八十六話:冬の水辺
私たちは夏侯の祖父と共に、合肥から居巣へと移動することになった。
巣湖という湖沿いに、北周りを移動する。
運ばれるだけの作業のはずが、予想以上に季節が過酷だった。
「寒い…………!」
「寒いです」
「さむーい」
そんな移動のある日、私は小妹と小小と抱き合うほど身を寄せ合って震える。
今は巣湖の北岸を進む道中の中休み。
駕籠で運ばれ、宿泊場所で夜を過ごし、また朝には移動をする。
ただそれだけだと思っていたけれど、冬の水辺は湖を渡る風の冷たいこと冷たいこと。
「寒いから急いでいるんだが?」
「その速さが寒風をより強めるのだと思われます…………」
私たちの訴えに、夏侯の祖父が首を捻ると、元仲が補足してくれる。
肉体的に衰えを感じるご年齢なのに、私の祖父はお元気だわ。
本当にこれで四年後に亡くなられるのかしら?
「ふむ、そうか。だが予定より早められても遅れることはできん」
そこは開戦が近いからだということは私もわかっている。
一応物資の補給が名目での移動であるのだし。
そうでなければ開戦間近の今、道を占拠する隊を成して移動なんてしない。
年末が近いから、年始の挨拶ができないし、せめて開戦前に顔合わせをしようということになっている。
年始の挨拶を大事にする文化なので、夏侯の祖父も賛同してくれたのだけれど。
「ここまで急いだのですから、これからは予定どおりの速度で良いのではないでしょうか。開戦が早まるようなこともないはずでしょうし」
私たちを気遣って言ってくれる元仲に、夏侯の祖父も状況を考えて頷いてくれた。
「そうだな。合肥で受け取った前線の情報では、まだ敵方の諸将も揃ってはいないようだとあった。こちらとしても相手の将の名前を押さえて本格的に備えたい」
思わず私は気になっていた存在について問いかけた。
「おじいさま、呂子明は?」
夏侯の祖父はすぐには答えず、私と一緒にいる夏侯家、荀家の同伴者たちを見る。
「この場の誰も発案者と言える者たちです」
「そう言えばそうか」
実は奉小だけ違うけれど、そこは些事。
夏侯の祖父もその辺りは気にしない性格だし、ここから情報漏洩なんて可能性も低い。
「あやつについては、未だ見えずと聞いている」
もしかしたら罠にはまってくれたのかしら?
まだ結論を出すには早いけれど、それでも上手くいくならそのほうがいい。
呂子明が濡須口の戦いに現れない。
それはきっと曹家のおじいさまにとっては優位になる。
冬の水辺の寒さに耐えつつ、年明け前に私たちは居巣へと至った。
けれどそこは大変な騒ぎが起きており、夏侯の祖父も目を瞠る。
「む、どうしたことだ?」
戦いの前の騒がしさじゃないことは私にもわかるけれど。
夏侯の祖父が事情を聞こうとしているところに出迎えが現われて、大急ぎで曹家の祖父に引き合わされることとなった。
「来るなという使者を出したが、入れ違いか」
「何があった?」
曹家の祖父に夏侯の祖父が手短に聞く。
きっと急いだり速度を緩めたりと動きを変えたせいで、曹家の祖父から出した使者と落ち合えるはずの場所と時間がずれたのだろう。
「疫病だ。寝込む者が千を越えた。この調子では、年が明けてから前線配置を行うよう計画を遅らせる必要がある」
どうやら計画では年明けに侵攻を行う予定だったそうだ。
けれど私は二月から侵攻が行われると、東の海の向こうの知識で知っていた。
だから気にしなかったけれど、夏侯の祖父が急いだ理由は開戦が差し迫っていると思っていたためだったらしい。
結果を知っていても経過は今まさに起きているのだから、こういうずれもあるのね。
「病が移る可能性がある。ここには長居せぬほうがいいのだが、合肥に薬をすぐさま運ぶよう指示もだした。そちらを優先するため道は通れぬだろうな」
「俺はいいが、問題は子らか」
祖父二人が揃って私たちを見る。
いえ、私を見ていらっしゃる?
