七十四話:のちの大都督
夏侯の祖父を呼んでお話を聞いたけれど、ご本人曰く計略に強くはないとのこと。
その上で曹家の祖父には近いので、全く知らないわけでもないため、有益なお話は聞けた。
それというのも、そもそも私は計略に強くない夏侯の祖父以上に、そうした物ごとを知らないのだから。
「呉の軍事においては、大都督という方がいらっしゃるのですよね? 今はどなたなのですか?」
都督が軍政を司る者で、つまりは政治方面で軍を動かす方ということになる。
「魯粛だな。孫呉の中でも好戦的なやつだ。その上で計略を好む」
「大都督は孫呉特有の地位で、長江流域の軍権を持っている者と思えばいい」
祖父と父に言われて、私は東の海の向こうの知識を探る。
三年後に起こる、江夏周辺での戦いに魯粛という名前はない。
どうやら来年には亡くなる方のようだ。
そうであるなら警戒する必要はないのかしら?
「江夏に兵を構えて出て来るなら、まず魯粛だろうな」
夏侯の祖父は、私が除外しようとした者の名を挙げた。
来年には亡くなる方なのに、元気に戦争に出て来られるの?
「何故ですか?」
「あいつは関羽に隔意がある」
全く想定外の答えに、私は東の海の向こうの知識を探る。
すぐに出て来るのは赤壁の戦いであり、魯粛という方はずいぶんと活躍したようだ。
魯粛、字は子敬といい、四十代半ばの今、来年に亡くなると知っていなければ確かに戦場に出ていておかしくないお年。
この方は祖父が言うように計略を好み、その上で曹家の祖父が劉備を追った際、いち早く迎え入れる準備をした先見の明を持つ。
さらに劉備旗下の軍師、諸葛亮と友誼を結んだとか。
「えぇと、諸葛亮という方と仲が良かったはずでは?」
「赤壁まではそうだね。孫権と劉備の同盟関係を成り立たせた立役者とも言える」
父が赤壁までと言うなら、変化はその後にあったのでしょう。
それを手がかりに探れば、該当する歴史があった。
赤壁後、曹家の祖父が退いたことで、呉は長江以南を掌中に収め、さらに勢いづいて江夏のある荊州も取りに動いた。
それも上手くいくと、今度は西の益州に欲を出したという。
そこで劉備は益州のある蜀の地を得ようと画策していたため対立が起き、五、六年前からは荊州さえも取り合って争うようになっている。
そしてその荊州の守りとして劉蜀から任されている者が、猛将関羽。
蜀の地を治める劉備とは義兄弟の契りを交わしたほど信頼された重要人物だ。
「去年は確か、関羽と停戦協議の席において強硬姿勢で挑んだと聞くな」
夏侯の祖父が口にする言葉を元に探ると、確かに荊州の停戦協議において、融和的だった魯粛が面罵するような状況に陥ったとある。
結果、荊州北は曹魏が取り、三竦みとなって呉と蜀は和解策を講じて荊州をわけ合った。
曹魏に近い北から西を劉蜀、西を睨みつつ赤壁以南を孫呉がとる形だ。
荊州は今、そういう配分になっているらしい。
「つまり、対劉蜀を担当する方ですか? それに、江夏に兵を進めると、蜀が出て来るのでは?」
ようやく理解した私の反応に夏侯の祖父は顎を撫でる。
「いや、魯粛は常に孟徳との戦いを想定して備えてる奴だ。だからこそ借地を返さない盗人同然の劉蜀とも手を結ぶ。あぁ、そうか。その辺りはもちろん、地理もまだよくわかってなかったのか」
「それはそうですよ。許昌を出たこともないのですから」
父は当たり前に言うと、夏侯の祖父も頷いた。
「本当に江夏などと言ったのは思いつきだったのだな。だが、孟徳はそれも入れてしまった。ちょうど良いと思ったんだろう」
「何が良いのでしょう? やはり子建叔父さまは危険なのでは?」
江夏は荊州を別つ長江に最も近い位置にある。
その上でそこを睨む関羽がいて、さらに関羽越しに睨む魯粛が控えている場所だ。
そこに突発的に軍を催した子建叔父さまが向かうなんて、不安しかない。
私が考え込みそうになると、武骨な手で撫でられる。
「これで手柄でもあげられれば、子建が優位に立つ。それがわかっていれば子桓も動く。動かなければ、痛い目を見ることだろうな」
「そんな…………」
内側の問題をあえて焚きつけているようにしか聞こえない。
不安で見上げると、夏侯の祖父は独眼でまっすぐ前を見ていた。
「この程度、ぬるい。その上で泣き言をいうならば、この先覇を唱えるには力不足よ」
