六十四話:身内の話
薬に目途がついていると聞いて、ちょっと安心する。
ただそんな気分を吹き飛ばすように、阿栄の勇ましい声が聞こえた。
「やっぱり将兵となるなら張将軍のように勇猛果敢に戦場を駆けてこそだと思うんだよ」
駄目な方向に何か言ってるわ。
英雄譚でやる気が出ているのはいいことでしょうけれど、そうじゃないのよ。
もっと兵を率いることの難しさを理解して、慎ましく戦場に出てほしいの。
そう私が言う前に司馬の大哥が応じた。
「そうかな? あの戦いで将兵として最も才能を知らしめたのは、曹丞相を置いて他にいないと思う」
「確かに、西の戦場から的確に指示を出して凌がせたわけだし」
夏侯の大兄も同意するのは、実際すごいと思っていることもあるでしょうけれど、習い性もあると思う。
夏侯家では目上として、生まれた時から教え込まれるのが曹家の祖父だ。
同じく夏侯家の阿栄も無闇に否定はしない。
とは言え思うところはあるようだ。
「曹丞相ほどの方になれる気しないし…………」
「…………確かに」
「いや、やはり目指すなら望む限り高くあるべきじゃないか?」
阿栄の弱気に大兄が同意すると、大哥は自信ありげに笑って否定した。
「先人がなした実績があるなら、そこを越えてさらに先へ。それこそ後に続く者が取るべき道だと私は思う」
確かにお手本があるなら後の者は倣って楽に進めるかも知れない。
けれど大哥はさらにその先を目指すと言い切った。
倣うからこそ越えるのだと。
案外自信家、いえ、そう言えば最初から自信ありげだったわね。
その後に私が盗み聞きや、氷の取り合いなんて奇行をしたから、鳴りを潜めてしまったけれど。
「小小の兄君は自信のある方ね」
「うん、父上より偉くなるって言ってる」
笑顔の小妹に、小小は悪びれずとんでもないことを言い出す。
儒教的には上に従うことが美徳だ。
つまり父を越えると声を大にするのは、不孝で喜ばれない言動と言える。
なので私は思わず小小に確認した。
「お父上に怒られはしないの?」
「あ、言っちゃ駄目なんだった」
どうやらその辺りは儒教的な感覚があるらしい。
その上で小小は素直すぎて漏らしてしまっているけれど。
視線を感じて見ると、大哥が居心地悪そうに小小を見据えている。
その横で意外そうな顔をしている大兄に、私のほうが意外に感じた。
「大兄は儒教嫌いなのに、儒教に逆らう行いをする人を見ると驚くのね」
「え、いや、別に…………な、何を言うんだ、長姫」
大兄は慌てるけれど、上手い言い訳も出ず目が泳いでしまう。
さらには阿栄も大いに頷いた。
「うるさいよなぁ、あの儒者。誰を尊敬するかくらい自分で決めさせろって」
そう言えば同じ儒教の授業を受けているのだったわ。
その点で言えば阿栄は父である妙才さま大好き。
大兄も父親を嫌ってはいない。
「あら? 大哥、もしかして仲達さまのことは、お嫌い?」
「まさか!」
大きな声に私のみならずその場の誰もが驚く。
けれど当の大哥のほうがもっと驚いた顔をして固まっていた。
遅れて、叩くように口に手を当てて閉じると、見る間に耳が赤くなる。
室内に流れる微妙な空気。
これは弄っていいのかしら? それとも慰めるべきなの?
