七十話:家妓の教え
南征中、両親から距離を取ってほしいという話をされた。
理由は、わからなくもないので私が了承すると、侍女は安心した様子だった。
見守るようにしていた家妓が、壁際から寄ってくる。
「長姫は説明すれば納得されると言ったでしょう」
「いえ、ですが、このような話はまだ早いかと…………。それに下の子が生まれるのを嫌がるとも聞きますし」
「あら、そうなの? 夏侯家ではそんな話聞いたことがなかったわ。誰かそういう人がいたのかしら?」
私が興味を持つと、途端に侍女が慌てた。
「違います、私の家の話ですので。下の子が生まれると上の子が突然聞かん気になったり、甘えたりで手を焼いたと、母が」
「あぁ、それは聞きますね」
家妓は納得するけれど、私は知らない話だ。
思い浮かぶ一番身近な兄弟と言えば、夏侯家の大兄と小妹だけれど。
一緒にお見舞いに来てくれるし、喧嘩をしているところも見たことはない。
仲良しと言うほどではないけれど、決して悪くない兄弟仲だと思う。
だから小妹が生まれて我儘になる大兄というものを想像できなかった。
それで言えば司馬家の大哥と小小のほうが見るからに仲良しね。
小小が懐いて、大哥は特に嫌がる様子もなく相手をしているもの。
「そうか、子供が私以外にいることになるかもしれないのね」
私の呟きに侍女と家妓が息を飲む。
「あ、供寝の意味をわかっていらっしゃらなかった?」
「わかっているから今のお言葉でしょうけれど、まぁ、どう説明をしましょうか?」
「だ、大丈夫。わかってる、わかってるわ。ちょっと、実感がなかっただけで」
なんだか三人でおろおろしてしまった。
一番立ち直りが早かったのは家妓だ。
「では、南征に際しても実感はないでしょう。何かご不明な点はありますか?」
「えっと?」
「これでもわたくし許昌へ至る前に転々と居を移しておりました。洛陽から焼け出された経験もございますので、少々旅慣れております」
「え、そうなの? 洛陽から…………」
「まぁ、大変だったでしょう? 私などは親の伝手で近くから来ただけですから、きっと長姫のためになるお話を聞けますね」
侍女も知らなかったらしく、前向きに応じる。
ただ思えばこの家妓、年齢不詳で二十代後半にも見える。
けれどよくよく見れば四十代に入っている気もする見た目をしていた。
洛陽からの焼け出しと言えば、今から二十年以上前に董卓という人が行った悪政。
その時を覚えているなら最低三十ではない?
…………見えないわ。
「何か?」
笑顔の圧をかけられ、私も侍女も目を見交わすけれどどちらも実年齢なんて聞けない。
ともかく話を逸らしてくれる意図はわかったのでありがたく乗りましょう。
「えっと、では、うーん、船で移動するのでしょう? そういう時に気を付けるべき…………敵からの攻撃?」
「何故襲われる前提なのです?」
「移動だけでは、いえ、備えは必要かしら?」
侍女からは呆れた表情を返されるけれど、家妓は思案してくれる。
というか、あり得るのかしら?
そんな家妓に侍女は首を横に振ってみせた。
「さすがに軍と同行ではおいそれと襲う者はおりませんよ」
「けれど船は別ではないかしら。それに南には江賊と呼ばれる船を使う悪漢もいるでしょう」
山にいるから山賊で、長江にいるから江賊?