「穏便には済ませられないのですか?」
何故自ら怪我を負うことをさせるのか、私にはわからない。
「今ならまだ、失敗をしても挽回が効く。尻拭いができる。致命的な傷にはならないからな」
「それは…………」
転ばぬ先の杖という言葉が頭に浮かんだ。
けれど夏侯の祖父が言うことは、転んでこそ起き上がり方を学べると言ったところ。
また、老いを感じるからこそ、祖父たちは後の世代を試しているのもわかる。
そしてその懸念は当たっているからこそ、私は何も言えない。
「お前が気にかけることではない」
夏侯の祖父はばっさり言い切った。
政治にも関わるのでそのとおりだけれど、それでも私はこの先を知っているからこそ考えずにはいられない。
俯く私に父が声をかけて来た。
「江夏に兵を進める動きがあれば劉蜀が無視しない。すると、魯粛も無視はできない。少なくとも敵の手駒一つを確実に釘づけにできるんだ」
「ですが、元から関羽を睨んでいたなら、大都督が動く予定もなかったのでは?」
私の問いに父は困る。
子建叔父さまは誰かを釣ると言っていたし、孫権なら当たりだとも。
けれどそれはありえない。
だったら誰を狙っている?
そう考えた時、大都督という言葉から浮かぶ人名があった。
「…………呂、子明」
「あやつか」
夏侯の祖父が警戒を滲ませて呟く。
知っている方?
私としては未来の知識で今どうしているかなんて知らない。
大都督である魯粛死後、跡を継ぐのが呂蒙こと、呂子明だ。
つまり、次代の大都督であり、今は高位ではないはずの者。
「赤壁に荊州。あれがまた出るとなると面倒だな。確かに子建のほうに釣られてくれれば戦況に影響するかもしれん」
言われて知識を探ると、すでに功績を上げている将軍であることがわかる。
勇猛に戦い策を巡らせることも得意で、また濡須口の戦いでも土手を築いて防御の壁と足場となし、曹家の祖父の侵攻を邪魔した献策においても実績があった。
魯粛と組んで荊州の攻防にも参加しており、すでに将来の実績を作っているようだ。
(私は未来で大都督になることを知っている。けれどすでに今、功績を挙げた著名人だったのね。だったら、濡須口にも出て来る?)
探れば、やはり今後起こる戦いで指揮を任される主将の一人に呂蒙の名前があった。
この時も以前に献策して作らせた土手が防御の要となって進行を防いでいるようだ。
「どうでしょう? 魯粛がいるからには呂子明は様子見では? それよりも目の前の丞相閣下から目を離さないのではないでしょうか」
父の言葉に夏侯の祖父も頷く。
「確かに濡須口から外す将兵ではない。となると、子建が誰狙いかによるな」
「孫権なら当たりとおっしゃっていましたが」
「だからそれは無理だよ、宝児」
「でしょうね…………」
私の答えに父は頷く。
のちの大都督である呂子明を主戦場から離すことができるなら、それはそれで当たりではあると思うけれど。
孫権も無理、呂子明も無理となると、まさか本当に現状無名でしかないさらに先の大都督ではないでしょうし。
私と父が首を捻っていると、夏侯の祖父は一つ膝を打った。
「よし、考えてもわからん。どうにかしたいというなら聞け」
「はい?」
突然そんなことを言った夏侯の祖父は、私を抱えたまま立ち上がる。
何をするのかと思っていると、ずんずん歩いて正房を出た。
「え? おじいさま? あ、段差がございますのでお気を付けを」
「うむ」
私を抱えて回廊を進む夏侯の祖父を、慌てて父が追い駆けて来る。
「え? 父上、お帰りで? いや、あの、宝児を返してください」
「いや、借りて行く」
「はい?」
私は夏侯の祖父の後ろに父と目を見つめ合ったけれど、どちらも意図が知れない。
そうしてされるままになっていると、夏侯の祖父は家の門を外へと出た。
「ちょ、待って、待ってください! 私が出るから、ともかく騒がず!」
一番慌てている父が、家の者たちに指示を出して追いすがる。
私はずんずん進む夏侯の祖父に抱えられたまま、なんだか前にもこんなことがあったと逃避。
慌てて追ってくる父を眺めながら、諦めの境地に達していた。
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