九十一話:不在の勇将
東の海の向こうの知識において、濡須口の戦いと呼ばれることになる戦い。
その先鋒は、曹操旗下の勇将である張遼と臧覇が担う。
開戦すれば長江を渡るため、孫呉が築いた足場の堤を攻撃する。
けれど攻めきれず、さらには天候も悪化することで状況不利となって撤退を余儀なくされた。
そして、ひょんなことから前線の砦に来てしまった私の前には、臧将軍がいる。
「こ、ここは何処なのでしょう?」
「後方の砦だ。もっと南へ進むと前線基地となる」
つまり本当の前線はまだ先。
けれど夏侯の祖父も言っていた言葉を思い出す。
戦況が変われば、半日の距離であっても身の危険を考慮しなければいけない。
そうなると前線がまだ先と言っても、この砦は形勢不利となれば放棄して撤退すべき場所ということなのだろう。
状況は悪い。
とは言え、やはり夏侯の祖父の言葉があるから、今の状況を理解するだけのことはできる。
年長で隊を率いることのできる元仲が床に伏している今、私が考えないと。
「子らの様子がわかる者はいるか? 生憎ここにいる中で、手当ての心得があるものはいても病はな」
臧将軍は砦の中へと入れてくれながら、困り顔だ。
「長居はしないほうがいい。できれば迎えが来るのを待たず退くべきだ。だが、これだけ弱っている今、動かしていいものかどうか」
「せめて薬が効いて熱が下がるまでは安静にしたいのです。ここへ来たのは防寒さえできない拠点から移動するためでした」
どうやら私たちは補給物資を集積する拠点にいたのがまずかった。
人の出入りが頻繁で連絡要員も入れ替わる。
さらには拠点にあった荷車を使ったため、元の使用予定だった者への連絡不足で前線へ運ぶ荷車と間違われたそうだ。
(安静を重視したのが間違いの元だったのかしら。私や小妹のようにわかりやすく駕籠に…………いえ、今後悔してもどうしようもないわ)
考えるべきはここからの脱出よ。
「薬はこちらに居巣でいただいたものがあります。ともかく熱が引かないことには移動もままなりません」
「そうか。長姫に任せて大丈夫だろうか?」
「はい、私と共に参った兵たちを他と区別していただければ手は足りるかと」
「あぁ、そうか。曹家の若君の隊も離散しているのだったな」
同じ軍だからこそ、基本的に武装は揃い。
そのせいで間違えられてしまえば、また情報の行き違いが起きる。
かと言って、今から戦う人たちにこちらは非戦闘員だから声をかけるななんて言えない。
「妙齢であれば紅をというが」
「赤眉ですか」
「ほう、知っているか」
前漢の王朝を終わらせた、逆臣王莽。
漢王朝を一時終わらせたため、後漢からすれば大逆人の代名詞だ。
それを倒すための反乱で使われたのが赤眉と呼ばれる化粧。
同じ武装の中で眉を赤く塗った者が反乱兵としての目印としたという逸話だ。
ただ残念ながら、私はまだ紅をさす年齢じゃないけれど。
「攻撃のために曹丞相も移動を始めているはずだが」
「もう攻撃が?」
「向こうは足場にできる堤がすでにある。何より船の扱いに長けているから、早期に攻撃を行うべきなのだ。守りを固められるわけにはいかない」
東の海の向こうの知識を紐解けば、確かに二月に攻撃を開始するとある。
それなら今、もう動いているのは当たり前だ。
疫病で遅れただけで、開戦準備は正月に整っていたのだから。
本格攻撃がひと月遅れただけで、威力偵察という戦いも始まっているようだし。
もしかしたらここに病人がいると知られてもまずいかもしれない。
「あぁ、私は戦の何も知らず…………」
思わず後悔の言葉が出てしまうけれど、それを臧将軍は笑った。
「そうして弁えるだけ良いことだ。ともかく天候も悪い。冷え込む前に中へ入りなさい」
臧将軍はそう言って、急いで用意された部屋に案内してくれた。
もう私の体が弱いとか言っておられず、やはりここは私が動かなければいけない。
