向こうの知識だと、栄養状態が違うのよ。だから熱で耐えきれずに亡くなるってことのはず。けれど私たちはいい家の子供。だから大丈夫だと思ったのに、思うようにはいかないわ)
そもそも食べるものが違うせいかしら?
熱がひいてもまだ体調に不安が残るのが悩みの種だ。
元仲の熱が引いて喋ることができるようになった今、私たちは移動すべきかどうか。
まずそのためにも、私よりも兵を動かすことに長けた人が欲しいのだけど。
「僕らは、そろそろ床を上げてもいいと思うんだけど、長姫」
奉小が窺うように聞いてくる。
僕らというのは、同時期に体調改善した大兄のことだろう。
けどそれを小妹が止める。
「駄目です。お熱が下がって、すぐに動いてまたお熱を出してしまったじゃありませんか」
「だが、そう言って余計に横になっていたじゃないか。今なら大丈夫だ、小妹」
実兄の大兄が説得を試みるけれど、実際ぶり返して熱を出した二人は、心配する小妹を説得しきれない。
東の海の向こうの知識には、南に行けば温かいとあったのに、冬のせいかそんなことは期待できない。
赤道という太陽に近い位置だというけれど、ここは水辺の側であるせいもあって冬の寒さが厳しく感じた。
「臧将軍が夏侯のおじいさまの残してくださった兵を集めるべきと助言をくださったわ」
「兵は、いないのか?」
「突然の移動で誰が何処にいるかわからないの。勝手をしてしまったけれど、残った六人の半数を元いた拠点に向かわせたわ。そこで他の人員を捜すように指示を出したの。その上で二人は本来私たちが行く予定だった砦のほうに移動するよう言ってあるわ」
そこは夏侯の祖父が迎えを寄越す予定の砦で、上手くいけば私たちの移動を助けてくれる人員が増えるかも知れない。
「そうか…………。助かった、長姫」
「うーん、全員送って早く集めたほうが良かったんじゃないのか?」
まだ少し頭の働かない元仲の言葉に、阿栄が異議を唱える。
でも否定したのは大兄だった。
「前線なのだからいつ敵が襲うかもわからないんだ。その時に守る手を増やすことをすべきで、守りも残さないのは無謀だ」
「いや、三人なら守るにしても足りないとは思う。だったら全員送るのも一つの手ではないだろうか」
大哥まで話に乗るので、私はそもそもの勘違いを指摘することにした。
「いいえ、逃げるためよ。私と小妹、小小は自力で動けるわ。けれどあなたたちはまだ無理よ。だから最悪荷車に乗せて動ける人員と思って三人を残したの」
「砦ではあまり言うべきではない不吉な想定だけど、全くそのとおりだね」
奉小は複雑そうな表情を浮かべつつ、私の意見に賛同してくれた。
ここで私たちは戦えないどころか、守られることすら怪しいほどだ。
だったら逃げることが大前提で人手を集めなければいけない。
「私は戦功を立てなければいけない男性ではないもの。安全が一番よ」
「はい、私たちが頑張ります」
「うん、僕も」
私が逃げることに胸を張ると、小妹そして小小も一緒になって胸を張る。
最初から動けるのがこんな三人である時点で打てる手は少ないのよ。
だから病人が寝ている間は、三人でどうやって逃げるかを相談もした。
荷車にどう乗せるかという練習もしている。
「そうか、長姫はこんな状況でも頭が回るんだな。だったら、戦況がどうなってるか、知れるようにもしているだろうか?」
重湯を飲んでしまった元仲は、最初よりも思考がしっかりしたようだ。
「そうね、元仲も熱が引いたなら教えるわ。黙っていたけれど、呂子明はいないそうよ」
私の報告に、病室と化していた一室が沸く。
ただこれでも安全ではない。
歴史にあるような即応での応戦は難しいだろうけれど、濡須塢という有利な足場がある。
そこを奪えない限り、たぶん曹家の祖父は撤退を余儀なくされる。
だから私が考える安全策はその先、ここが落ちた後の逃亡についてだ。
「臧将軍は兵を集めて、まず曹家のおじいさまの下へ向かうように言われたわ」
「それはご迷惑になる。私たちは独力で合肥への帰還を目指すべきじゃないか?」
「元仲、これ以上私たちが勝手に動くほうがきっとご迷惑よ」
夏侯の祖父に言われたことはできなかった上に、前線に迷惑をかけてしまっている。
「確かに迎えが来てるかもわからない状態なら、一度新たな指示を受けるべきか」
「それにもうその段取りが駄目になっているんだし、拘泥するべきではないだろう」
「そうなるとより人を割ける余裕のある場所に向かい、安全を確保するほうがいい」
大哥に続いて大兄と奉小も私に賛同してくれた。
阿栄も諦めぎみに寝台に身を投げ出す。
「俺らが今すぐ動けるなら、元譲さまのところに戻るけど、それもなぁ」
そう、今迎えがあっても私たちが動けないのだ。
そして開戦も同然の今、余計な人員を動かすほうが混乱の種になる。
だから臧将軍も曹家の祖父のほうがいいとおっしゃったのだろう。
そこで確かな指令を受けて動くほうが混乱はない。
「確かにおじいさまの所ならば、連絡人員も定期的に往来しているだろう。場合によっては居巣に退く道のほうが、確かか」
元仲が言うとおり、すでに居巣の人手は移動しているのだから、私たちが南を回る手間も必要ないじゃない。
「居巣に戻れればそこから改めて合肥に連絡を取ることもできるだろう。ただそうなると私たちが動けなければ意味はない、か」
元仲が言うとおり、やはり優先すべきは体力の回復による移動の確保。
(何か回復手段? いえ、動くために必要な…………体操?)
知識に軽快な音楽とラジオ体操という音声、そして浮かぶ体操という踊り。
どうやら動く前に体を慣らして怪我を防止するというものらしい。
これは使えるかしら?
私は全員が目を覚ましたことで、試しにやってみることにした。
けれど結果は全員が息切れで動けなくなるという惨事。
「わかった…………体がまだ回復しきっていないことは、わかった」
「はぁ、ひぃ、つ、疲れる。体中に重い何かが詰まってるみたいだ」
「小小、それに小妹も、そんなに飛び跳ねて、辛くはないのか?」
回復したばかりの元仲は喋れず、阿栄はそんな元仲を寝台に戻してる。
息も切れ切れに、大兄、奉小、大哥は座り込んだ。
幼い二人だけは元気にラジオ体操を続けて、これこそが健康だと明示していた。
かくいう私も疲れて座り込んでる。
元から運動なんてしてないのに、するだけ無謀だったようだ。
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