八十八話:回り道
ちょっとご挨拶というつもりだったのに、年が明けてもまだ私たちは前線後方の居巣にいた。
司馬朗こと伯達さまに薬を目の前で飲んでもらえたのは良かったけれど。
やはり疫病はまだ沈静化しないということで、私たちは予防をしつつ引きこもりを継続。
いつの間にか元仲の隊の人員も使われていて、代わりに病が移っては大変な元仲は私たちと奥で待機を命じられていた。
「けっきょく、名前もらってもまだ子供扱いかぁ」
「阿栄、せめて元仲さまに聞こえないように言うんだ」
「そもそも私たちがいること自体が問題で、一人でも責任者が必要だからこそ元仲さまもいてくださるんだぞ」
歯に衣着せない阿栄に、夏侯家の大兄と荀家の奉小が揃って苦言。
私たちがいるせいで、監督役として側にいるんだと。
ただ実際問題元仲にやることはない。
何せこの居巣には、指揮系統で言えば一番上の曹家の祖父、そしてそれに次ぐ夏侯の祖父が揃ってしまっている。
経験が浅く、私たちと同世代の元仲ではまだ力不足だろう。
「あれ、誰か来た?」
窓の近くで遊んでいた小小が、そう言って顔を上げた。
言われて室の外に耳を向けると、確かに足音と衣擦れの音がする。
そうして先触れもなくやって来たのは、それが許される方だった。
「埒が明かんのだ」
突然奥に来た夏侯の祖父が、脈絡もなくおっしゃる。
「おじいさま、どうなさったのです? 疫病に対しては薬が効いているとお聞きしておりますが?」
「そっちもすぐさまどうなることもないが、問題は帰りだ」
私が応じる間に、夏侯家はもちろん一緒にやって来た子供たちで居住まいを正す。
元仲は一緒に相手してくれてもいいのに。
夏侯の祖父はお顔は怖いけれど、子桓叔父さまほど意地悪でもないわよ。
「薬が効くとわかったからには、あるだけ優先して運んでいる。その分合肥への道が塞がっているのだ」
「つまり、未だおじいさまがお戻りにはなれないから、埒が明かないと?」
「そういうことだ」
濡須口攻めは、新年からの予定が翌月に変更されている。
その上で合肥において指示を出さなければいけない夏侯の祖父が居巣で足止めをされていた。
「合肥から来て戻る荷駄もあるでしょう。その一つを河南尹がお使いになられては?」
仕事の話と察して元仲がやって来るけれど、普通に身内として話してもいいと思うわ。
「戻りには重症者を乗せている。薬が効いても開戦までに間に合わない者は邪魔だ」
たぶん無理をすれば捻じ込めるのでしょう。
けれど戦を思えば、今の内に戦える者とそうでない者の整理はしておかないといけない。
そのために夏侯の祖父という指示系統が一つ増えるのは、曹家の祖父にとっても現状手助けになっているようだ。
だからと言っていつまでも合肥に夏侯の祖父不在もよろしくないわけで。
必要だから戻らなければいけないけれど、現状優先事項がある。
だから埒が明かない。
「…………曹家のおじいさまからそのように言われてこちらへ?」
「何故わかった?」
「いえ、おっしゃりそうだと思っただけでして」
正直夏侯の祖父は仕事が目の前にあればそれを行う。
けれど先を考えるならば帰る算段を立てなければいけない。
そう考えるのはきっと曹家の祖父だろう。
そしてその際夏侯の祖父を動かす言い訳には私たちを使いそうだなと。
いつまでも居巣にいるなら私たちを連れて合肥へ戻れとでも言われたため、その方策を考えるためこちらへ。
何せ一応私たちの責任者である元仲がいる。
(ここで下の立場の者と言って呼び出すことをしないのは、曹家だからかしら?)
