九十話:危険な安静
「長姫、本当に大丈夫か?」
「おじいさま、どうか今はお戻りになることを優先なさってください」
元仲たちが巣湖を離れたところで疫病を発症してしまった。
それに夏侯の祖父がすぐさま対応してくれたけれど、簡易拠点でしかないここでは、やれることなんてほとんどない。
そもそもここは前線への中継地点であり、人の出入りが激しく安静にするのも問題だった。
「私たちは前線に近くなりますが、きちんとした壁のある場所へ退避します。おじいさまは一刻も早く合肥へお戻りください」
私は夏侯の祖父とは別れることを提案した。
重要度で言えば合肥を任されている夏侯の祖父の不在のほうが問題だもの。
そしてこうなってはもう、私たちは足手まといでしかない。
最初からそうだったのに、さらに熱が出て動けなくなってしまっていては無理な移動は命にかかわる。
だったらもう置いて行ってもらうしかない。
そして夏侯の祖父には合肥から迎えの人員と受け入れ態勢を整えてもらうほうが、ここに残ってもらうよりいいはず。
「幸い司馬の伯達さまよりいただいた薬が効いており、今以上の悪化はない様子。であれば、おじいさまが迎えを遣わせてくださる頃には移動も可能となっているでしょう」
「開戦が近い上でお前たちを置いて行くようなことは…………」
「なおのこと、おじいさまはお戻りにならなければならないはずです」
そもそも移動重視で夏侯の祖父に随行する者もそんなに多くはない。
ここから移動する危険はおじいさまも同じ。
そして敵に発見された場合狙われる優先度では、おじいさまのほうが高かった。
「案じてくださるのでしたら、いち早く戻られて迎えを差し向けてください」
「うぅむ」
私は夏侯の祖父と話し合いを続ける。
兄たちが倒れて不安な小妹も一緒だけど、いるだけで静かにしていた。
そして煮え切らない夏侯の祖父に、周囲の兵も説得に乗り出す。
「河南尹、どうかお戻りを」
「このままではあなたさまのお役目も果たせないでしょう」
「むぅ」
他の者たちも切迫した状況を理解している。
その上で、私たちよりも夏侯の祖父が重要だと選んだようだ。
戦が始まればどちらに重きを置くかなんて、決まっている。
戦えない私たちよりも、夏侯の祖父になるのは自明。
そのことは本人が一番よくわかっているはず。
「一人二人なら抱えて行けるかと思ったが、致し方ない、か」
危険なことを考えないでください。
ただ夏侯の祖父も周りに言われて諦めてくれたようだ。
その上で私の説得はまだ終わっていない。
「おじいさま、次の砦までの移動の許可をお願いします」
「本当に大丈夫か? 元仲さえも指示を出せない中で」
「ここでは治るものも治りません。ここにいても悪化するだけですから」
「それもそうか。確実に辿り着けるよう言い含めておこう」
夏侯の祖父から許可をもらい、行先も大人が検討して計画してくれた。
と言っても大して選択肢はないのだけれど。
ここから合肥に戻る場合は、戦線に向かう者たちの流れに反する。
それよりも流れに乗って私たちは兵も多い先へ進む。
ちゃんと壁と部屋を整えた砦がある分、危険はあっても休むにはましなはずだ。
「最前線ではないが、危険だぞ。決して一人で行動するな」
「はい、心得ております」
「場所がわかっていれば、こちらも迎えを送りやすい。砦に辿り着いたら動くんじゃないぞ」
心配に後ろ髪を引かれる夏侯の祖父も、ようやく説得されてくれた。
そして決めると早い。
いくつか前線に関して指示も残し、夏侯の祖父は隊をわけて私たちの警護を残し出立していった。
騎馬だけで速度を重視し、巣湖南岸を駆けると言う。
独眼で不自由な夏侯の祖父が心配にはなる。
けれど私たちも移動しなければいけないため、心配ばかりもしていられない。
「移動するわ。辛かったら遠慮なく声をかけてね」
