八十九話:巣湖南岸
二月を前に、私たちは移動を開始した。
目指すは巣湖の南。
ちなみに移動が決まってから、一度曹家の祖父に呼び出された。
新年の挨拶を許すとのことで、お忙しいのに時間をいただいている。
もちろん我が家でお世話をする予定だった人たちは強制同行。
そんな集まりで直系の元仲が逃げる言い訳も立たず、結局全員で新しい服にもう一度袖を通し丞相閣下へご挨拶をした。
「長姫は少し、強引です」
「曹家のおじいさまへのご挨拶のこと、まだ言ってるの?」
居巣を離れた宿泊場所で、小妹が唇を尖らせる。
運んだ荷物の状態を見ていたため、新年の服が目に留まったんだろう。
ここは居巣から南下した簡易拠点。
大人の腰くらいの高さの盛り土の中に、簡易に作られた平屋が並んでいる。
私たちはここから西に向かう形で巣湖の南岸を進む予定だ。
「お衣装の裾が曲がったまま、曹丞相の前に出てしまいました。お母上に叱られてしまいます」
思ったよりも気に病んでいたみたいね。
これはどうにか切り替えてもらわないと、親戚内で話が回ってしまいそう。
「そこは、お正月の内に曹家のおじいさまにご挨拶できましたって言うだけではいけないの?」
「でも、悪かったことはご報告して、改めないと」
「それにおじいさまも戦前で新しいお衣装は着ていらっしゃらなかったわ。それをお母上にまで申し上げたら、おじいさまが困ることはない?」
「そう、かもしれません」
「だから、衣装の話はしないほうがいいわよ」
一度素直に頷いた小妹は、それでも誤魔化している状況に首を傾げる。
これはもっと別の方向に話を進めてしまいましょう。
「そう言えば、移動ばかりで大兄に数日会っていないわ。せっかく今日は野営ではないのだし、会いに行きましょうか?」
屋根と壁のある簡易拠点に辿り着いたため、男女は別部屋を用意されていた。
野営のための行動は火を焚いて食事をして寝るだけ。
一つの焚火で賄える食事の量には限度があるから、移動の間は二人一組で過ごしている。
男子は一緒になることもあったようだけれど、寝る場所も確実に違う私たちはわざわざ移動して話すこともなかった。
「野営の間は手洗い嗽もなかなかできなかったし、お湯を持って行ってあげましょう」
「そうですね」
と言っても、お湯を沸かして移動させるのは使用人の仕事。
私はそうした者を引き連れて、小妹と共に大兄たちのために用意されたという部屋に向かった。
「大兄、いるかしら?」
「お湯をお持ちしました」
「…………長姫、小妹?」
返って来た声は掠れてる。
なんだか声を出すのがつらそうな様子だ。
「入るわよ、大兄。…………って、どうしたの? 奉小?」
入るとまず目についたのは、ぐったりと壁にもたれている奉小だった。
礼儀正しく育てられているはずなのに、今は姿勢を正す力もないみたい。
「なんだか、旅の疲れが出たようで、体が重いんだ」
「まぁ、すぐにお休みになったほうがよろしいです」
小妹が心配して、私に続いて室内へ。
見れば大兄も同じような姿勢で動けないようだ。
さらに姿の見えない司馬家の大哥と小小を捜すけれど、見える場所にはいない。
「大哥と小小は?」
「小小を、寝台に寝かせに、行ったはず」
言われて奥へ行けば、小小と一緒に寝台の上でぐったりしてる大哥がいた。
これは、もう疑いようがない。
「すぐに医生を捜して。あと、冷たい水と布。全員をまずは寝台に移動させてあげないと」
「長姫、もしかしてこれは」
小妹も、医生という言葉で気づく。
「えぇ、たぶん居巣で起きていた病よ。熱を出しているみたい」
私は自らの鼻や口を袖で覆って、短く息をする小小の額に手を当てる。
そうして触っても小小は反応を返さない。
ずいぶん消耗しているようだ。
「一緒にいたならあの二人も…………」
私はその場を小妹に頼んで、指示を残し室を出た。
他の者に案内をさせて元仲と阿栄を捜すためだ。
「いた! 元仲、阿栄」
「長姫、どうしたんだ?」
私は勢い、振り返る元仲の額に手を伸ばす。
「やっぱり熱っぽい」
「おぉ、これ熱か。なんだか関節に違和感あると思った」
私の突然の行動も気にせず、阿栄がいつもより力なく笑う。
「自覚があったなら安静にしなさい。大兄たちも今部屋で起き上がれなくなってたのよ」
熱と聞いて指示を受けていた兵士が慌て出す。
私はそんな兵士に、ともかく元仲たちに病の兆候があることを伝えるよう、夏侯の祖父への報告を頼んだ。
他にも症状が出ている者がいるかもしれない。
「ともかく二人は悪化しない内に休んで。指示が必要であればその者を呼ぶから」
「いや、確かに少しだるいけど、そこまでじゃ」
元仲は症状が軽いためか、そのまま仕事を続けようとする。
けれど、それを阿栄が止めた。
「いつも熱でぶっ倒れてる長姫が言うんだから、きっとこの後俺たちも倒れるくらい熱が出るんじゃないか? 人前で倒れるより最初から寝てるほうがいいだろ」
「それは…………そうだな」
そんな説得でいいの?
いえ、ふいに倒れて頭を打っては危ないけれど。
「ともかく、意識がある内に水と薬を飲んで。熱が上がった時に冷やす用意と、確か嘔吐下痢の症状が出るかもしれないから…………」
言いながら、私は二人を大兄たちのところに連れて行く。
病が移るんだからもうここに隔離してしまおう。
すでに小妹が呼んだ人たちが四人を寝台に移動させてくれている。
その上で水差しや桶、布も持ち込んで世話をしていた。
「あ、長姫。やはりそちらも? どうして私たちは平気なのでしょう?」
「小妹は、長姫が言うとおり手洗い嗽をしてたのが効いたんじゃないか」
「その言い方…………。してなかったの、阿栄?」
「その、わざわざ湯を用意させる手間が惜しくて」
責めるように言ってしまうと、元仲が後ろめたそうに答えた。
どうやら地道な感染対策が、私と小妹が無事な理由だったようだ。
「もう!」
「長姫の言うことを聞かないから!」
珍しく小妹も怒る。
実際それで死にかける可能性があるとなれば妥当でしょう。
「食べ物はどれくらいあるのかしら? ここは拠点と言っても長居はしない場所でしょう?」
近くで世話する者に聞くと、やはり居住するための建造物ではない。
今は私たちのために部屋を開けているけれど、普段は倉庫代わりだそうだ。
(まずいわ。このままここにいても悪化の可能性が高い)
何せ寝具自体が揃っていない。
つまり、発熱している上で凍えているみんなを温めるためのものがない。
それに滋養強壮なんて言っていられない食事事情がある。
何より、小小が不安だ。
「小小は意識は戻ってくれるかしら?」
「危ないのですか、長姫?」
不安の滲む私の呟きに、小妹が泣きそうな顔をする。
私は慌てて笑顔を作るけれど、ちょっと引き攣ってしまった。
「大丈夫、きっと大丈夫よ」
そう、大丈夫と言えるように手を打たないといけない。
「ともかく、ここではだめだわ。そのためにしなきゃいけないことは、夏侯のおじいさまにお話をすることよ」
私も不安だし、熱を出して苦しんだことがあるからこそ、この簡素な拠点の心もとなさもわかる。
せめてこの冬の中、熱が悪化しないよう耐えられる寝具が欲しいところだった。
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