五十三話:行李の中身
「どういうことだい、長姫?」
荀家の奉小は困惑して聞いてくるけれど、大兄は憤懣を吐き出すように言葉にした。
「俺たちのことはあからさまに無視していたんだ。武門の夏侯家なんて下とでも言いたいのか」
言われて奉小も思い返すことで気づいたようだ。
こういう嫌な感じはやられた側じゃないとわからないこともある。
小妹も意地悪をされていたのは感じていたらしく眉間が険しい。
「でもなんでそんなことをなさるのでしょう? 夏侯家とあの方は何かあったのでしょうか?」
「少なくとも、私は奉小を使って子桓叔父さまと子建叔父さまの代理戦争をさせようとしているように見えたわ」
「代理、戦争? そんな大げさな」
奉小は無視されもせず悪い印象がないため、大げさに聞こえたようだ。
「もし、私が奉小ではなく大哥を選んだら、あなたは負けたと思うでしょう? そう感じて将来大人になった時、仕事で顔を合わせる大哥と仲良くできる? 私と親しい大兄と遺恨なく付き合える?」
大人になれば思い出にもなるかもしれない。
けれど今のように自分のほうが優れていると他者から言われて自信をつけて、その結果思いどおりならなければ、傷つくのは奉小の自尊心だ。
それは母に思い敗れた丁正礼さまを見たからこそ想像がつく。
「曹家のおじいさまの部下として、本当に心を砕くなら、私たちに言うべきは結束の呼びかけではない?」
私たちの祖父や父は曹家の祖父の元に集まって力を尽した。
だからこそ安寧を望むのなら曹家の権勢を長く保つために次代に心構えを説くべきだと思う。
「だが、小妹が言うとおりあの方は、何故そんなことをする必要があるんだ?」
奉小は困惑したまま、分断を望む理由に首を傾げる。
「今の状況は、儒者であれば正しくないと見るからではない?」
儒家の出身である奉小はそれだけで理解したようだ。
皇帝という一番上よりも、曹家の祖父のほうが権力を握っている現状は、皇帝に仕える儒者にとっては間違いだろう。
けれど、曹家の祖父に仕える儒者にとっては、形だけでも皇帝をいただいて弁えている状態とも言える。
「実際に今の力ではこの乱世をどうにもできない方なのに…………」
奉小は理解して、ようやく呆れを言葉にした。
儒家思想の荀家の中で異端とも言える老荘思想だからこそ、実を重んじる奉小は、実のない皇帝にも重きを置かないようだ。
「そう考えると、子建さまのお名前を出したのもそうなのか?」
理解すれば奉小もわかる意地の悪い言葉選び。
子桓叔父さまに言われて私の所へやって来た奉小に、子建叔父さまを勧め、割り込ませるとどうなるか。
継承争いという上下の取り合いをした二人だ。
私の結婚話で同じことをし始めるに決まっている。
「せっかく表立って争わなくなってくださったのに。私を巻き込んで台なしにされるなんてさせるわけにはいかないわ」
「まぁ、だから長姫は怒って追い払ってしまわれたのね」
小妹も理解すると、私を過激に表現する。
曹家の血を引く夏侯家だからこそ、大兄も小妹も継嗣問題で争いがあることはわかっていた。
同時にそれが今沈静化していることも理解しているらしい。
「というか、何をしたんだ長姫?」
「べ、別に、何もしてないわよ」
「せっかくというくらい労を負ったんだろう?」
大兄が疑うように聞いてくるのをはぐらかすと、奉小も私の言葉尻を捕らえて聞く。
「あのお歌が効いただけではないのですか?」
そして純粋に、小妹が思い当たることを口にしてしまった。
知らない奉小に、大兄が袁紹とその子息を引き合いにした私の返事を教えてしまう。
「ぶふ!?」
すると思わぬところから吹きだす音が聞こえた。
見れば、楊徳祖さまが来た方向とは別の廊下に人がいる。
「あい、すまない。いや、楊徳祖がいるものだからつい気になって」
そう言って盗み聞きを悪びれもしない相手は、服装だけは整っている三十代くらいの男性。
けれど偉い方というには砕けた雰囲気があった。
「お名前を窺っても?」
「さて、行李とでも呼んでくれればいい」
それは物入れのことで、つまりは偽名ではないの?