夏侯の祖父が曹家の祖父に独眼を向けた。
「実は来る時に子林が何かしたらしく、清河公主が腹を立てていてな」
「むぅ、それはまた…………。まぁ、二人で上手くいけば長姫が回復してから動くまでもなかったわけだが」
待って。
曹家の祖父まで知っていらっしゃるの?
いえ、確かに両家にとっての大事ですけど。
「その上、長姫が病にかかったとなっては、気を尖らせることだろう」
「うちでは清河公主の相手はできんぞ」
夏侯の祖父がはっきりと情けないことを表明する。
いえ、説得や宥めると言った方向の適性がないのでしょうけど。
というか、合肥を担う夏侯の祖父がここに足止めされるほうが重大事ではない?
「ともかくお主らは奥で終息を待て。病にかからぬよう気をつけよ」
曹家の祖父はそういうと共に、心配させないよう曹家の祖父から私の母に連絡をしてくれるという。
それと同時に、合肥での指示も夏侯の祖父が書簡を出すとのこと。
隊列を成しての移動は無理だけれど、馬で使者くらいは出せるらしい。
ただあの水辺を馬で風を浴びながら走るというのは、想像するだけで震える。
「まさか居巣で年越しとは思わなかった」
「なんて言うか、人を動かすって面倒だな」
状況の変化を憂う夏侯の大兄に、阿栄がずれた感想を返す。
討ち死にする前振りに聞こえるからやめてほしいわ。
「逆に自分が動くほうが面倒が増える。指示を出すには動かすほうが面倒は減るものだ」
そうそう、言ってあげて元仲。
「元仲が命令、俺が動く。それでいいだろ」
阿栄が笑顔でいいわけないことを言う。
「良くはないだろう。夏侯将軍のお役に立つなら、命令を受けて、自らもまた命令を下し兵を動かさなければ」
司馬の大哥が窘めるように言うと、荀家の奉小も頷いた。
「武功を自ら立てたいのはわかるが、そのためには動かすことも必要だ。張将軍を見てみてはどうだ?」
確かに反感さえある兵を率いての逆転劇を行った方を思えば、人を動かすという大切さも実感できそうだ。
阿栄も面倒なんて言葉では済まないことを感じたのか黙る。
「本当に疫病が起きました。長姫の言ったとおりに」
「長姫、こうなるのわかってたの?」
寒さで寄り添う小妹の呟きに、小小が反応した。
「わかっていたと言うよりも、例年この辺りで戦うと疫病があるというのは聞いていたから」
だから大兄と小妹には、こっちでも手洗いはするよう言ってあった。
というか、私の家を訪れた時には常に手洗い嗽をさせている。
まず私が弱すぎて、外から来る二人は平気なものでも風邪になってこじらせる可能性があるからだ。
だいぶ元気になったとは思うけれど、やはり東の海の向こうの知識にも冬は風邪の季節とあるのだから気は抜けない。
「長姫はいつも水温めるよな」
「温めると言うか、沸き立たせているな」
我が家を訪れたことのある阿栄と元仲も、もちろん私がいる時には手洗い嗽をさせている。
「沸かせば飲んでもお腹壊さないから、手を拭ったり喉を洗ったりに使えるのよ」
消毒と言っても通じないからそうざっくりと説明をする。
「そうなのか。寒いからかと…………」
「つまり、もしかして夏も?」
数える程度しか我が家を訪れていない奉小と大哥は寒さ対策だと思っていたらしい。
もちろん私は頷くし、実際やらされてた大兄と小妹も頷く。
「本当にそれでこうして元気になってるから一応やったほうがいいとは思う」
「そう言えばうちの妹が寝込んだ時にもさせていたな」
大兄と元仲の言葉に、夏侯家以外は半信半疑だ。
けれどこの日以降、他の人たちも私に合わせて手洗い嗽をしてくれるようになったのだった。
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