七話:祖父馬鹿
名は呂布、字は奉先。
後世でも一騎当千の代名詞とされる武将だ。
そして夏侯の祖父はその呂布との戦いにおいて流れ矢により左目を失くす。
(夏侯家で妙才さまと並んでいたから盲夏侯とあだなされたのを嫌がったとか)
そっと見上げると、すでに夏侯の祖父のこめかみには青筋が浮いている。
妙才さまの言葉を訂正したのも忘れるに忘れられない屈辱のためなのだろう。
正直怖い…………けれど私はここで退くわけにはいかない。
(怒ってたのは私が先なんですから!)
二十年前に消えない傷を受けた。
その前には呂布に捕虜にされたこともあるのだとか。
もっと言えばその後も諸葛孔明に罠に嵌められていたりして、あら、なんだかいいところがないわ。
けれどそう思えばさすがは私の父の父と言えなくもない。
「三十の頃には数々の負けを経験されたのでしょう? けれどおじいさまは今や河南尹。どうして私の父が今のまま終わると嘆かれるのです」
夏侯の祖父の独眼が私を見る。
「戦にお金は不要ですか? そのようなはずがありません。音に聞く官途の戦いにおいて、戦線の将兵が奮闘されるのを支えたのは許昌におられる方々が物資の補給を途絶えさせなかったためと聞いております」
戦争にお金がかかるのは人間の歴史ではこの先も続いて行く問題だ。
ただこの土地の思想、通念において商売というものは不実な職業とされている。
(物々交換はそのまま実物だけど、お金は価値の代替。そこに実はないって言われればそうだけど、だから不実だなんて。それに貨幣があるんだから別に違法なことしてるわけでもないのに)
東の海の向こうの国の知識を手に入れたせいか、私に商売に対する忌避感はない。
後には経済という新語が生まれて世界は経済によって回ることになり、その経済を動かすのは商取引であり、商売だ。
今の私には商売を不実と下に見る考えは不当に思えた。
(それに、どうして他人に養われるような人物こそ大成するなんて俗説があるのかしら。そちらのほうが不実そうなのに)
自分で苦労するよりも、人物を評価されて他人からお金を貰い生活を養ってもらうほうが評価される風潮が納得できない。
後の言葉で言えばパトロン、後見、出資者などあるので否定するほどのことではないのかもしれないけれど。
大成する人物には常とは違う部分があり、そうした人物は世に出る前から特別扱いをされるという考えだ。
あとは中華という世界の中心には全てが集まるという思想が問題かもしれない。
自分であくせく集めるのではなく、自然と集まって来る。
それが徳だという。
(けれど実際曹家のおじいさまも他人に頼って大成したのよね)
後の時代に三国志の英雄として知られる三人の君主には、それぞれ出資者がいた。
曹操には鮑信、劉備には劉表、孫権には母方の親戚である呉氏。
そうした人たちに生活の面倒を見てもらった末に大成した成功例だ。
(だからって父上がお金を稼ぐことが恥ずかしいだなんて、おじいさまが言うことないじゃない)
身内からの言葉だからこそ、私は納得できず夏侯の祖父を見上げた。
「今の貯えが将来の有事において有益に使われるはずです。そのための備えをしていることをみっともないとはあまりに偏狭です」
必死の訴えだけれど、夏侯の祖父は何故か私から目を逸らして妙才さまを見た。
「何故長姫は怒っているんだ?」
「いや、元譲が悪いって」
妙才さまに聞く夏侯の祖父は本当にわかっていない様子でがっかりしてしまう。
そんな私をまた見下ろして、夏侯の祖父は首を傾げた。
「解せぬ」
そんな言葉に妙才さまが笑い出す。
「なはは。長姫、元譲は察し悪いからはっきり言わないと通じないぞ」
なるほど、では子供の特権として言わせてもらいます。
「父上を悪く言うおじいさまは嫌いです」
「…………は?」
「だぁははは!? はっきりって言ったけど! そこか!?」
夏侯の祖父は絶句し、妙才さまはお腹を抱えて笑う。
なぜかしら?
はっきり言っても通じてないわ。
やっぱり説明しないといけないみたい。
「父を目の前で恥ずかしい、情けないと言われてどうして子が黙っていられるでしょう。私は夏侯子林の娘です」
「それを言うなら俺は子林の父なんだが」
言って夏侯の祖父が私を持ち上げる。
正面から独眼を突きつけられるのは怖い。
もう少しご自身の人相の悪さを、いえ、思えばあまり笑わない。
それがまず子供を相手にするには不向きなのではないかしら?
これはちょっと、私を渡さなかった曹家の祖父が泣かないよう気遣ってくれた疑惑が出て来るわ。
「…………なんで俺の血筋でこんなに賢い子が生まれるんだ?」
「ぶっほぉ!?」
妙才さまが笑いすぎてむせた。
そして夏侯の祖父が変なこと言い出した。
「元譲が、馬鹿だぁ、あはははは!」
「うるさいぞ、妙才」
何故か私はそのまま夏侯の祖父の膝に乗せられる。
そう言えば曹家の祖父と私を取り合ってて結局抱かないままだった。
睨むように見てたの、抱く機会を計ってたとか?
(つまり…………私の怒り通じてない…………)
小さい子供が怒っても、厳しい戦場を知る夏侯の祖父にとってはどこ吹く風。
頭を撫でられるけど、そんなことじゃ機嫌は直りませんよぉだ。
「いやぁ、いいなぁ。俺も娘にこんな健気に庇われてみたい」
妙才さまがすごく楽しそうに言って、夏侯の祖父が手をどけた後私を撫でる。
こちらも私の怒りなんてまったく気にしてはいなかった。
「そんなにお金を稼ぐことは悪いことなのですか? あって困るものでもないでしょう。もし私が死んだ時、お葬式代だって馬鹿にならないのに」
「おい」
低い声にびっくりして夏侯の祖父を見上げると、私じゃなく違う方向を睨んでいる。
見れば父が視線の先にいた。
呼ばれたとみて、父は慌てて側にやってくる。
「お前はこの子の葬儀代を貯めるとでも言ったのか?」
「え!? 決してそのようなことは!」
どうやら私の発言を父のせいだと思ってしまったようだ。
「違います! 私が思っただけです!」
「自分の葬式代がかかるって?」
妙才さまも不審そうに聞いて来た。
「それくらいわかります。お呼びする方々を思えば当たり前です」
父方祖父は主要都市の長官である河南尹、母方祖父は国を宰領する丞相。
どちらの親類も相応の地位だし、さらに交流のある方や仕事の関係者と区切ってもやはり高位の者ばかり。
振る舞う飲食を賄い車代を出すだけでも下手な額は出せない顔ぶれだ。
私の言葉に一番情けない顔をしたのは父だった。
「わ、私は、決してお前の死を思っているわけではないんだよ? 生きてくれたほうが孝行だ」
「それは、はい。ごめんなさい。軽率なことを申しました」
父の表情に申し訳なくなる。
怒っていることが通じずに心無いことを言ってしまった。
私だって生きたい。
だからこそ両親の不仲を解決したいし、できれば親類には笑顔でいてほしい。
…………夏侯の祖父の笑顔、想像できないけど。
父を落ち込ませて私もしょんぼりすると、夏侯の祖父がまた私を目線に抱え上げる。
いい加減私をぬいぐるみか何かと思ってらっしゃるのかもしれなかった。
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