六十七話:大人の都合
思わず口にした、満伯寧という方の参戦に、仲達さまも賈文和も前向きだった。
予想外な成り行きに私は現状どうすればいいかを考えるけれど、そもそも有効な手なんて早々思いつかない。
(そもそも、ここに連れて来られたこと自体が私の予想外なのに…………)
草餅を食べていたら、曹家の祖父が分散侵攻に前向きになってしまったなんて、冗談にしか聞こえない。
そもそもこれは私のせいかしら?
そう疑問を覚えるのだけれど、この場にいるお二人も私の発言がきっかけだと思っている様子。
だったら私の発言で取り消して…………くれなさそうなのよね。
聞く限り、最初に企図していた政治工作をさらに進めたような方向性を模索している様子。
ただ漏れ聞こえる言葉から、やはり分散侵攻には問題点があるらしい。
「兵糧の運送が今からとなると…………むぅ」
「兵は見せかけでもいいんだがねぇ」
「どれくらいで動くか、今から調整して、後発で…………いや、しかし」
「誰が来るか見極めてからでも時間稼ぎとしてはありじゃないか?」
お二人は控えに用意された部屋に入って話し合いを続ける。
その隙に私もそっと耳を傾けながら考えた。
今の私が頼るのは、もちろん東の海の向こうの知識だ。
それ以外にできないので、探るのはうかつに口にしてしまった満伯寧について。
間違いようもなく、私のせいで巻き込まれそうな方。
(合肥城という言葉が一緒に出てくるわね?)
一番の活躍は曹家の祖父が亡くなってからで、子桓叔父さまの代に対呉における要となる武将ね。
あら? 戦歴が元仲の代になってから増え続けている?
知識には呉との戦いが激化すること、二十年ほど後には毎年侵攻と撤退を繰り返す戦況の移り変わりが浮かぶ。
満伯寧が配属された合肥城を、孫呉は毎年のように攻められるけれど、決して落とされなかったという。
(まるで濡須口の戦いとは逆ね。おじいさまは一度も勝てなかったけれど、合肥城の戦いとなると今度は孫呉が一度も勝てなくなるなんて)
つまり、対呉戦においては常勝とも言える満伯寧の戦歴だ。
とは言え、合肥城に配される前の戦いでは、対呉でも負けを喫しているらしい。
ただどの敗戦でも敵の手にかかることはなく、生きて戦線に復帰しているのは特筆すべきことかもしれない。
「許昌より遠い戦地となれば横やりが入れることもできなかろう」
「厳罰が過ぎることがあっても、それも宰領の内でありますし」
賈文和と仲達さまの検討の声に反応する知識がある。
(え、楊徳祖?)
朝廷で一度だけ出会った、子建叔父さまの輔弼。
腹に一物ありそうな官吏の方で、たぶん朝廷側の人間だ。
けれどよくよく確かめると、満伯寧に関係するのはどうやらその父親らしい。
満伯寧と確執があると知識にはある。
(もしかして評価されているのに地方に留め置かれているのって…………)
満伯寧は元酷吏。
けれど悪代官のようなものじゃなく、一切の情状酌量なく罪ありとなれば即座に処刑するという方向の酷吏だ。
そしてそんな満伯寧に、楊徳祖の父親楊彪が捕まったことがあるらしい。
楊彪は曹家の祖父とは政敵関係だったそうだけれど、曹魏の臣下からの助命の嘆願があるような人物なのだとか。
満伯寧も処罰するかどうかを曹家の祖父に確認したという。
(これ、絶対満伯寧は許可が出されたなら殺してたってことよね?)