「すま、ない…………」
元仲がかすれた声で答えた。
他とは時間差で、今が一番熱高いらしい。
「せめて、薬があって本当に良かったわ。伯達さまには感謝をしないと」
自ら飲んだ上で、私たちの分を確保して渡してくれていたお蔭だ。
だから物資の少ない拠点でも薬を与えることができた。
小小は心配したけど薬が効くのも早かったらしく、今ではだるいくらいに回復している。
けど大兄や奉小は腹痛が酷い。
大哥は吐き気で、阿栄は鼻詰まりを中心に耳鳴りや目のかすみという五感が不調で熱もある。
「危険なので急ぎたいところですが」
「いいえ、病人なの。なるべく揺らさないでお願い」
「心がけます。では行く先の打ち合わせをしてまいりますので」
夏侯の祖父が残した兵は、幼くとも私が話しが通じると見てそう声をかけた。
周囲には新年で増えた私たちの荷物の他、荷車がある。
寒くないよう藁を詰めてある中に、元仲たち寝かされていた。
座れる余裕のある私と小妹は駕籠で移動するため、風よけ代わりに駕籠の中で待っていた。
「あら? 元仲たちの荷車が動いているわ。移動が始まったの?」
担ぎ手に声をかけるけれど、戸惑った返事が返る。
「いえ、何も。どうしましょうか?」
「連絡の不備かしら? ともかくはぐれてはいけないわ。追って」
「はい、ただ今」
私は急いで元仲たちが乗っている荷車を負う。
その動きで小妹の駕籠も動き出し、列を作っているから止まるまで確認もできずついて行った。
そしてようやく目的地らしい場所についたのだけれど、担ぎ手たちが不安の声を漏らす。
「おい、ここ…………」
「けどあの荷車について来たんだぞ」
「どうしたの? 着いたのではない?」
開門を要求する声などが聞こえる中、砦の中へ入る。
だから着いたはずなのに、担ぎ手たちは戸惑うばかりだ。
「夏侯の、それが…………」
「おい! なんだこの荷車!? 病人が乗ってるぞ!」
荒っぽい声がして駕籠から出てみれば、無遠慮に荷車にかけられていた藁を捲っている兵がいる。
「おやめなさい!」
つい声を大きくした私を見た兵士がさらに困惑して騒ぎ出した。
女児がいるなんて知らなければ当たり前だ。
けれど、夏侯の祖父が移動許可を出している以上それはおかしい。
「どうした?」
ざわめきが広がる中で、通りの良い声が投げかけられた。
私はその声に聞き覚えがあり、相手の名を呼ぶ。
「臧将軍!?」
「何? 夏侯の長姫? 何故ここに…………」
「それは私も聞きたいことですが、いえ、まさか」
「ここは私が任された砦だ」
最悪の展開に、私は息が詰まってしまった。
都で散々聞いた話だ。
兵がついていく者を間違えて迷う、行軍の難しさ。
それがまさか自分に起こるなんて。
混乱しそうになった私は、荷車が視界の端に映ったことで、今すべきことを思い出す。
「臧将軍、どうかお助けください。元仲たちが熱で動けなくなっているのです。休める場所で迎えを待つ予定がここに。ともかく、皆を寝かせられる場所はございませんか?」
「何? それはいけない。すぐに用意をさせよう」
臧将軍は合肥で会ってるため、荷車で藁に包まれ防寒されてる元仲の顔もわかった。
お蔭で突然の闖入者である私たちに対応してくれる。
開戦前で申し訳ないけれどこの幸運を掴むしかない。
そうとわかっていても心臓が痛いほどに早くなり続けている。
(どうしてよりによってここに? 臧将軍がいるってことは、ここ、開戦したら落ちる砦じゃない!)
東の海の向こうの知識で、私は一人不安にさいなまれる。
けれど移動してしまった今、取って返すにも準備が必要だ。
私はともかくこの危険な場所で元仲たちを安静にし、快復を願うしかなかった。
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