私としては、両親の関係に悩む元仲とは違う状況で嬉しい限りだけれど。
「…………司馬家は今代、とても優秀な方々が揃っておられる。司馬の八達と称されるお身内方の背を見ているのならば、自らも続く者として高みを目指すのも良いことでしょう」
そこで黙って聞き役をしていた元明が助け舟を出してくれた。
そしてそのまま、司馬家の八達と呼ばれる仲達さまたち兄弟について話を移す。
そもそも大哥の祖父にあたる方がとても厳しく、仲達さまを始めとする八人の息子たちはそんな父親に従い能力を磨いたという。
「またかつて、若き日の曹丞相を見出し、都尉に任じてその才を伸ばすきっかけを与えました。都尉を経て、曹丞相は西園八校尉として取り立てられ…………」
どうやら仲達さまが子桓叔父さまの側近になっているのは、大哥の祖父が曹家の祖父を取り上げたかららしい。
その取り立てから、曹家の祖父は一時皇帝直属の部隊に所属したとか。
その後は董卓の専横で都を離れるけれど、若かりし日の成功譚に、男子たちは目を輝かせる。
私も身内の話は、知識でわかっていても興味が湧いた。
「親の威徳を継ぐことは子として正しい。そしてその親を越えて高みに至ることも決しては間違いではないですよ。そこに孝徳の念、畏敬の念があるならば、決して不孝ではないはずです」
元明が上手く話を纏めてしまう。
これは見習いたいところだわ。
だいたい私投げっぱなしだし。
だからってすぐさま上手くはやれないけれど。
年齢に相応の経験が、大きな差よね。
私が優位なのは東の海の向こうの知識を持つ点だけで…………。
「…………う」
浮かんだ知識に私は苦しげな声を漏らしてしまう。
途端に小妹が気づいて声を上げた。
「まぁ、長姫。大丈夫ですか? 休みます?」
「だ、大丈夫。大丈夫よ、ありがとう」
他からも心配の目が向けられたけれど、私は大丈夫と繰り返した。
けれどそんな空気読まない人が一人。
「やっぱり長姫、南に遠征とか無理だろ」
「小さい時に無理したらいけないんだよ」
阿栄とさらに小小まで、私を止めることを言い出した。
「無理なんてしてません、ただ…………」
言いかけてやめる。
司馬朗という大哥と小小の伯父が、死んでしまうと知ったせいだなんて言えないもの。
(そう言えば司馬朗が八達の長男。そして死ぬことで、次男である仲達さまが司馬家の当主に収まるのよね。その結果、その後を継ぐ司馬師、司馬昭の兄弟が権勢の中心に立つことになるんだわ)
死亡理由も疫病が起きた際に、自分を後回しに薬を配ったせいという人格者。
そんな方なら、後に起こる司馬家のクーデター止めてくれないかしら?
「…………うぅん」
「唸り出したぞ。これ、苦しいじゃなくてまたろくでもないこと考えてる」
「良くわかるね」
「ちょっと、大兄の失礼な発言を信じないで、大哥」
私が釘を刺すと、元明が促して来た。
「何か気になることがあるのかな?」
司馬朗のことは言えないけれど、気になるのはやっぱり疫病とその対策。
病の蔓延はそれだけ大勢が密集することで爆発的に広がる。
だったらいっそバラバラにできないのかしら?
「孫子のとおり、南の者たちはこちらが大軍だから、奇をてらった少数精鋭の奇襲を行うのでしょう? であれば、あえて同数を正面において、他の所から攻めさせることはできないのでしょうか?」
「それは結局疫病が起きたら、こちらが少数に回って圧殺されるだけだろ」
阿栄に正論を返されむっとすると、大哥が考えてから頷く。
「いや、張将軍が少数でも追い返した実績がある。だったら積極的には攻めてこない。相手が大軍で傍観できない状況だから打開に動くんだ。けれど少数と見れば、あえて怪我をしに向かうこともしない可能性はある」
「でしょう? それにあちらも疫病の怖さは経験しているもの。だったら疫病が蔓延しても進んで攻めることはしないんじゃない?」
「じゃあ、少なくした分は何処に? 確か川下に本拠地の建業がある。けど川上から攻めたほうが後からの移動は楽かも?」
大兄も乗って来てくれたので、私もそちらに行って話をする。
すると代わりに、小妹と小小の近くに阿栄が移動した。
「どういうことですか?」
「どういうこと?」
「わからん」
阿栄は元気に答える。
その素直さと思い切りの良さは美点かもしれないけれど、できればもっと派手な戦功ではなくこういう事前に策を練るほうに参加してほしかった。
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