五十六話:虎痴
夏真っ盛りの今日この頃。
曇りの日を選んでの模擬戦となり、焼けつくような感覚はない。
だというのに刻々と場は熱を帯びて行くのが、肌で感じられるようだ。
大勢の人間が集まり緊張が空気を伝播して辺りを包んでいる。
武器や防具が幾重にも鳴っていて、鎮まることがない。
「またすごいことをさせたな、長姫」
「私じゃないのよ、大兄」
「違うのか?」
大兄の誤解を否定したら、阿栄が重ねて確認してくる。
祖父たちが模擬戦を計画し、その見学に私は夏侯家の二人を誘った。
小妹は怖がったのでお留守番で、できれば私もそうしたかったけど、私のためだし、他人を誘ったからにはいかなきゃいけない。
「私は先日のお泊りと、その後の奉小とのことを話しただけよ」
「それで、この本格的な模擬戦?」
「櫓まで組んですごいよな」
ここは都の郊外で、大人数が集まって大丈夫な開けた土地。
そこに簡易の高層建築である櫓のみならず、簡易ながら砦が組まれている。
その外に甲乙の軍が陣を敷いて戦う準備をしていた。
今私たちがいる砦は見物用で、本番になると櫓に登って特等席から戦場を見下ろすことになるという。
(家で話してただけなのに、どうしてこうなったのかしら?)
本格的過ぎて私のほうが驚くしかない。
同時に、こんなことが当たり前にできる祖父たちだってことも、実感しなければいけなかった。
「ここだいぶうるさいけど、元仲大丈夫かな?」
阿栄が別口で見学に参加する友人を心配すると、大兄が興味を持った。
「元仲さまはうるさいのがお嫌いなのか?」
「確かに訪ねて行った時は静かだったわね。あれは妹君のためではなくて?」
「そうそう。普段から妹のために静かにしてるのが当たり前で、物音が嫌に気になるって」
妹を安静にするための環境に慣れたせいかしら。
同時に父親である子桓叔父さまからも母子ともに離れていたから、余計に静かだったことだろうと想像できる。
「なんだかわかるわね」
「確かに長姫の家も静かだもんな」
よくお見舞いに来てくれる大兄も頷く。
うちの場合は母が神経質なくらいなせいもあるし、父もわかっていて人呼んで騒ぐようなことをせずにいてくれている。
だから使用人たちも揃って静かな生活だ。
(ただ私は曹家にも行くし、夏侯家での集まりに参加もするのよね)
ごくたまに行くけれど、その時の楽しげな雰囲気嫌いじゃない。
それで慣れもているお蔭で喧騒を気にしないのだろう。
けど子桓叔父さまの行状を思えば元仲は慣れることさえなかった。
それで苦手になったとしたら、それは悲しい家庭環境に思える。
「あ! 長姫!」
ちょうど考えていた相手の声が聞こえて足を止める。
見れば元仲が嬉しそうに駆け寄って来ていた。
なんとなく寂しい様子を思い描いていたから、元仲の笑顔にはほっとする。
「来てくれて良かった」
そのまま私の手を取って、強引なほどに先を歩き始める。
困惑して、元仲と親しい阿栄を見ると当たり前のように答えが返った。
「子桓さまと一緒だったからじゃないか?」
「う…………」
図星らしい元仲が声を漏らす。
どうやら私を緩衝材にしようとしての笑顔だったようだ
そしてここで、下手に声を出して目立つなんてことはしない大兄の保身がすごいわね。
大兄を振り返って声をかけようとしたら、後ろに続いていた大兄と阿栄が揃って表情を変える。
その視線は私の向こうに投げかけられていた。
私が前を向いた瞬間、いつの間にか止まっていた元仲を追い越してさらに前へ出てしまう。
「きゃ…………!」
「失礼」
何かにぶつかった。
そう思ったけど、上から降る声で誰かに抱き留められたことがわかる。
相手は私を支えたまますぐさま膝を突いた。
「お怪我は?」
「いえ、失礼いたしました。…………許侯」
「長姫にお怪我がないようでしたら。どうぞ、曹丞相閣下がお待ちです。ご案内しましょう」
不愛想な巨漢の、その雄偉はなかなかいない。
だから想像がついた私の呼びかけに、否定はなし。
人にぶつかって驚く私に、元仲が囁きで謝罪する。
「すまない、長姫。声をかければ良かった」
「いえ、前を見ていなかったのは私だもの。けれど、ご不快な思いをさせてしまったかしら。どうしましょう」
「あぁ、あの方はあれで普通というか。普段よりも口数が多いくらいだから、別に怒ってはいないよ」
私たちが話しながら大きな背中の後を追っていると、いつの間にか周囲は許侯の部下らしき方々がしっかり固めていた。
あの方は東の海の知識にも残されているほどの方。
名は許褚、字は仲康。
虎痴という二つ名を持ち、由来は普段は鈍いが戦いとなれば虎の如く勇壮であるためだとか。
「なぁなぁ、見たか? 今の手の大きさ。長姫の頭、握り込めそうなくらいだ」
阿栄が楽しげに、何やら恐ろしい比較を口にする。
そんなことを言われても、なんとも言えないたとえすぎるわ。
「元仲さまは虎侯と親しいのですか?」
大兄も許侯については聞いているようで、二つ名からの敬称を口にする。
その勇猛さから敵をして、敬意を持って虎侯と呼ばれるそうだ。
さらには曹家の祖父の守りを一手に引き受けるほどの信頼厚い臣下。
曹家の祖父は何度か窮地を救われたという。
(曹家の祖父が小さく見える一因は、絶対あの方を信愛して側から放さないせいだわ)
さすがに親戚の集まりではいないので、私も初見。
けれど今日のような公式な場だといるようだ。
さらに知識から、許侯について探ると、あの方は何処までも曹家の祖父に忠義を貫き通すことがわかる。
その死に際しては血を吐くほど悲しんだとか。
(葬儀の礼儀として、大泣きすることはあっても血を吐くなんてよほどのことだわ)
不愛想で威圧感のある見た目の方だけれど、心根は情の深い方なのかもしれない。
そう自分を鼓舞して、私は元仲たちから離れて許侯の元へ近寄る。
「あの、許侯。先ほどは失礼をいたしました。あなたさまのお蔭で、憂いなくおじいさまにお会いできます」
お礼と共に相手の気を引く一言を交える。
これは家妓を観察して、使えると思った手法。
立ち振る舞いの優美さはもちろんなのだけれど、それ以上に言葉選びが耳に残るのだと気づいてから、さらに考えて至った見解だ。
だから許侯の情を向けられる、曹家の祖父のことをあえて口にした。
すると前だけを見ていた許侯が私を見下ろす。
「いえ…………」
短い一言でやはり愛想はない。
それでも下がっていた口元が確かに動いた。
口角が上を向いている。
どうやら知識のとおり、曹家の祖父に関しては並ならぬ忠義を持っていてくれたらしい。
この方は忠義を貫き曹家の皇帝に仕えて歳と共に亡くなる。
不穏な未来の人たちとばかり顔を合わせていたせいで、私も頬が緩む経歴の方だ。
「すごいな…………妹は以前許侯を見た時には泣いたのに」
「元仲さま、たぶんうちの妹も泣きます」
「つまり、あそこで笑える長姫が変なんだな」
なんだか私の血縁者たちが酷いわ。
阿栄は、後で覚えてなさいよ。
というか、ちゃんと模擬戦を見て学んでよね。
今一番不穏な未来を近く控えているのは阿栄なんですから!
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