七十六話:母の伝手
突然の分散侵攻でも、子建叔父さまに策はあった。
本気で攻める様子を見せるために数が必要で、その上で籠城戦を最初から想定しているという。
そして釣るのは、のちの世に神格化さえされる猛将関羽。
さらには関羽を餌に魯粛を釣りだすことで、濡須口の主戦場にも影響を与えようと画策していた。
「なるほど、それであれば確かに大都督は動くことも考えるでしょう。けれど忘れてはならないのは融和を基本として今まで動いて来た人物であることです」
「はい、そう、ですね…………」
とつとつと語る母に、父は悄然として返事をする。
子建叔父さまの屋敷に突撃した翌日、私は父と共に母の前に正座させられていた。
理由はもちろん、昨日勝手に外出したこと。
当日は夕方に戻り、夏侯の祖父も一緒だったため母も自重してくれたのだけど。
翌日改めてお叱りを受け、経緯を話す内に子建叔父さまに聞いた策も話すことになっている。
「確かに荊州を争う動きはあります。けれど父が荊州に入ったことで、孫呉の大都督は融和を選び関羽と荊州を分け合っています。子建が言うようにすぐさま関羽の背中を刺すとも思えません」
母曰く、荊州の分け方からして、関羽は曹魏への盾扱いであり、自ら盾を壊すことはしないだろうと言う。
「そうかな? 孫呉側は先年の諍いで、劉備は義を欠いたと言うほどに怒ったとも聞こえている。子建さまが予想するとおりもはや信義はないのでは?」
父としては後ろから刺すという子建叔父さまの推測に頷くところがあるようだ。
けれど母は納得しない。
「そもそも子建の狙いは濡須口から将兵を減らすこと。であれば、確かに関羽とことを構えるにあたって実績のある者を大都督は呼び寄せるでしょう」
「呂子明、という方ですか?」
「ありえます」
私が思いついたまま聞くと、母は頷いてくれる。
父も全くないとは言えない様子だ。
曹家の祖父を迎え撃つにあたって主将に据えられる人物、そんな人を引き抜かなければならいと思うほどの相手が関羽ということらしい。
「ですが、今までの大都督のやり方からして、後ろから刺すような真似はしないでしょう。敵を欺くことはあっても、味方を裏切ったことはないはずです」
「う、そう言えば、聞いたことがないかも…………」
「ですが、隔意があるのでしょう? であれば隙を見て魔がさすこともあるのでは?」
押される父を横目に、私は母に可能性を確認する。
「宝児、子林のお父上をごらんなさい。何ごとも向き不向きがあります。できる者にはできることも、できない者には決してできないのです。裏切りはその類なのですよ」
確かに夏侯の祖父は、子建叔父さまに手を貸しても、それで曹家の祖父の決定に異を唱えるなんてことは考えないと思う。
関羽に思うところがあっても、曹家の祖父の制止を振り切ることもしない。
きっとそれはしない上で、できないことであり、そういう性格の人なのだ。
「魯粛という方も、裏切りはできない人物だと?」
「そうだと思います。その上で、子建は父と同じ轍を踏むのではないかしら」
「同じ轍? …………裏切り、できない、三つ巴の、あ、連環の計?」
赤壁の戦いで黄蓋という老臣が、裏切りを装って曹家の祖父を襲った。
平素であれば裏切るような人物ではないため、孫呉はあえて黄蓋を辱めて裏切る動機を演出をしたとか。
それでも曹家の祖父の側からは、やはり裏切るはずもないのではないかと疑いの声が上がるような人物らしい。
実際、策であり裏切りはなかったものの、裏切りもやむなしと思える状況を作られ、黄蓋は単身敵地に乗り込んで、大打撃をもたらした。
「魯粛も同じように、関羽を裏切ったふりをするのでしょうか?」
「劉蜀と手を切ったと見せかけて、子建が油断している隙に関羽と合わせて城を破る。それをされては、子建の命も危ういでしょうね」
母は真剣にその可能性を疑うらしい。
存在を思い出して父を見るとぽかんとしていた。
「父上? どうされました?」
「あ、いや…………そんなに軍事について語るのは、初めて見たから」
途端に母は赤面し、袖を上げて顔を隠す。
「はしたないと呆れているのでしょう!?」
「そ、そんなことは…………」
「いいえ、軍事を訳知り顔で語るなど恥ずべきことです!」
「いや、今のは随分賢明な意見だとおも…………」
「慰めなどけっこうです。心にもないことを言わないでください!」
「え、え? な、慰めではなく…………」
「前にもこうしたことを漏らした時には呆れて何も言わずにいたではありませんか!」
「いや、私は真剣な君の横顔に見惚れたけ、れど…………あ」
今度は父が真っ赤になる。
そして両親ともに顔を背けて固まってしまった。
(…………あの、私ここにいないといけませんか?)
