六十八話:覚えのない称賛
「どうしてこうなった?」
早朝仕事に出た父が、昼前に帰って来て悩ましげに呟いた。
基本業務は昼には終わる。
私の知る未来と違って、暗いと動けないから日の出からお仕事を始めているからだ。
活動できる時間が少ないので、お昼からも飲み会があったりもする。
(けれど今日はそういうご予定ではなかったはず)
随分疲れた様子で、室に入って腰を落ち着けてから、そのままがっくりと肩を落としてしまった。
仕事着から着替えるよう言おうとした母も、一度は開いた口を閉じる。
その間も父はどうしてとか、なんでとか、呟くばかりで要領を得ない。
私は意を決して声をかけることにした。
「父上、お加減が悪いのですか?」
「うん? 宝児か。いや、そうじゃなくて…………」
「だったらなんだというのです。だらしなくして、宝児が真似てはことです。しっかりなさってくださいます?」
私を理由に母がお叱りになる。
父に大丈夫なところ見せてほしい母はその分心配しているのでしょうけれど。
鈍い父では怒られたということしかわかっていない顔をしていますよ。
慌てて背筋を伸ばす父は、次に来るお叱りに身構えた。
その姿を見て、母も悪手であったことに気づいた様子で目が泳ぐ。
素直に心配だと言えば良かったと思っているのかもしれない。
「そ、それで? いったいどうしたというのです。突然そんな風になられては宝児が心配するではありませんか」
そこで自分もって言っていいのに。
いえ、心配の言葉を口に出せただけでもきっと進歩。
だって私を理由にでも、ここに留まって心配しているのですもの。
お二人が揃っていることさえ珍しいと思った記憶もあるし。
けれどこうして母の本心を隠す盾にされては困るわ。
いずれどうにかお二人で素直にお喋りしていただけるようにならないと。
「ほ、宝児?」
思わず母をじっと見つめてしまったことと、私を引き合いに出していた自覚のある母は動じる。
父を窺っても母の反応の意味を理解していない。
これは、まだもう少し私が間に入るべきね。
両親が仲良くなってほしいのは今も同じなのだから。
「父上、無理をしてほしいのではないのです。私も母上も、父上が健やかであればそれだけでうれしいのですから」
「そ、そうかい? 心配かけて、その、ごめん」
父は母を窺いつつ、心配されていることに気づいてくれた。
余計に赤くなる母に、父もつられて赤面しているけれど。
(やっぱり結婚は恋愛してからのほうがいいのではないかしら?)
お互いを知り合ってからという段階が必要だと、両親を見ていて思う。
今の婚姻手順で上手くいってる者も多いのでしょうけれど、我が家のように最終的にこじれすぎて死を望むほどになる家もあるのだし。
司馬家の大哥も同じような危険がある。
今もあまり良好ではない関係だ。
そして知識を探ると出て来るのは、仲達さまが奥さまを罵る言葉。
その奥さまもだいぶあれな知識が出て来るけれど、夫婦の不仲は子供にとって大問題よ。
「実は今日」
私が考えている内に父が話し始める。
聞けば、今日出仕した時から様子がおかしかったという。
いつもどおり出仕したら、賈文和に声かけられたのだとか。
「なんだかひどく褒められてね」
「あの方が? それは、どのように?」
母が警戒を露わにするのは、今は亡き伯父のことがあるからだろう。
いっそ不愉快そうな表情に、父のほうが焦る。
「普段から親しいわけでもないし。それに褒められたのは宝児のことで」
「宝児? 何故あの方が宝児に? いったいどんな話をしたのです?」
私の名前出た途端、母は父に迫った。
瞬きもせずに見すえられて、父は身を引くけど母は逃がさない。
そして私には、身に覚えがあります…………。
(褒めた? 私を? 父に? どうしてそんなことをしたのかしら)
父は言い訳のように言葉を絞り出す。
「ちょっとすれ違っただけで、それで声かけられるのも初めてで」
「それでどうして宝児なのです?」
「あの、先日曹丞相閣下の元に父が宝児をお連れした時に会ったと。それでとても聡明で、教育がいいって褒められて、わ、悪いことは言われてないんだ」
母に睨まれ父はさらに言いつくろうように訴える
「もちろん褒められたのは私じゃない。宝児自身の才覚だ。それに教育に熱心なのは君であって、決して私が褒められるようなことじゃないとも申し上げた」
父は言い訳に必死で母がもう睨んでいないことも気づかず続けた。
「先日なんか、我が家に集まった子たちと兵法の話をしていたことも話したし。あれは君が読み聞かせていただろう。それに宝児に教えるための詩を探して色々吟味もしていたし。だから私は違うと言ったんだ。素晴らしいのは君であって私では…………」
「も、もう、わかりましたわかりましたから、少し黙っていてくださいませんこと!」
強く言われて父は黙る。
母はようやく息がつけたように肩の力を抜いた。
なんだろう、これは、褒められたのって結局は母ではないの?
