六十一話:戦の予習
夏も終わりが見えてきた頃、我が家も本格的に居を移す準備を始めた。
「使用人には暇を与えるか、連れて行くか。どちらがいいかしら。屋敷の維持管理に最低限は残さなければいけないし」
「船旅だから、人も荷物も多すぎては出費が増すばかりだよ」
より良く考える母に、父はお金の心配を未だにしている。
それでも母は今までそういうことを言われるとムッとしていたけど、今は呆れ混じりに目を向けるだけ。
「私や宝児に硬くて味気のない物を食えとおっしゃるのね?」
「いや、それは駄目だ。旅は体力が大事だからね。だったら確かに少しでも精がつくものを持って行くために人手は必要だ、うん」
指摘されて気づいたように、父は前言撤回をして大きく頷く。
これはあまりに母の掌の上すぎて、どうかと思うわ。
けれどそうして私たちを優先する父の言葉に、笑みが浮かぶ。
母を窺うと、普段よりも目元が優しい。
小さな変化に私は声を漏らして笑ってしまった。
「うふふ」
「まぁ、宝児。そんなに船旅が楽しみ?」
母が無自覚らしく、さらに表情を和らげる。
「いえ、南に行くために船旅というのも初めて知りました。ただこうしてみんなで計画しているのが楽しくて」
「そうだね、今まで寝台から離れられなかったから。宝児はよく元気になってくれた」
父も嬉しそうに私を撫でる。
そして旅程について話し始めた。
「まずこの許昌から、東に向かって渦水を目指すんだ」
渦水とは東に向かう川のことで、水路として活用されていると教えてくれる。
途中にある要衝の街があるので、そこで軍を整えるとか。
「さらに南下して合肥という郡治の街へ行くんだ。軍はさらに南下して居巣に陣を張るだろうね」
「ということは、前回と同じかしら?」
父と母はそのままどんな編成で移動することになるかという、許昌を出たことのない私にはわからない話を始めた。
(知識によれば濡須口の戦いと呼ばれる、曹魏対孫呉の一連の戦役で、今回は第三次)
つまり前回とは第二次のことだろう。
ちなみにこの戦い、曹魏が勝つことはない。
かと言って孫呉が圧勝かと言えばそんなこともなく、局地では孫呉が勝ち続け、けれど曹魏の大部隊を追い返すほどの攻勢にも出られずという状況。
結果としては被害を大きくした曹魏が撤退する形で負ける。
濡須口での戦いは第四次まであり、その時は子桓叔父さまが戦うらしい。
結果は同じで、被害は大きいわりに功は少なく、継戦しても損害が多いばかりとなって退く。
「…………前回は何故負けたのですか?」
「まず前回は孫呉が攻めて来てね」
父がしてくれる説明を、東の海の知識とすり合わせても同じ内容だ。
今から二年前に孫権が魏の城を攻め取った。
曹家の祖父は報復として軍勢を引き連れ濡須に侵攻。
濡須口を押さえているのは今も孫呉だけれど、そこに迫る居巣を押さえているのは曹魏。
そんな結果は変わらないけれど、何やら聞き慣れない言葉が父から上がる。
「あの時は奇策にやられたよ。食客上がりの武闘派に三千を率いらせての奇襲。しかも決死隊までいて、夜陰に紛れて陣深くまで切り込まれてね」
「食客ですか?」
私が聞き返せば、父は当時を思い出したのか疲れたような顔で答えてくれる。
食客とは国が官を与えて雇用する武人ではなく、個人が衣食を賄って雇う武人のこと。
養ってくれる主人に従う者だけれど、利益を優先して主人を殺す者もいれば、主人の死後に命を懸けて復讐を完遂する者までいる。
任侠に厚いと言われ、優れた食客を抱えることは人品を見極める目を持つとして、主人の声望を高めるのだとか。
「あれで率いた甘興覇も打ち取れず、ひどく混乱して士気が目に見えるほど下がってしまったんだ。やってくれたものだよ」
「士気、ですか? 目に見えるとはどのような?」
わからない私に、今度は母が話してくれる。
「戦おうという気がなくなることよ。兵とは集団を用いることが要。集団としての勢いがなければ、野生の羊のほうがまだ突進力があるわ」
「そうだね。一人が一歩退けば二人が二歩退く、二人が二歩退けば四人が八歩退くようなものだ」
父が言うことを想像してみる。
