六十三話:備えあっても憂いあり
「疫病のことかな? 先年の南征も、結局はそれが継戦を難しくしたからね」
元明は私の懸念を的確に言い当てる。
阿栄も大きく頷いた。
「去年の戦いで疫病があったってのは確かに言ってた。父上がまたかってさ」
「確かに大人たちは口を揃えてまたと言っていたな」
大兄も、どうやら夏侯家でそんな話があったことを聞き知っていた。
元明も頷いて苦笑する。
「赤壁での戦い以来、避けては通れない問題だからね」
その戦いは知っている。
大規模な船団を擁して、歴史に名を刻んだ戦いだ。
同時に多くの武勇伝があり人口に膾炙し、今この時代でも語られ未来にまで語られる。
(まぁ、孫呉側の武勇伝だし、知識からすると後世に残っているのはまだ本拠地を持てていない劉蜀側の成功譚だけれど)
知識には後世、悪役である曹家の祖父が大船団を用意したにもかかわらず、大敗を喫したと物語にもなっている。
確かに平野で戦い続けていた曹家の祖父からすれば、船上は勝手が違った不利な戦い。
その上で敵の保有地で、不利を覆すための大船団も生かせず負けた。
それでも、ただただ敵の武勇に負けたかと言えばそんなことはない。
結局赤壁の戦いで曹家の祖父が撤退したのは、疫病という別の問題を抱えたせいだった。
「疫病はたぶん、今回も発生するだろう」
元明は困ったような顔ながら、断言する。
「今からすでに予期できる兆しが? そこに住む者がいるなら疫病への対処はどうしているのですか?」
「住む者たちはいたって普通だけれど、外からやって来た者たちが疫病にかかるんだ」
司馬家の大哥に答えて元明がいうには、地元民に被害はないそうだ。
けれど決まって率いて来た兵卒が疫病にかかり、軍内に広がっていくという。
「十万という大軍は疫病で倒れても兵が枯渇しないようにという備えでもあるんだよ」
予想していたけれどなんとも大雑把な備えね。
「薬はどうなっているのでしょう?」
「もちろん持っていくさ。けれどそうだね、筆を一本、それと竹簡の巻物を貸してもらえる?」
私の問いに元明は書きものを求めた。
侍女にお願いして持ってこさせるついでに、書きつけに使える綴っていない竹簡も別に用意させる。
「あぁ、綴っていないものがあればちょうどいい。みんな、この竹簡一枚が一人分の薬だとしよう」
そう言って元明は、表面を整えた竹の短冊をみんなに回す。
小妹でも持てる軽さで、特別珍しい物でもない。
「そしてこっちの竹簡は、二十人ほどの分の薬だ」
そう言って元明から回された竹簡は、さすがに小妹は抱えているだけでも辛そうな重さ。
竹は軽い。
中が空洞だから。
けれどそれが全て板状になった竹の集合体となれば、相応の重さが生まれる。
「もちろんこれは、大人なら持ち運びができる。けれど竹簡を一度にどれだけ抱えられる? そして、抱えたまま何日旅ができる?」
最初の問いには自信ありそうな阿栄も、何日も歩く前提になると顔が曇る。
「重いだろう、持ちにくいだろう。しかも濡らしてはいけない、地面に放りだしてもいけない。そんな荷物が十万人分だ」
言われるままに私たちは想像して、首を横に振った。
そんなこと一人では無理だと。
「軍でも相応の手間なんだよ。だから基本は現地調達。その上で持っても行くけど、やはり現地で知識のある物を募って手当てに参加させたほうが手間は少なくて済む」
看病をするのも軍ではなく、現地の行政が募った人手だという。
「ですが、軍は兵員と同数の後方支援の人員が同行するのでしょう?」
どうやらすでに軍事について学んでいる大哥が、現地人を雇い入れる理由を聞いて来た。
戦う者は怪我をするし、色々と戦場に出る以外にも偵察や報告といった業務がある。
それらを補うための後方支援、非戦闘員が必ず随行するそうだ。
中には男性たちの夜の相手をする女性もいるとか。
「十万の兵と聞くだけでも大変な数なのに」
「南でも人が増えるのですね」
「寝る場所あるかなぁ?」
懸念を口にする私に対して、小妹と小小はのんきだ。
元明は夜の女性について深掘りはせず、小小の疑問に答える。
