五十四話:恋する視線
歴史に残る呉質は漢臣ではなく曹操に仕えた政治家だ。
後継者争いが起こると曹丕の側につきながら、曹植とも対立しないよう立ちまわったという。
その上で曹丕に数々の助言を与え、曹操に後継者として認めさせるよう動いたとか。
助言の中には、感動したように見せかけるため曹操を相手に嘘泣きをさせたとある。
(そ…………想像できない)
私は呉質こと行李どのが去った廊下を眺めて、自分の中にある知識に懐疑を抱いた。
確かにそうした小細工は子桓叔父さまに足りないところだ。
とは言え、それをしろと言ってやる人とも思えない。
けれど今日、こうして行李に隠れて宮中に侵入するというとんでもないことを成し遂げている。
その大胆なやり口は一種の説得力があった。
そこは子桓叔父さまも認めているところなのかもしれない。
(元より行李に入っての侵入は、子桓叔父さまがやらせたことだし。やれと言ってはい、なんて言いう人、他にいないと思うわ)
相手を驚かすという点では、嘘泣きも採用しそうな気がしてきた。
そして楊徳祖さまだ。
たぶんあの行李どのを捜してここまで来たのだろう。
東の海の向こうの知識にも侵入に気づいていたとある。
ただそれ故に、次も同じ行李を見て疑いを持つのだとか。
そして二度目は強行に中身を検めさせた。
けれど絹しか入っておらず、露見を察した上で仕掛けをさせた行李どのにしてやられている。
(そして曹家のおじいさまから、子建叔父さまを上げるために、あえて子桓叔父さまを貶めているのではないかと疑われる、か)
その後、さらに鶏肋からの察しの良さに警戒を強めて、微罪による処刑を進めた。
けれど楊徳祖さまはたぶんすでに警戒されていると思う。
あの方は漢臣だ。
それを曹家の祖父が見抜けないとも思えない。
単に、潮時として処分された可能性がある。
(そうよね、私でも子桓叔父さまが家督を得た時の次の行動はわかる。禅譲という言葉もまだない今だけど、おじいさまがわからないわけがないわ)
楊家は董卓が倒れた後の、奸臣による混迷の時期に皇帝を守り抜いた。
一種漢臣の中で象徴的な家柄だ。
その現当主を曹家の祖父が処断するのは、また象徴的な意味があるんだろう。
「はぁ…………」
思わず重い溜め息が漏れる。
子桓叔父さまと子建叔父さまを争わせるのは反対だ。
だからって殺されて欲しいかというとそんなことはない。
ただこれは、政治に関われない私がとやかくいう範囲を越えてる。
…………忘れよう。
きっと全ては楊徳祖さまの行いの積み重ね。
そしてそれはきっと私にも、いずれ訪れる報い。
肝に銘じておかなければ。
「長姫はすごいな」
声に振り向けば、突然手を握られる。
奉小だ。
「僕は儒の正道しか許さない姿勢にいつも違和感があった。正でなければ負でしかないという考え方が納得できず、他の答えを探して考え続けていたんだ」
えっと、これもお悩み相談かしら?
けれどそれにしては、なんだか目がキラキラしてる?