そんなのいるのね、家妓は物知りだわ。
ただ私たちはそこまで南下しないけれど、そう言えば水路としては通じているのよね。
否定しきれない私たちは、顔を見合わせた。
「一応、有名どころをばお話いたしましょう」
話を振った側の家妓がそう答えた。
そして語るのは赤壁の戦い。
知識にもあって、私は浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「確か、連環の計というものを仕かけられて、おじいさまが困ってしまったとか?」
「まぁ、長姫もごぞんじでしたか」
「なんですか?」
知っているらしい家妓に対して、侍女は知らないようだ。
土地も離れているし、たぶん知らない侍女が普通よね。
「船を鎖でつないで、逃げられなくする、計略?」
「結果的にはそうです。ですが連環の計における要点は、全てが和となって結果に繋がることですわ」
家妓はまるで秘密を語るように声を潜める。
そして指先で丸を描いて見せた。
「覚えておいて損はありませんよ。自ら攻めることが将兵の誉れ。ですがそれは壮健な男性だからこそ。ですが計略であれば女であっても敵を倒すことができるのです」
ひそやかに語るその雰囲気に、私も侍女も息をひそめてしまう。
「よろしいですか、連環の計は自らが動くのではなく、他を動かす計略。力足らずであることを自認した上で、幾つもの策を連ねて結果に繋げることが肝要なのです」
それで言えば赤壁で連環の計を仕掛けた孫呉側の望む結果は、火責めだったという。
それによって正面からでは敵わない大船団を減らそうとしたそうだ。
そのためにまず船を火から逃げられないよう、鎖で繋ぐ内通者を仕掛けた。
そして足場を安定させるためと唆して船同士を鎖で繋ぐ。
これで燃える船から離れられず火は広がる一方になった。
「その他にも老臣を辱め、虚偽の情報を流すのです。そこからさらに老臣が離反すると信じ込ませる。離反のためと接近を許し、そうして火付けの機会を得たのも計略の内です。こうして望む結果を繋げられ、連環の計が完遂されました」
敵の動きを並べられれば、確かに一連の計略のつらなり。
それらを総じて連環の計というらしい。
「けれど女性では、まず戦場にも立てませんよ?」
侍女は計略ならば女性でもできると言った家妓に首を傾げる。
ただ私には、かつて女性が行った連環の計の知識があった。
「確か、董卓という昔の悪い人を倒すために使われたのも、連環の計ではなかった?」
「まぁ、本当に長姫はよくごぞんじで」
家妓は微笑むと、一度遠い目をした。
その横顔は、懐かしむような、苦しむようなそんな色合い。
出てきた知識では、董卓の死後都はひどく荒廃したそうだ。
洛陽から焼きだされて着の身着のまま移住させられた住人は、生活を立て直すことが難しかったという。
そこに我欲に走る董卓配下の者たちのさらなる悪政。
そのため長安に住まう者は皇帝でさえ困窮するありさまだったとか。
「辛いことなら話さずともいいわ。長安は酷い様子だったとは聞いているもの」
気遣う私に家妓は驚いたように目を向けた。
けれどすぐにいつもの様子で微笑む。
「いいえ、辛くはありますが、もはや過ぎ去った日々。天の助けで今日こうして生きていられるのですから。わたくしをお雇いくださる方の大切な長姫のために惜しむ言葉などありません」
家妓は董卓を亡き者にするために行われた連環の計を語り始めた。
「まず董卓に近づくため、美女が用意されました。狙いどおり色に溺れたところを、その美女がさらに董卓に親しい者を篭絡。色を仕掛けて内紛を招き、うちの争いによって強敵を倒す。それが長安で行われた連環の計です」
家妓は蠱惑的に微笑んで、私たちに囁いてみせる。
「最後に、董卓を殺さなければ殺されると美女は泣きました。そう吹き込まれた猛将を使い、美女はどんな精強な兵にもできなかった董卓の殺害を成し遂げたのです」
「確かにその美女がいなければ決してなしえない計略ですね」
侍女は、連環の計が女もできることに納得したようだ。
家妓は笑って私に付け足す。
「ですが、少々これは長姫には早すぎるかもしれません。計略にも使うべき時と場がござますもの。あと十年はその時は訪れないでしょう」
「あ、そうです。駄目ですよ、長姫」
侍女も遅れて、私に色仕掛けをしないよう言い募る。
「そうね、私にはまだ難しいわ。それよりもおじいさま方に直接お願いしたほうが早いもの」
「そうですね、今度からはきちんと結果を理解してのほうがよろしいわ」
「あ、はい」
なんだか家妓には見透かされてる気がする。
その上で、私は連環の計を考えてみた。
自分一人では倒せない強敵を、他の力を利用して倒す方法。
それなら私にもできるかも知れないなんて、そう思うのはまだ早いかしら?
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