八十四話:合肥到着
二カ月の旅を終えて、私たちは合肥へ到着した。
荷物や旅慣れない人員を加えての旅は、想像するよりもずっと長く感じる。
天気や河川の状況で数日逗留延長などもあり、旅って大変なんだなんて、当たり前のことが身に染みる。
「ここが、合肥…………」
私は感嘆の声を上げて、高く立派な城門を潜る。
都から離れて田舎道も通ったし、碌な建物もない村も通った。
何もないと言えるほどの景色さえ、幾度も通過している。
そんな今までの暮らしで見たことのない景色とも、また違った風景が合肥にはあった。
(下手に居住地の限られた東の海の向こうの知識があるから、余計に周囲に何もない地に巨大な門と城壁があるというのは圧巻だわ)
道があれば住居があり田畑があるのが東の海の向こうで栄える予定の国だ。
けれどそもそも土地の広さが違うため、手つかずの野原さえこちらには当たり前にある。
そんな中を旅して辿り着いたのは、要衝として高い壁を備えた街だった。
「長姫、気分が悪いということは?」
「大丈夫よ、元仲。それにしてもすごい人ね」
隊を率いる者として確認にやって来た従兄へ、物珍しさからそんなことが口を突いた。
今いるのは街へ入る前の検問所。
壁の内側にある広場で、街に入るための二の門がある。
広場自体も壁に囲まれた隔離空間で、戦いを意識した造りなのかもしれない。
そこに私たち旅をして来た者以外もいて、お互い隊列を組むほどの人を連れているため、広場には人と荷馬がひしめいていた。
「どうやら今から居巣に向けて発つ隊がいたようだ。時間がかち合ってしまった」
私たちは日にちもずれていれば時間もずれている。
さらには事前に到着を告げていた時間よりも、ずれて到着していた。
太陽の動きで時間を計るしかない旅では当たり前のことらしいけれど。
それでも武装と必要物資を持った隊が二つはさすがに同時には動けない。
「居巣に赴かれるのはどなたかしら?」
「今、私のほうでも確認に人を発した」
「張将軍だったらいいな」
当たり前のように元仲と共にいる夏侯の阿栄が笑いながら言う。
まだ成人していないから軍事行動はできないはずなのに。
旅の間に実戦に足る馬術や弓術を披露して、気づけば他の兵たちも阿栄が混じり入っていることを気にしなくなった。
今も駕籠で運ばれる私たちと違って馬で移動してきている。
「さて、ご期待に沿えず申し訳ないんだが」
私たちが話しているところに鎧姿の男性が現われた。
なんだか苦笑いを浮かべている。
さっと見て、年齢から元仲をそれと見定めると、拱手して武将としての略式の礼を取った。
「臧宣高と申す。お初にお目にかかる、曹家の若君」
真っ直ぐな声は武将らしい。
そして名乗る相手の知識が浮かぶ。
つまり、歴史に名を遺す方。
臧覇、字は宣高。
死後、曹操の二十人の功臣の一人に数えられる武将。
その経歴は張遼と重なるところがあるものの、戦功としては張遼に一段劣る。
それというのも刺史という州の行政府長官を務める文武に優れた人物であるためだ。
「臧将軍であったか」
「は、これより居巣へ向けて兵を進めます」
曹家の祖父の直系である元仲に自ら足を運んで挨拶をしているけれど、元は呂布に与して曹家の祖父とも戦った方。
呂布が処断された後、臧将軍は逃亡するも捕らえられ、曹家の祖父直々に助命されている。
そのことに恩義を感じて実直に仕えるようになったそうで、人望もあり、臧将軍の呼びかけに応じて争いをやめて出頭する者もいるほどだとか。
ただこの方、少しの失言と部下の命令違反で、皇帝となった後の子桓叔父さまにその忠義を怪しまれることになる。
「慣れぬ旅でお疲れだろう。どうか先に門へとお進みください」
離合するために先に動くよう譲ってくれる臧将軍。
けれどその後ろの部下は難色を示していた。
戦を前にした重要度で言えば戦地に向かう兵こそ先に動かすべきなので、先を急ぎたい気持ちはわかるけれど。
私も見ているのに隠さないのはあまりにこちらを軽んじてるわ。
(確かにこれでは、曹家のおじいさまが死んだ途端に逃げてしまいそうね)