「だから実であれば儒の教えでも否定できない、事実であり認めるしかないと思っていた。ただ今回それもまた間違いだったと気づいた」
「あの、奉小?」
軽く握られた手を振ってみるけど放してくれない。
さらに声は熱っぽくなっていく。
「実は覆らない。けれど虚によって覆われることを今日、初めて教えられた」
「は、はぁ…………」
「あぁ、あの楊という人か。虚で実を覆う、なるほどなぁ」
大兄が納得して頷く。
どうやら奉小は私が楊徳祖さまの裏に気づいたことを褒めているようだ。
確かにあの方は虚実を使い分ける大人のいやらしさがあったわね。
(ただ私がわかったのは先を知ってただけで、こんなに感動されることでもないのだけれど)
そんな期待の目で見られても、正直困るわ。
「考え続けていたはずの僕はわからなかったのに、長姫はすごい。その才知は天賦だ」
「確かに寝込んでばかりなのに知っているように語ることが多くて、先見がすごい」
ちょっと大兄、余計なことを言わないで。
「ふふふ、お正月から元気になって、寝込むことがない分冴え渡るようですもの」
お正月に知識を得たからだけど、その時期だとわかってる小妹のほうがすごいわよ。
「長姫、今日は妙なことになったからまた今度やり直しをさせてほしい」
「え、そんな、気にしないでちょうだい」
「僕が気になる。今度また文を送る。どうか、その時には色よい返事を聞かせてほしい」
ぐいぐいくる奉小に、私は戸惑うしかない。
えっと、楊徳祖さまの裏に気づかなかったことがそんなに衝撃的だった…………というのは、なんだか違う気がするわ。
結局興奮ぎみな奉小は、帰路で別れるまで熱烈に私に話しかけ続けた。
「あれ、完全に長姫に惚れたな」
「はい?」
私を家まで送った大兄が、そんな呟きを漏らした。
そして聞き返す私に呆れたような顔を向ける。
「たぶん今日誘ったのは司馬家に張り合っただけだ。けど次の約束は奉小が望んで送ってくる」
「それは、そうだろうけど。何処が良かったの?」
「それを俺に聞くな。俺としては、苦労するぞと言ってやりたいくらいだった」
「それはどうも」
身内の気安さだろうけど、失礼しちゃうわね。
「やっぱり長姫が才媛と心から感動して、惹かれたのではないでしょうか」
小妹は頬の血色を良くして、満面の笑みを浮かべる。
「なんだか、私より楽しそうね」
「うふふ、私、恋というものを初めて目にしました。今までと全然お顔が違うのです」
本当に楽しげね。
そしてあの奉小の熱っぽい視線、あれが小妹曰く恋する視線だとか。
確かに温度が違うとは思っていたけれど、感動とどう違うか私にはわからない。
「まぁ、家格もいいし、末の息子だし。婿入り打診してみたらどうだ?」
「ちょっと、大兄。他人ごとだと思って、軽々しく言わないでちょうだい 」
「いや、悪い奴じゃなさそうだし。秦元明どのを斡旋されて嫌がってただろ。だったら先に決めて次を失くすのも手じゃないか?」
どうやら大兄は奉小ならと思って勧めているようだ。
話が合ってたみたいだし、そりゃ向こうが本気なら応援する気にもなるわね。
「うーん、でも秦元明さまも素敵な方ですよね。長姫を支えてくださりそうで。家格はなくとも、曹家のおじいさまのご養子ですから家の問題もないでしょうし」
そして小妹は元明推し。
あの方は悪い方ではないけど、結婚と思うとやっぱり年齢が…………
「まぁ、なんのお話ですか?」
「お待たせいたしました、さ、こちらへ」
そこに侍女と家妓がお湯を持ってやってきた。
私が家に戻ったら手洗いうがいをするので、用意してくれている。
もう水もぬるんでいる季節だから、温めなくていいと言うべきかしら。
けれど殺菌を考えてやっぱり一度沸騰させてもらっておくべきよね。
考えていると大兄と小妹は私を見ていた。
どうやら侍女と家妓への回答は私がするようだ。
「…………曹家の後継者、どちらに就くか?」
「「は!?」」
「「え?」」
侍女と家妓は驚き、大兄と小妹は疑問の声を上げる。
けれど奉小は子桓叔父さま紹介とは言え、家長の兄は子建叔父さま寄りだ。
元明は曹家の祖父至上のようだけれど、歴史を見れば子桓叔父さま寄り。
どちらかを選ぶとなるとどちらの勢力に組み込まれるかを考えないといけない。
「そう言うことになってしまうの。だから私はまだ答えたくはないのよ」
表面上はどちらもあり得る態で説明するけれど、歴史で言えば曹植は凋落する。
けれど争いの矛を引いた形の今ならまだ。
そう思いたかった。
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