楊彪は今、すでに七十を越えて隠居している。
けれど董卓死後に献帝を助けて支えた臣下で、今も皇帝の功臣として存在感があった。
それを鞭打って殺す気もあった満伯寧は、政治関係に顔の利く楊家がいる都では働きにくいだろうと想像できる。
ただ先のことを考えれば、楊徳祖は曹家の祖父により殺される。
楊彪は長生きするけれど、子が殺されたことで完全に牙を折られる形で表舞台から消えた。
そしてその後の対呉戦では満伯寧が常に重用されることになる。
この時代の陰陽に、両者の確執が影響なかったとは言えない気がした。
「時間がないのが一番痛いですな」
「それでもやるなら死にもの狂いでやらねばなるまい?」
「冬にかかるからには薪も相応に必要でしょう」
「もう準備で死人出そうだ、ははは」
悩む仲達さまに、いっそ問題が重すぎて笑う賈文和。
笑っている場合じゃない単語が聞こえるのですけれど?
「できないとは言えないですからね」
「どっちにしても死ぬならそうさね」
いえ、怖いわ。
なんの話?
あ、戦争よね。
え、準備で死ぬの?
怖いわ。
(そんなところに元酷吏を…………?)
不安で胸を押さえると、さらに知識が湧いた。
今後起こる荊州での大敗の戦いに、満伯寧の名前があるようだ。
どうやら荊州という、濡須口とは別に孫呉と境界を接する地を狙う戦いには、参謀として参加。
その際には勝敗は喫したと言える絶望的な戦況で、冷静な判断で降伏を止め、援軍を得て撤退に成功している。
どうやら連戦でも生き抜いた実力は確からしい。
だとすればやはり私のせいで変わった状況には、いてほしい優秀な人材ということになる。
「これ、子供がそんな顔しなさんな」
頬を触られてびっくりして見ると、賈文和が指で突いていた。
「どんな顔をしていましたか?」
「体調が悪いようなら、曹丞相へご報告しよう」
「いやぁ、これは考えすぎかなんかさね」
心配してくれる仲達さまに賈文和が笑う。
正解ですけれど、ちょっと悔しいわ。
「まぁ、自分の発言がとなれば考えもするか」
「あの、今からおじいさまを止めることはできないのでしょうか?」
駄目元で聞いてみるとけれど、やはりどちらも駄目そうな顔をする。
「今勢いに乗ってるからなぁ」
「孫権が釣れそうなのが、止まらない理由でしょうし」
問題はあるけれど、効きそうな部分もあるから、曹家の祖父もその気になってしまっているようだ。
止めるならきっと強く主張しなければいけない。
けれどこのお二人は行けそうだと思ってしまっている時点で、強く反対できなくなっているらしい。
「だからそうおろおろしなくても」
また賈文和に頬を突かれる。
「なぁに、長姫にはこの作戦が上手くいってもなんの功もありゃしないが、失敗してもなんの責任もありゃしないさね。…………それに」
賈文和が悪い顔で仲達さまを見る。
「何処かの悪い大人にとっては、軍を別けるってだけでいい話なところもある」
思わず見ても、仲達さまはそ知らぬふりをする。
つまり否定さえない。
けれど何故?
いったい軍を別けることになんの利点があるのかしら?
(大変だとか、時間ないとかおっしゃっていたのに。それでも軍を別けることに意味がある? しかも悪い大人? もしかして戦うところとは違う観点での利点かしら?)
そう考えて仲達さまの顔を見れば、思い出すのは子桓叔父さまだ。
そして続いて子建叔父さまの顔が浮かぶ。
「…………あ、子建叔父さまを江夏に?」
もし子建叔父さまを江夏に向かわせるなら、軍を別けて本陣から放す形になる。
しかも全力で戦って功を立てるような華々しい部隊ではない。
そうすることで、継承争いをする一方の重要性を下げる狙いを疑った。
活躍の場から遠ざけるのは、勝敗以外の利点と言える。
戦争のさなかにそんなことを利点にするなんて、本当に悪い大人の考えでしかない。
「長姫、そちらにいるのも悪い大人だということを忘れずに」
仲達さまは、作り笑いでそんな忠告をくれる。
指を指す先にいるのは、人の悪い老人、賈文和。
私は納得しかなく、それ以上何も言えなくなってしまった。
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