五十八話:届かない諫言
老成の謀臣である賈文和と並んで、私はお喋りをすることになっている。
他は当初の予定どおり、模擬戦を見学していて、私たちのやり取りに気づく者はいないみたい。
下からの喧騒に紛れて声が届いていないのだろう。
この歴史に名を遺す方の、慧眼に期待するところはある。
ただ一つ、問題があった。
そこのところに含みがあるかどうかで、近づくべきか距離を置くべきかが変わる。
「…………何故、我が伯父を黄泉に下した方が、私にそうまで興味を持たれるのでしょう?」
「いやぁ、昔のことも良く知っているようだ」
私の刺した棘を笑って払うように返す賈文和。
この方は曹家の祖父と敵対していた。
もちろんその時には戦いがあり、犠牲も出ている。
その犠牲の中で私に関わるのは、曹昂という会ったことのない伯父も含まれた。
つまり母の同母兄で、今は亡き曹家の祖父の最初の正妻との間に生まれた長男だ。
「うーん、頭はいいんだろうが、演じるには足りないなぁ。怨み怒りを孕んだ眼は、もっと素直さね」
いっそ乾いた目で、賈文和は笑って私を見返した。
これは経験の差とでもいうものかしら。
どうやら私が、特に血縁とはいえ知らない相手について、思うところが少ないことを察知されているらしい。
この方が張繍という主君の元で戦い、私の伯父を死に追いやった。
そのせいで母の養母である丁氏は曹家の祖父と離縁しているから、怨む理由はある。
けれどそこに生きた感情はない。
十年も生きていない私にとっては過去のことで、丁氏も母も新たな人間関係を築いており、今さら知らない伯父のことで二人を煩わせたくはないという思いのほうが強い。
「おっしゃるとおりのようです。…………そんなに下手でしょうか?」
「その手の弄りは散々長姫の親族にされてますからなぁ」
言って、目を向ける先には子桓叔父さまと子建叔父さまがいる。
どちらかわからないけれど、言いそうなのは子桓叔父さまかしら。
そして弄りというくらいには本気の嫌みや脅しでないこともわかっていると。
「その辺りは心ないのですから。母上に怒られるというのに、おじいさまと一緒になって悪い冗談をおっしゃられます」
「おっと、誰とも言っていないことはおわかりだな?」
つまり、子桓叔父さまにまた弄られるから告げ口はなしってことね。
子建叔父さまも危うい言動があるけれど、性格の違いからか子建叔父さまのほうが悪意はないように思う。
そこが人当たりの違いかもしれない。
「警戒されているようだが、何、姫君が好奇心から傷つかないようにという老婆心さね。模擬戦として武器の刃は潰してあるとはいえ、打ち所が悪く…………という例もある」
つまり模擬戦の様子を覗き込んでたら、死体を見ていたかもしれないということ?
う、想像してしまったわ。
けれどそんなこと普通に注意してくれればいいはず。
「裏がなければとてもありがたいお心遣いですね」
「おやおや、何やら疑り深い。そうなってしまうことでもありましたかな?」
言われて思い浮かぶのは虎賁見学でのこと。
楊徳祖と呉季重という、どちらも人をはめることを厭わない方々。
特別危害はなかったとは言え、確かにあの方たちのことがあって、親切めかして話しかけてくる相手に身構えてしまっていたかもしれない。
そして私でも気づけなかったそんな心持ちを指摘する賈文和には、余計に警戒心がくすぐられると言うものだ。
「良く人心をご存じですね」
「これでも長く生きているのでね」
私なんかの嫌みなんて歯牙にもかけないわね。
それに、そう言えば曹家の祖父より年上の方だったわ。
そんな方に張り合おうとしても、やはり人生経験が違いすぎるみたいね。
(家妓みたいに上手く話を持っていけない。コツを聞いても自分の武器を使うだけだなんていうし。…………そう言えば、若いからこそできることがあるとか言ってたわね)
あまり過激なことを教えるなと侍女に邪魔されて、その先は聞けていない。
過激という言葉でいったい何をと思ったけれど、よく考えれば若いを子供と変えればいいのではないだろうか。
子供だからこそできる手もあるとすれば…………。
「わかりました。私ではお話し相手に不十分であるならば、おじいさま方の所へ参ります」
「おっと待ってくださいよ。そこで何を話すつもりで?」
「特別なことは何も。ただ、賈大夫のお話が難しかったとだけ」
「あぁ、確かにさっきの口止めが無効な範囲ですね。とは言え、それもまた困るのわかってて言ってるでしょ?」