夏侯の祖父からすれば、曹家の祖父の直系の孫で、順当に行けば先々の主人。
損得よりも、染みついた夏侯家の臣下としての振る舞いをしていそうだ。
「やはり調整して戻るしかないのでは?」
当の元仲は夏侯の祖父が自ら足を運んだことに疑問はない様子。
その辺りはお坊ちゃんと言えるのかもしれない。
そしてあげる意見はもちろんそれが一番といえるもの。
「優先度が低い内にはそのために他を後に回すのもな。何より道がないわけではない」
「では問題があるのですか?」
「巣湖を渡る」
私のみならず聞いていた皆が肩を震わせた。
岸辺を行くだけでも寒風にさらされたのに、それが湖の上となれば風を避けることもできない。
船上で風に吹かれることを想像しただけで身震いがした。
そんな私たちを見て夏侯の祖父が唸る。
「うむ…………長姫が熱を出した状態で戻るのもな」
「それは、確かに避けるべき問題ですね」
「清河公主さまがお怒りになります」
夏侯の大兄に小妹が真剣に頷く。
聞いて夏侯の祖父も大いに頷いている。
風邪をひく可能性は私よりも幼い小妹や小小にもあると言いたい。
言いたいけれど、今まで散々寝込んでいたことは事実なので言えない。
そしてやっぱり巣湖を船で合肥に戻るのは避けたいところだ。
「他に、そう、他に道は? 巣湖の南岸はどうなっているのでしょう?」
聞く私に夏侯の祖父は巣湖周辺の道を教えてくれた。
「一番大きな道は巣湖の北を回る。それとは別に巣湖に近い道を貫く道もあるため、そこを通ってここへ来た。それと同じく、軍が通れるほどではないが、隊が通れる道は南岸にもある」
戦争のため、整備された大きな道は軍専用に使用しているようだ。
つまり岸辺の道は地元民が使うためのもの。
今はそこさえ使って薬や重症者の往来をしているらしい。
一月後には戦争始めるのだから無茶してでも整えなければならないのはわかる。
そして南岸にもまた道はあるという。
「だが、前線が近いからな」
「相応の距離があったと思うのですが?」
司馬の大哥が許可を取った上で意見を告げると、夏侯の祖父は否定した。
「半日もかからん距離だ。状況に変化があれば巻き込まれるぞ」
私たちにはわからないけれど、夏侯の祖父の言葉には確かな実感がある。
きっと言うとおりなのだろう。
「まだ始まってないなら今じゃないんでしょうか?」
ちょっと崩れてるけど、阿栄がいつもより真面目に意見を告げる。
ただそれにも夏侯の祖父は懸念を挙げた。
「斥候がなぁ」
「巣湖にまで来るのですか?」
荀家の奉小も驚いて聞く。
「こっちも放っているからな。一番の問題は足の遅さだ」
夏侯の祖父はその歯に衣着せぬ物言いで、敵に発見された場合いい的にされると告げた。
余分に割ける護衛の兵もない中、足の遅い子供を乗せた駕籠の一団は、少数の斥候でも襲う可能性がある。
「発見されれば確実に襲撃計画を練られるぞ」
「だったら逆に、不埒者どもをひっ捕らえてはどうでしょう?」
「勇ましいな。だが、欲は掻くな。移送中に敵を捕まえても対処が増えるだけだ」
拳を握る阿栄に、夏侯の祖父はにやりと笑いながらも却下する。
それらの意見を聞いて、私は逆説的に考えた。
「ある程度相手の動きを予想できるのであれば、確実に見つかってもいい、襲撃を計画する時間がない。そう言える時を選んで移動してはどうでしょう?」
思いついて口にした私の意見に、夏侯の祖父は即決する。
「ふむ、ではそれで行こう。開戦秒読みとなれば斥候も退く。見つかったとしても襲って引き返すことが難しい状況なら思いとどまるだろう」
確かに斥候なら情報を持ち帰ることが仕事。
位置関係上どうしても戦場を横切る形で移動しないと長江を渡れないのだから、確実に襲撃を計画する余裕はないだろう。
夏侯の祖父はその場で隊長である元仲と簡単に打ち合わせをした。
ある程度決まるとその足で曹家の祖父に報せると出て行く。
疫病にかからない元気さに呆れるような安堵するような、羨ましい気持ちも交えて、私は祖父の背を見送った。
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