七十九話:挑発と憤死
今さら口を両手で塞ぐ私に、仲達さまが吹きだす。
「…………う、うん、失礼」
咳払いで誤魔化すけれど、こちらは七歳。
ちょっとした失敗くらいするのは当たり前なのだから、笑わなくてもいいのに。
正礼どのが名より得を取って、確実な成功を睨んだ。
そのために独力で関羽を呼び寄せ、魯粛を釣ろうとしていた子建叔父さまを動かしたらしい。
結果、曹家の祖父は子建叔父さまに宣戦布告を書かせるという。
(だったら関羽相手か魯粛相手かと思うじゃない)
大哥に至っては大物の名前に困惑していた。
けれどすぐに思い当たった様子で考えているから、きっと分散侵攻で関羽に繋がったのでしょう。
「どう思う?」
子桓叔父さまは仲達さまに振る。
「長姫であれば根拠もなくその名を上げるとは思えません。しかし関羽を独力でともなると」
「夏侯のおじは手を貸してもいいと父に言っていたそうだ」
曹家の祖父にも言ったの?
あら、でもこれは…………。
曹家の祖父が子建叔父さまに宣戦布告を書かせ、そこに夏侯の祖父も加勢する。
そして子桓叔父さまは都に近い位置を任されるけれど、戦場からは遠い。
その上まだ継嗣争いは完全に終息したわけでもない。
(解決したと思った継嗣問題が再発していない!?)
私は意を決して子桓叔父さまに訴えた。
「あの、夏侯のおじいさまは違うのです。関羽を落とす策を持ちかけたことで、もちろんおじいさまは惹かれました。ですが、私の父が曹家のおじいさまがお許しにはならないとおっしゃって退かれています」
子建叔父さまの屋敷でのことを語れば、納得したように頷く。
「つまり父に言ったのは、関羽相手だからか」
「他に適任がいることを思えば、あの方を回すとは思えませんな」
子建叔父さまの手伝いという誤解から、関羽狙いであると認識を修正できた。
そして子桓叔父さまも仲達さまも、夏侯の祖父の申し出は却下されると思っている。
それだけ関羽が強敵なのか、戦場で手柄を立てるような働きは期待されていないのか。
それはそれで夏侯の祖父が可哀想な気もする。
いえ、独眼であることを思えば無理をさせない曹家の祖父の思いやりかしら?
「発言をお許しいただけるでしょうか? 適任とは、どなたでしょう?」
話を聞くばかりだった大哥が、礼儀正しく許可を取って聞く。
確かに関羽を相手に回す適任なんて、思いつかない。
私が知る猛将は最近聞いた張遼くらいだけれど、すでに濡須口近くに配されている。
今から移動なんて現実的ではない。
(でも知識にも関羽相手に比肩する人は張遼くらいよね)
関羽は荊州にいて、その周辺で思い浮かぶ名前を探る。
同時に仲達さまが大哥へと答えた。
「元より、関羽の牽制のため、樊城に曹子孝将軍がおられる」
言われてようやく思い至るのは、ほぼ戻らない血縁の方だから。
将軍として転戦している方で、もちろん都に参上することもあるけれど、寝てばかりの私ではお会いする機会がほぼなかった。
今は南の樊城に駐屯しているけれど、確かその前は西で戦っていたはず。
「樊城と江夏であるなら、軍の行き来も可能ですね」
大哥に言われて私も地図を思い浮かべると、確かに山や川に邪魔されるような地形ではない。
守りの位置をそもそも把握していない私たちが、その上で江夏と言ったのは本当にたまたまだった。
けれど全くない場所ではなかったのは、今思えば一緒に話しを聞いていた年長者の元明が誘導していたように思う。
「曹丞相のお考えとしては、関羽を動かす云々ではなく、別の策があると警戒させることを主眼に据えておられるかもしれません。孫呉としては対応しないわけにはいかないでしょう」
「ようは別に目を向けさせて本隊の動きを鈍らせる。孫権めに意識の中での隙を作らせることか」
仲達さまと子桓叔父さまは、気軽そうに見えて真面目に話し合う。
そう言われれば知識にも合致する。