室内に控えている者に目を向けてみるけれど、みんな困っている。
その上で何かしようとそわそわしているようだ。
その上で私に声をかけろと言わんばかりに目で合図をする者もいる。
あのような動きは、東の海の向こうの知識でジェスチャーと言うらしい。
いえ、今はそんなことどうでもいいわね。
「…………父上、母上、あの、お話は、もう?」
やめようか、そういう雰囲気でもないし。
その上でこの居た堪れない空間から引き上げられれば良し。
そう思ったけれど、母が袖を降ろして私を見据える。
「ほ、宝児の心配を解消しなければいけないわ!」
「母上?」
母は喉を引きつらせながら宣言した。
そして素早く私を抱え上げる。
「え、え?」
父はついて行けずに正座したまま。
抱える母も、私を見あげる父もどちらも顔は赤いまま。
「すぐに駕籠の用意を。出かけます」
「ど、何処にですか?」
というか前にも、いえ、昨日くらいに同じことをされたのですけれど?
夏侯の祖父に抱えられて、その時には表へと連れて行かれた。
けれど今日の母は奥へと向かう。
「まずは着替えを。その間に相手方に先触れをします。その間に駕籠も用意なさい」
早口に指示を出す母を誰も止められない。
そして使用人たちは倣い性で動きだす。
ただ一人置いて行かれるのは、この屋敷の主であるはずの父だ。
いえ、私も現状について行けてはいないけれど、連れて行かれているから。
「あの、それで母上? いったい何処へ逃げているのですか?」
「に、逃げてなどいません。伝手、そう、伝手を頼ろうとしているのですよ」
私は小柄であるため、同じ駕籠で母と共に外出することになった。
そして辿り着いた行先は、なんと丁家。
「私も突然のことでよく事態を把握していないんだが。いったいどういうことだね?」
迎えてくれたのは屋敷の主、丁正礼。
母の養母丁氏の血縁者で、幼い頃母に惚れこみ、今も思っていた人だけれど、すでに振られている。
以来、応援していた弟の丁敬礼と共に気落ちしていると聞いた。
子建叔父さまの政治的支柱で、この人の動きが鈍ったことで継承者争いに水を差すことにもなっている。
継承争いが上手くいかない様子になったことは、今回子建叔父さまが戦場に出ようと前向きになってしまった一端でもある。
「父に見惚れていたと言われて照れてしまったのです」
「宝児、関係のないことを言わないの!」
慌てる母はまた頬に赤みが差している。
それを見て正礼どのは情けなく眉を下げた。
「わ、私は、あまりに宝児が子建のことを心配するものですから? その、より話が聞けるだろう伝手を頼って、ですね?」
「先日、河南尹が長姫を連れて直接話したと聞いているが?」
「う…………」
普段強気な母が、モジモジし始める。
そして頬を染めたまま正礼どのを上目に見つめた。
「少しくらい、話を合わせてちょうだい、正礼」
「う、うむ。何が聞きたい?」
正礼どの、けっこう…………。
いえ、初恋をこじらせていた方だものね。
母に強請られては、次代の政権争いを担う能吏も形なしなのでしょう。
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