いえ、そんな野暮なことは言いませんけどね。
「ふぅ、それでどうしたあなたがあのようにおちこ…………落ち着きがなくなるのです?」
どうしてそこで落ち込んでいて心配になると言えないのかしら。
あら、よく見ると手は胸の前で握り込んでいるわ。
もしかして、まだ父に褒められたことに狼狽えている?
「あ、うん。それは始まりで、あの方はけっこう仁と、く…………えぇと、注目を、集める方だから」
父の褒めるような言葉に、母の機嫌は目に見えて悪くなる。
さすがに気づいて言い直す父曰く、どうも父を褒めている場面を見た者がいたそうだ。
それで普段親しくない者からも声をかけられる一日になったらしい。
賈文和に褒められたという噂が父の知らないところで回り、知り合いからも何があったと随分聞かれたとか。
「褒められたのは私じゃないのに、訂正し続けることになってね…………」
覚えのない称賛に辟易する父の姿に、なんだか申し訳ない気持ちが湧く。
「父上の所で宝児を褒めるような場面が合ったのは想像できます。それで聡明さをというのはまだいいでしょう。けれど、わざわざあなたを褒める? いったいどんな意図が?」
母は賈文和に良い印象がないせいか訝しむ。
保身のためにも話した内容をいうわけにもいかないし、なんて思っていたら父が悪気のない様子で口を開いた。
「そうそう、宝児の軍才はどうやって育てたのかと聞かれたよ」
「軍才? 宝児、あなたいったい何をしてきたのかしら?」
七歳の女児には似つかわしくない単語のせいで、母から疑いの目を向けられてしまう。
「…………いえ、先日集まって皆と話した様子を仲達さまがおじいさまにお話になったそうなのです。それに興味を持ったおじいさま方に、色々、その時の話を、聞かれまして」
軍才なんてない、違うと言いたいけれど私には覚えがある。
そして父も思い出して、賈文和に言われただろう言葉を母に伝えてしまった。
「あ、丞相閣下がお考えを変えたとか、宝児がずいぶん上手くやったと何やらお喜びだったよ」
「宝児? 何をお話したか、教えてくれますね?」
母の圧が私にかかる。
「血縁と言えど礼を失してはなりません。ましてや女子が軍のことになど口を出すものではないのですよ」
「い、いえ、私は、その、おじいさまのお話を聞いて、ですね」
「それはいつもだろう? 何か他に特別なことはなかったかい?」
父にまで促され、結局夏侯の祖父が指摘した曹家の祖父を煽るような一言を引き出されてしまった。
「「あぁ…………」」
「そんなつもりではなかったのです。みんなと話していたことをそのまま。だから私などでは及びもつかないことだと思ったものですから」
「それこそ父上が煽られる要因ですよ」
「今回三度目となれば、意気込みも強いだろうからね」
そんなつもりじゃなかったのに、やはり両親まで納得してしまったのだった。
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