ただ、その人物、袖や膝に植物の繊維がついている。
それこそ行李に使われる植物のような乾いた色だった。
さすがに怪しすぎて大兄と奉小が私と小妹を庇うように立つ。
その警戒に行李さんとやらは笑って腕を広げてみせた。
「それがしは曹兄弟の間を泳ぎまわる魚のような者。どちらを押し出して諍い合わせるなどというあくどいことはしない。誰かと違って、な」
胸を張って言うのだけれど、真面目な雰囲気が微塵もない。
私たちが子供だからというよりも、そういう性格の人のようだ。
「では、今ここに叔父さま方をお呼びいたしましょう」
「あ、それは待ってほしい。ちゃんと自分から会いに行くから」
その反応で私たちはより疑いの目を集中させた。
大兄は警戒しながら、楊徳祖さまが去った廊下を窺う。
「楊という方を知っている風だった。あちらはまだ遠くには行っていないはず」
「それは困る。本当にやめてくれ」
途端にずいっと距離を詰めると、奉小が毅然と睨みあげた。
「あまりにも怪しい。ここを朝廷と知っていて偽名を使うなんて不敬にすぎる」
「もちろんだとも。なんなら君たちよりもよく知っているからな」
嘘くさいけれど、こうしているなら本当に朝廷に関わる者なのかもしれない。
「ではせめて、お家のお名前だけでも。そうでなければ、お呼びかけもできませんわ」
小妹が邪気なく聞くけれど、同時に目は疑いを真っ直ぐに突きつけている。
「いやいや、名はそれがしに似合いのものでな。名にあって何せ騒がしいのはいつもお前だと言われるほどだ」
騒がしい? 騒ぐという意味の名前?
私はすぐに思いつかず、こそこそと声をかける。
「わかる? 騒擾なんて名前には使わないでしょうし」
「大声というだけうるさいって意味だけど名前?」
「大とつく名前か、いっそ声が高いで高氏?」
大兄と奉小もわからず首を捻ると、小妹も疑問を投げかける。
「行李と称する意味も何かあるのでしょうか?」
私たちが悩むさまを、行李とやらは面白そうに眺めていた。
(行李、行李、まさかそんなので知識に該当があるわけ…………あったわ)
私は自分のなかの知識を疑うけれど、確かに当該人物なら名前を言うわけにはいかない。
「あの、あなたは行李に質を求めますか? 重さを求めますか?」
「ほう…………これはすごい。いやぁ、なるほどなるほど。これはいかん。このような才女がいてはいつ露見してもおかしくない。思い出に浸るのは早々にやめて戻るとしよう」
行李を名乗る不審者は笑って捲し立てると、楊徳祖さまが向かったほうへ行こうとする。
そのまま沈黙が答えかと思っていると、こちらを振り返って足を止めた。
「そうそう、質問の答えであるが、どちらもそれがしにとっては切っても切れぬ重要ごと。故に答えられはしない」
自分の答えに満足したように、礼も取らず大股で去っていく。
あまりにも楊徳祖さまとは対照的。
けれどそんな人だからこそ、あの楊徳祖さまを陥れた者として、歴史に名前が残るのかもしれない。
(呉質、字は季重)
呉という文字の意味は大声で騒ぐことを原義とするとか。
呉季重は現在朝歌の県長で、ここにいることが知られれば職務放棄で罰される身の上だ。
そして子桓叔父さまのお友達にして、機転の利く方。
今日招いたのは子桓叔父さまであり、行李に入れて姿を見られないよう偽装したという。
その理由は、自らが後継者として危うい立場にあることを相談するため。
そして行李に潜んだ呉季重に、楊徳祖さまは気づいていたと歴史には残されている。
(もしかして楊徳祖さまがこちらにいたのも、あの方を捜して?)
どうやら私は、歴史的事件の起きた日に朝廷へ来てしまっていたようだ。
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