七十八話:予想できた来襲
丁家から帰って数日が経った。
私の目の前には子桓叔父さまがいる。
「…………えぇ、まぁ、予想をしていなかったとは言いませんが」
「ふふん、では行こうか」
やって来た子桓叔父さまは、私の言葉に楽しげに笑う。
母に怒られるというのに私を抱えて連れ出す気満々だ。
居合わせた侍女も家妓も止められない身分の相手で、手が宙に浮いていた。
「今しばしお待ちください。心配されますから、書を少し」
断って、私は書き置きを残す。
内容は簡潔に、子桓叔父さまですとだけ。
これを見せれば私を連れて行かれた侍女と家妓も怒られないでしょう。
「明るい内に帰してくださいますか?」
「前は固まっていたのに、ずいぶんと手慣れたな」
「こうも何度となく同じ経験をすれば、納得はできませんが慣れはします」
お正月から何度目だったかしら?
寝たきりだったせいで小柄な私は、顔色もいいとは言えないせいで歩かせることを大人がしないのよね。
寝込むことも少なくなったけれど、発育がよろしくないことはまだ改善できていない。
「それと、先日夕方まで夏侯のおじいさまに連れられ屋敷を留守にしました。それで父と共に母に叱られてしまいましたので」
「…………家に連れ帰られなかっただけましだろう」
「そこは父が止めました」
さすがに付き合いが長いため、夏侯の祖父の行動がわかっているらしい。
夏侯の祖父は、私をご自身の家に連れ帰ろうとなさって、それを父が阻止している。
その前にも子建叔父さまに泊まるよう言われたけれど、それも父が色々と言葉を尽くして阻止していた。
だいぶ疲れていたのに、翌日には母に怒られ、その後は丁家に逃げられるという。
父もけっこう大変な星の元に生まれている気がしてきたわ。
「…………仲達さま、お久しぶりです」
「何故また長姫を連れて、いや、その前に夏侯家に人を…………」
前にも同じことがあって、私は子桓叔父さまに抱えられて司馬家にやって来た。
仲達さまも以前と同じように我が家へ連絡を走らせるようだ。
そして子桓叔父さまも同じく、我が物顔で室内に向かう。
「大哥…………」
室内に入る前、様子を見に来たらしい大哥が見えた。
またかって顔をされてしまったわ。
きっと後から仲達さまに呼ばれて挨拶に来るのでしょうけれど、全く無関係ではないと言いたい、いえ、言っていいのではないかしら?
「子桓叔父さま、分散侵攻についてお聞きになりたいのですよね?」
「そうだな」
「でしたら、話は大哥も。そのことで話し合った一人ですもの」
「ふむ、それも面白そうだ」
仲達さまがいない内に、大哥の同席を即決してしまう。
しかも理由が面白そうって、いいのかしら?
いえ、私をこうして連れて来てるのもたぶん面白いからよね。
話を聞くこともあるでしょうけれど、自分の中で答えを出している上で聞いてくる。
そのあたり、子建叔父さまも一緒で、やっぱりけっこう似ている兄弟だと思う。
「大哥、来い」
「…………!? は、はい」
一言命じて、子桓叔父さまは室内に入り、返事を聞いてない。
命令し慣れているからこそ、従うことが当たり前で、返事を確認する必要性を感じていないのでしょう。
こういうところが、似ているのに子建叔父さまほどの物腰の柔らかさを感じさせない一因かもしれない。
そして子桓叔父さまを止められる仲達さまは、人を呼んでいて止められない位置にいる。
返事をしなくてはいけなかった大哥は、諦めた様子でこちらへやって来た。
「御前失礼いたします」
「楽にしろ。長姫もそう構えるな」
「いえ、それは以前のことを考えると無理かと」
「前例に縛られていては大成できぬぞ」
「経験が少ないもので、前例に倣うことから始めなければ右も左もわかりませんから」
普通に話してるんだけど、何故か大哥が私に驚いたような目を向ける。
けれど子桓叔父さまの前だからかすぐ表情を繕った。
これはあれかしら、ちょっと最近こんなことが多すぎて、慣れ?