たとえば敵が率いたという三千の兵だ。
一斉に動くとなればそう簡単には止められないだろう。
その中で、一人二人が退くなら大したことないけれど、百や千ともなれば、もはや集団として機能しない。
きっと隊列の間は連携できないほどスカスカだわ。
そしてそれが曹魏の側で起きてしまったと。
「ですが、今すでにそのような軟弱な言いようは看過できません。士気を保って兵を進ませるのが将の才能。ましてやすでに例の食客上がりの将兵は死んでいるではありませんか」
母の言葉に父は視線を下げる。
どうやらその才能がないことを自覚しているようだ。
母もわかっていたのか、勇ましい強がりさえ返さない父に追い打ちはかけず、私に語りかける。
「そう言えば、以前の戦いを思えば孫呉は奇策を好むような気がするわ」
「まぁ、向こうは十万も兵を揃えられないからね。それに船の戦いが得意だから、船で小分けにする戦法をとるんだろう」
「わかっているのなら、敵の奇策を看破なさったら?」
「う、うん、できれば、やる、けど…………」
母の発破に、父は自信なさげに応じる。
きっとできたことはないんだろう。
私は可哀想になって話題転換を計る。
「それほど戦いを必要とする土地なのですか、濡須という場所は?」
「あぁ、そうだね。行ったこともないのだからわからないか。えっと、濡須という土地には濡須口という長江に合流する河口があるんだ」
父は控えていた使用人に墨と筆、書きつけるための板を用意させる。
そして私にわかりやすく、許昌の場所から描いて、南東に濡須口と書く。
濡須水と呼ばれる川は南北に流れ、巣湖という湖と、大河である長江を繋ぐ。
この巣湖の畔が居巣で、曹家の祖父が布陣する場所。
巣湖から流れ出す川を下ると濡須口に辿り着く。
「では私たちは居巣に?」
「いやいや、そこは前線の後方だから。そんな危ないところには行かせないよ」
慌てる父に、母は父から筆を奪って書き加える。
巣湖に流れ込む川を上ると至る合肥という要衝の街があるそうだ。
さらに北に川の流れを上ると、州都の寿春という街に辿り着く。
「私たちは寿春かしら?」
「そうだね、合肥は後方支援の拠点となるだろうし」
「えぇ? 遠すぎませんか? 父上は居巣なのですよね?」
私の問いに父は感極まった様子で目元を覆い天井を仰ぐ。
母は困ったように私の頭を撫でた。
「危ないのですから、長姫…………ね?」
「父上も危ないのですよね? それに夏侯のおじいさまは何処に? やっぱり居巣でしょうか?」
「父上は合肥じゃないかな? 必要になったら自分で往復してしまうだろう」
曹家の祖父が言っていたとおり、夏侯の祖父は腰が軽いらしい。
となると、せめて夏侯の祖父の近くにいたい。
そうすれば後方でも一番に情報が入る場所にいられるのではないかしら。
「でしたら合肥がいいです。夏侯のおじいさまも無茶をすると曹家のおじいさまがおっしゃっていました」
「あぁ…………うん…………」
「そう、ね」
父も母も否定できないらしい。
六十近いのに元気なのね。
「どのような作戦かはごぞんじ? 前回は侵攻の報復でしたけれど。あの時は数に物を言わせたもののひと月戦って勝ち目なく撤退しましたわ」
「その因縁があるからこそ、取りたい要地であるのはわかるけど詳しくはまだ。ただ策は考えているそうだ。それでも兵の規模は十万を越えるし、やることは前回と変わらないだろうと思う」
そう言えば孫子にあったわね。
数が少ないからこそ奇を衒え。
数が多いなら堂々と戦って威容を見せつけることにも意義があるとか。
孫子を好きな祖父らしい。
けれど向こうは孫子の末裔を名乗る孫呉だ。
それに合わせて寡兵での奇襲を何度となくしているということなのだろう
(これって、このままだと負けるのよね)
私が考えていると、父がまた優しく頭を撫でて来る。
「大丈夫、たとえ戦に負けても君たちは僕が命に代えても守るから」
「戦う前から負けを口にするものではありません」
怒られる父だけど、母は照れたようにそっぽを向いていた。
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