「ご存じでしょうが、子供は思いついたらこらえ性のないもので」
「ははぁ、なるほど。いやぁ、年取ると忘れるもんでねぇ」
賈文和は、自分の額を打っておどけて見せるけれど、明らかに余裕が失われつつある。
話に飽きたからもう祖父に答えを聞きに行くという、子供の我儘を理解した上で、止める言い訳も出てこないようだ。
どうやら私は難しく考えすぎていたらしく、賈文和は辺りを鋭く見て機を窺う。
(なるほど。私たちを気にしてる人が、模擬戦のほうに意識を向けるの待つ間、はぐらかし続けていたのね)
そして目を配ってる筆頭が虎痴こと許侯だった。
だから私は、あえて目を合わせて笑顔を向ける。
大丈夫だと知らせることで、こちらへの警戒を薄めてもらうことに成功した。
「…………はぁ、幼い内から才能を開花させる者というのは、なんとも」
「二十歳を過ぎればただの人とも言います。先がわからない私よりも、おじいさまに勝ったままのあなたのほうがよほど才能豊かではありませんか」
「あまりそういうこと他では言わんでくださいよ。これでも肩身が狭いんでね」
「まぁ、荀令君に劣らない才知をお持ちなのに?」
「だとしても完全に顔で負けてたらねぇ?」
否定しない程度には才能に自信があるけれど、顔かぁ…………。
まぁ、令君なんて呼び名が罷り通ってた方なのだから、なまなかな者では並び称されるだけ嫌みかもしれない。
興味に動かされて、私は声を落とし賈文和に令君の実像を聞いてみる。
「ちなみに、元仲さまとどちらが優れた容貌でいらしたのかしら?」
「ふぅむ、難しい。涼やかな理知の煌めく令君と、麗しく精巧な若君の甲乙はつけがたい」
私が知る中で一番の顔をあげると、そんな元仲と比べても劣らない方だったらしい。
そんな与太話の続きのような様子で、賈文和は本題を囁いた。
「太子の話題が広がった時に、このまま悪化すると睨んでたんですがね?」
私は大きく反応しそうになるのを堪える。
太子と言えば王侯の跡継ぎのことで、皇帝の世継ぎも含まれた。
けれど今の状況で私にそんなことを言うとなれば、曹家の世継ぎについてだろう。
正直、こんなところで私に話しかけた理由が、子桓叔父さまと子建叔父さまのことだとは思ってもいなかった。
「ところが予兆が見えた途端に消えた。だというのに、丙の方の野心は消えていない」
丙は甲乙に続く三番目、つまり三男である子建叔父さまのことだろう。
「いったい何をなさったんでしょうかね?」
「特別なことは何も。私にはあの方々のご意志を曲げるほどの力などありませんから」
ただちょっと丁家兄弟の自信をへし折って、それで子建叔父さまの動きが鈍ったところはある。
けれど結局は子建叔父さま自身が決めたことだし、元から戦功に興味がある方だし。
その上で子桓叔父さまと争うのではなく、その次を見据えているのだから、そこは私が何かしたわけではない、はず…………。
「そちらこそ、おじいさま辺りからご下問などあったのでは?」
「ないない。側近たちから広がって直接ご兄弟が反目するならまだしも。下火のままの今、聞くようなことではないねぇ」
はっきり否定の言葉を返され、私はぽかんとしてしまった。
だって、おかしい。
(この方は後継者について、曹家の祖父に聞かれるはず。そして答える内容は、袁紹と劉表の例にした、兄弟間での争いの無為…………)
私も知識にあったから、それを流用して子建叔父さまへの逃げ口上にしたことがある。
けれど形は変えたし、言った相手は子建叔父さまだし、曹家の祖父ではないから大丈夫だと思ったのに。
今の言いようではまるで、聞かれないと確信しているような。
「太子について思うことがあれば長姫自身が申し上げてもいいでしょうなぁ」
「私が、言うことではありません、から…………」
「まさか。長姫だから言える視点もあるはずだ」
待って、推さないで。
私じゃなくて賈文和が言うべきことのはずなのになんで?
(これじゃ歴史が変わってしまうことになるんじゃない? だ、大丈夫? まだそんな大きなずれではないはずだけど…………)
けれど賈文和の才知を彩る逸話がたぶん、一つ消える。
それこそ外様であり、劉表と組んで曹家の祖父を阻み、曹家の祖父に下っては痛打を与えた袁紹を引き合いに出すからこその重みがあるはずなのに。
私はあまりに申し訳なくて、頭を抱えそうになっていた。
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