「臧将軍、今しばらく」
「専属の者をつけるから、足りものがあればそちらに命じてくれればいいが?」
「いえ、戦況をお聞かせください。濡須塢に城は建ちましたか?」
知識にそこから攻めて来るとある。
そしてそこが落とせないために曹家の祖父は撤退を決めるのだ。
「誰から聞いたのか。いや、そうだな居巣から来たならば漏れ聞こえることもあるだろう。まだ城は築かれている途中だ」
どうやらまだ敗退までに猶予はありそうだ。
曹家の祖父は築城を阻止するために最初の攻撃を行う。
そこでは勝ちを拾うので、すぐさまこの砦を放棄して撤退ということはないだろう。
だから問題は…………。
「その濡須塢を守る将は?」
本来ならそこには、将来の大都督である呂子明がいる。
孫権からの委任を受け、軍の指揮を執って守り、時には攻めるという臧将軍に勝るとも劣らない勇将だ。
「呂子明は?」
ドキドキしながら問う私に、臧将軍は首を横に振った。
「いないようだ。今この時になっても旗がないのであればな」
「まぁ!」
思わず喜ぶ私に、臧将軍は首を傾げる。
「それほど警戒するよう夏侯家では教えているのか?」
「いえ、そうではないのですが」
歴史なんて言えない。
けれど安堵の気持ちから言葉が漏れる。
「その叔父さまたちが、少々」
「叔父は夏侯家の?」
「いえ、曹家なのですが、呂子明を動かせるようにと考えていらっしゃいまして」
「ほう、素晴らしいな」
「はい、ご兄弟で同じ方向を見ればこのようなこともできるのです」
「兄弟、か…………」
口に出して思ったけれど、本当に素晴らしい結果だ。
子建叔父さまが一度争う姿勢を失くしたことで、子桓叔父さまも曹家の益となる選択をしてくださった。
その結果が、これだ。
この大事な時に最も功績を残すはずの勇将がいない。
行く先は、叔父さま方が罠を張った漢中しか思い当たらない。
(つまり叔父さまたちの策にはまった)
まだ子建叔父さまを狙うか関羽を狙うかはわからない。
それにそもそも関羽が釣りだされてくれたのかさえ、この遠く離れた地では不明だ。
それでもこの変化は、きっと曹家にとっては追い風になる。
後は子建叔父さまが狙いどおり籠城で危険なく過ごしてくだされば。
「長姫?」
「あ、はい」
いけない、目の前の臧将軍を無視する形で考え込みすぎたわ。
「まずは河南尹のつけられた兵との合流を優先すべきだ。そこから移動を考えるとして、行く先は曹丞相の元を経由すべきやもしれない」
「つまりは戦いに赴くところということですか? それは、お邪魔ではないでしょうか?」
「これ以上間違いがあっては、曹丞相もお心が乱れるだろう」
「そう、ですね。お手数おかけします」
「いや、若君が倒れられた時に長姫が側にいたのは幸運だ。君まで倒れてはことだろう。ともかく中で休むように」
「お心遣いいただきありがとうございます」
臧将軍は私や元仲に好意的なようだ。
たぶん合肥の城門で元仲が先を譲ったのが心証を良くしているのでしょう。
知識では、情けは人のためならずという言葉があるらしい。
巡り巡って良い報いが返ってくるという言葉だけれど、本当にそのとおりだわ。
予想外に前線に来てしまい慌てたけれど、元仲たちの安静は確保できそうだ。
(何より呂子明はいない!)
これはもしかしたらこの砦が落ちない可能性もある。
とは言え、やはり戦場近くに子供がいては他の兵士たちの士気に影響するかもしれない。
ここはともかく病人の回復に努めるべきだ。
私は意気を取り戻して、臧将軍と別れる。
夏侯の祖父がつけてくださった兵で残ったのは六人。
まずはこの人たちと協力して、元仲たちが安静にできる環境を作ることが先決だった。
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