曹家の祖父は工作をして孫呉の領地で反乱を起こさせる。
結果的には鎮圧させられ、孫呉の兵を補充させる形になったけれど、主戦場から意識を逸らさせるという計略だったのだろう。
(そこでの誤算は…………陸遜)
出てきた名前は未来の大都督。
今は無名だけれど、曹家の祖父の策で反旗した者たちを平定して実績を作る。
けれど今回、どういうわけか反乱とは別に子建叔父さまを使った分散侵攻に見せかける策が動いている。
見せかけでいいし、すぐに助けられる位置に身内がいる状態で。
(そうなると後は…………)
子桓叔父さまが言った筆を取らせるという言葉が気にかかった。
「宣戦布告をさせてどうなるのでしょう? 相手に警戒させるだけで益はないのでは?」
思ったことを聞いたら、また笑われたわ。
「宣戦布告と上品に言ったのが悪かったか? 言うなれば挑発だ。子建の奴に、相手を挑発して必ず戦場に現れるよう種をまかせるのだ」
子桓叔父さまに続いて仲達さまが教えてくれる。
「あえて相手を怒らせるのです。激情は往々にして判断を誤らせる。見え透いた罠であっても怒りをもって食い破らんと、自ら罠に飛び込むように」
語る仲達さまに関して、東の海の向こうの知識が浮かぶ。
どうやら将来、諸葛亮という方と決戦を行う仲達さまは、その際策にはめようと挑発を受けるらしい。
けれどそれに応じず罠を見破って耐えるそうだ。
そしてその挑発が…………女性の衣服を送りつけること。
もちろん討って出られないなんて男じゃないという挑発文も添えて。
真面目に戦っているのでしょうけれど、あまりにも幼稚な嫌がらせに感じる。
そしてそこまで嘲弄されて耐えた仲達さまは歴史に名を遺すのだから、実は私が思うよりも効果のある作戦なのかもしれない。
「さて、子建は関羽をどう怒らせるか。こちらが漢中を平定したことで、争う孫呉と矛を収めた。そのひよった行動を刺すか?」
子桓叔父さまが何やら楽しそうに推測する。
私は挑発について知識を探り、おおげさだと思える文言もあることに気づいた。
(憤死?)
挑発されて怒りが頂点に達しての急死。
あり得るのかと疑問が浮かぶ。
けれど知識ではありえると出て来た。
(栄養問題で血管が弱い? だから興奮して血流が増大することで、脳内出血?)
難しいけれど死の危険があることはわかった。
けれどそれは違う気がする。
関羽を呼び出すか憤死かなんて、大事な戦いでそんなことをするかしら。
それに発端である母が心配したのは、魯粛のことだった。
子建叔父さまを動かした正礼どのが、その懸念を伝えないとも思えない。
だったら…………。
「もしかしたら、魯粛を罠にはめるために挑発するのかもしれません」
「ほう?」
子桓叔父さまが反応してくれたけれど、他の可能性に気づいたのは仲達さま。
「魯粛は停戦の話し合いを取り仕切ったことを思えば、挑発で出て来たとしても関羽と組むほうが現実的ですな。であれば狙いは呂蒙。荊州を争った当人であり、関羽と結ぶことはないでしょう」
「なるほど。あれには先年もしてやられた。となれば濡須口からいなくなってくれたほうがいい相手を走らせるつもりか」
子桓叔父さまは考えて笑うと私に目を向ける。
「子建であれば独力でと目立つほうを選ぶだろうが、それを説き伏せて父を巻き込んだ丁正礼に、長姫は何をした?」
「私ではありません。選んだのは正礼どのご自身。私はただ、名と得どちらを選ばれるのだろうと問いかけたのみです」
「ふん、名を選ばなかったと言うのか。気位が高いくせによくも…………。いいだろう、己の名よりも結果を求めたのであれば、副丞相としてこちらも国の利益を重視してやる」
何やら言葉は攻撃的。
けれど思わぬ肯定的な態度に、私は唖然とするばかりだった。
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