「一気に行くわけじゃなく、拠点から分散して進むんだよ。そうして動くためにもやはり、将兵には兵卒を率いて移動する、歩かせる技術が必要になる」
そして歩かせるには物を運ばせるということも含まれる。
部隊が一つ道に迷って全く見当違いの所に出るなんて、珍しくない。
その結果、補給が上手くいかなかったり食糧事情がひっ迫したりもするそうだ。
「軍も延々と列を作るわけではないんだ。そんなことをしたら、行く先々で水と食料が足りなくなってしまう」
元明はイナゴの大群にたとえて語る。
つまり軍が大勢のまま移動してしまうと、食べ尽くして不毛の地になると。
だから軍は兵数が大きくなるほど分散して集合するんだとか。
その中で統率が上手くできないと迷子の部隊が発生するらしい。
「まず誰も行ったことのない土地だったりするからね。隊列を正しく進めていたのに、先頭が迷って、部隊全体がということもある。率いる者はそうなった時どうするかな?」
元明が男の子たちに質問を投げかけた。
目的地への行き方を探るのはもちろん、道を戻るやら、迷った先頭の者を処罰するまで色々な意見が出る。
聞いた元明は一つずつ、時間や食料、本当に部隊が全員そろっているか、などの問題点を上げた。
「む…………ずかしい…………!」
どんどん将兵として考えることが増えて行く問答に、阿栄が泣き言を漏らす。
私も尽きない問題点に疲れを感じてしまう。
「結局備えをしていても不測の事態が起こるのなら、その場でどう対処をするか今の内に考えて行動方針を決めておいたほうがいいということね」
「長姫の言うとおりだよ。どうしても大人数を動かすと時間がかかる。同時に一度動かすとそう簡単には止められない。だからどれくらい早く決断を下して備えるかだ」
張将軍の武勇伝とはほど遠い地味さだわ。
けれどその堅実さは必要なことなのよね。
よく考える大兄と大哥は、合ってるように思う。
そして逸る阿栄には足りない部分だろう。
男の子たちで話し合いをしている間に、元明は私に質問の続きを教えてくれる。
「基本的に疫病が蔓延するのは前線だ。長姫が恐れるほどではないよ」
「恐れます。私たちの身内は前線に行くのですから」
もちろん将兵なので本当に前線ではない。
けれど疫病というものがどうやって広がるかは東の海の向こうの知識にある。
前線の人間が移動できる距離なら広がるし、接触できる人間が動く範囲を異にすればさらに広がるのだ。
「疫病、沈静させられればいいのだけれど。本当に土地の問題なんだ。何せ、攻め上って来た孫呉の軍にも疫病が広がって撤退を余儀なくされている」
「え?」
「まぁ」
「えぇ?」
話を聞いていた私、小妹、小小がそれぞれ驚きの声を漏らした。
元明も苦笑して説明してくれるには、長江の南ではない疫病なのだとか。
長江の北周辺で、外から大勢が来ると起こるという。
もう長江の北に行ったら確実に疫病が起こるというのは過去二回の南征、そして孫呉の侵攻の結果を見ても明らからしい。
「だから手間がかかっても持っていけるだけの薬は用意されてはいる。ただどれだけ使用可能状態で現地に着くかはわからない。少なくとも将兵には優先して配られるから」
梱包はもちろん運び方も、藁や麻縄で縛るという雑なやり方であるため、薬が駄目になっている可能性も考えなければいけないようだ。
そこもやはり現地調達のほうが確実なのかもしれない。
私は思わず顔を曇らせると、元明が優しく笑う。
「長姫が子建さま周辺にお願いした薬の模索。あれで解熱と整腸の丸薬が用意されている。生薬でない分例年より多く運べるようになっているから、大丈夫」
「まぁ、本当に?」
それは正月に丁氏の屋敷で苦し紛れにお願いしたこと。
きっとそれは、徳璉さまがかつての都まで行って聞き集めてくれた成果だ。
憂いは尽きないけれど、備えができることに少しの安堵を得る。
それでもまだ足りないことは、わかっているのだけれど。
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