臧将軍の部下は、曹家の祖父の死で支配体制が乱れると思い、任地を離れて逃走。
もちろん部下の不祥事は上司である臧将軍に跳ね返った。
世が乱れると考えたのは、跡を継いだ子桓叔父さまの力量を疑ったからで、そんな部下を連れていたことが、子桓叔父さまの心象を悪くしてしまったのだ。
(けれどこうしてご本人がお声をかけていらっしゃった。そうなると子桓叔父さまの長子である元仲さえ憚る姿勢を示しているのに甲斐もない)
私がじっと臧将軍の部下を見据えていると、阿栄が気づいて態度の悪さに眉を上げる。
同時に元仲が落ち着き払って臧将軍に答えた。
「戦地に向かう方々の務めを阻むようなことはできません。どうぞ、臧将軍こそ先を急がれよ」
「ありがたいお言葉だ。この臧宣高、お役目を果たしましょう」
元仲の気遣いに臧将軍は嬉しげに答える。
だからこそ私は部下のせいで、後に兵を取り上げられるという将軍としての恥を負うことに納得がいかない。
「発言をしてもよろしいでしょうか?」
私は元仲に許可を求めた。
すると元仲は阿栄を見て、阿栄は目顔で不満を隠しもしない臧将軍の部下を指す。
途端に不安そうな顔をして、元仲は私を見た。
「臧将軍へご挨拶をしたいのですけれど?」
「なんと、愛らしい姫君にお声かけいただけるとは」
背後の部下に気づかない臧将軍は、私を完全に子供扱いでそう笑った。
もしかしてこれ、元仲の妹君に間違えられている?
ただそこに阿栄も略式の礼を示して声を挙げた。
「俺もご挨拶をさせていただけないでしょうか」
戦いに興味があるから将軍にも興味津々なのでしょう。
ただここは私が先手をいただきます。
「このような姿でご無礼を。そしてお初にお目にかかります、夏侯子林の娘にございます」
「あ、河南尹の…………」
私が誰かを知った臧将軍に、阿栄も続く。
「夏侯妙才が五子にございます。臧将軍はかつてわが父と共に轡を並べられたとお聞きしております」
「私も臧将軍の武勇と忠孝は父より聞き及んでおります。その上で難しい徐州の刺史をお勤めになったとか」
「いやはや、曹丞相の股肱たる夏侯家にそう言われて誇らしくない者はない」
臧将軍は快活そうな笑みを浮かべて答えた。
たぶん正しいと思うことを迷いなく行う方なのでしょう。
だから武勇に優れた張将軍が迷うような場面でも、反対意見を上げられる。
その安定感はきっと今後も必要だと思う。
「この戦いのみで終わらないことはごぞんじですか?」
「長姫、それは…………」
「だからこそ、臧将軍には後の戦いまでも見越して、兵を安んじ、堅固に防衛を旨としてよりどころとなってほしいのです」
私を止めようとした元仲は、続く言葉に口を閉じる。
「また、臧将軍の厚き忠義も、兵にまでは浸透するとは限りません。よくよく、周囲にお目配りを」
そこまで言って、ようやく臧将軍は私たちが後ろを気にしていることに目を止めた。
子供の落ち着きのなさとでも思っていたかも知れないけれど、今はきちんと態度の悪い部下の様子を見る。
「ご忠告痛み入る。河南尹が愛顧されるのも頷けるものだ。より一層軍務に励もう」
表情を引き締めた臧将軍は足早に部下のほうへと向かった。
「なぁ、長姫。今のどういう意味だ? 部下の教育ちゃんとしろよってのはわかったけど、なんで防衛?」
「勝つにせよ、負けるにせよ、防衛拠点は必要でしょう、阿栄。そして戦いがあればその後の復旧、もしくは人心の安寧が必要になるわ。だったら、刺史まで勤められた臧将軍が担うのが適任ではない?」
「司馬家の、大哥たちの伯父もいるのに?」
「戦地に近すぎるから、やはり戦える方が必要だと思うの」
元仲は私の回答を聞いて考え込む。
「これは報告するべきか、するとしてなんと書き送れば?」
「子桓叔父さまも、こんな立ち話を報告されてもお困りになるわ。それよりも離合に関して指示を出さないと」
真剣に検討しようとする元仲を止めて、私は急かすように声を上げたのだった。
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