きつい物言いや、裏を読めば深掘りしてしまいそうな言葉を受け流してしまう。
もしこれが、慣らされているのだとしたら少し怖いわ。
私もお正月、曹家の祖父の家で聞いたようなずけずけと交わす言葉を発してしまうのかしら?
そんなことになったら、父が余計に口数を少なくしてしまいそうだわ。
「それで、何故また長姫をお連れに?」
連絡を終えてやって来た仲達さまは、大哥の姿に目を向けるけど、子桓叔父さまを見て納得した様子で話を進めた。
「夏侯のおじと子林と一緒に子建の所へ行ったそうでな」
「それは聞き及んでおりますが」
「その後、姉上と長姫が丁家を訪れている」
「それは…………」
知らなかったらしい仲達さまに、子桓叔父さまは満足げに頷く。
逆に何故把握されているのかしら?
あれは完全に突発的な行動だったのに。
いえ、政治的に競う相手の家ですもの。
仲達さまが把握していないほうがおかしいと思うべきね。
もしかして、春からこちら正礼どのが大人しかったから手を緩めていた?
「今度は何をした、長姫?」
「何もしておりませんと言ったところで、信じてはいただけないのでしょう? 夏侯のおじいさまから何かお聞きに? 私はほぼ聞くだけでしたので」
子桓叔父さまが私と母の行動を知ったのは、子建叔父さまや正礼どのからではない。
父も丁家のことは怖くて聞けていないようだし。
そうなると知っていそうで情報が集まりそうな人は、夏侯の祖父くらいだ。
子桓叔父さまは仲達さまを見て、静かに控えてる大哥を見る。
大哥は話の筋が見えないながら、聞こえる情報を整理しようと考え込んでいるようだ。
「丁正礼が動いて、子建を父の元へ向かわせた」
「まぁ、そうですか」
名より得を取ることにしたようだ。
つまりは独自の成果としてより、関羽を討つという曹魏全体の有利を選んだ結果。
そこに寄与するという一番手柄とは言えないけれど、成功させることで確かな存在感を刻むことを選んだのだろう。
(でも待って。ちょっと、これは困ることにならない?)
私は今さら不安に駆られた。
思えば怒涛の二日だったから、疲れで思考が麻痺していた。
状況に流され、冷静に考えられず、また余計なことを言ってしまったかもしれない。
このままでは、東の海の向こうの知識と相当な違いが生まれてしまいそうだ。
「驚かないわけではないが、ふむ…………」
「何やら動揺している様子はありますね」
子桓叔父さまと仲達さまが、いつの間にか私を見据えていた。
そんなに観察しないでほしいけれど、言われた内容は合っている。
二人の声に大哥も私に何をしたのか聞きたそうに見ていた。
「…………私は、子建叔父さまがお怪我をなさらないかと心配で、それを父上と夏侯のおじいさまが汲んでくださったのです。ですから、曹家のおじいさまは、何をなさるおつもりか全くぞんじあげません」
事実だけど、ちょっと思いつくことはあるにはある。
曹家の祖父は江夏での分散侵攻を考えていた。
そちらを突いて何をしようとしていたのか、思えば曹家の祖父にもそちらを狙う利点が何かしらあったはずだ。
ましてや子建叔父さまは可愛がっている息子。
冷遇のためだけに向かわせるはずもない。
「何か思いついたか?」
子桓叔父さまは私と大哥も見る。
大哥は聞きながらも口を挟むことはしない。
私と違って子建叔父さまや、正礼どののことも知らないからということもあるでしょう。
「…………曹家のおじいさまであれば、子建叔父さまの策に乗ることもやぶさかではないのかと」
「私もまだどういう話になったかは知らん。だが、子建に筆を取らせると言ったことは漏れ聞いた」
「筆? 詩文でも?」
「ふ、まさか。宣戦布告をさせるのだろう」
「え、関羽に?」
「ほう、関羽が狙いか。なるほど」
私は口を押さえるけれど、子桓叔父さまはちょっと驚く様子から、たぶん別のことを想定していたらしい。
これはもう、やってしまったわ。
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