四十八話:知識の使い方
曹家の祖父から秦元明が送り込まれてきた。
対抗して私は親類を集めて、曹家の元仲、夏侯家の阿栄、大兄、小妹とお泊り会となっている。
まず日中は、私が家の者として接待役を務める…………はずだったんだけど。
「長江はどうどうと流れ、対岸が見えない。また急峻な曲折も汲々と、溢れる黄河よりも船には辛い場所。高く険しい山を越えることが難しいように、深く絶えない水の流れもまた、越えることが難しいのです」
元明は諸侯の間を遊び歩くと後の書物にも残されているけど、まさかその際に聞いた任地の話や光景をこうも語ってくれるとは思わなかった。
私たちはすっかり、見たこともない土地の話に夢中になっている。
(なんだかもう、佞臣だとか無能だとか、ただの当時のやっかみに思えてくるくらい、普通に子守を引き受けてくれるいい人じゃない)
元明の記述が載っていたのは魏略という書物らしい。
これは魏王朝末期から晋王朝初期に作られている。
ただ長く複写して伝わっていた三国志と違い、千五百年以上経ってから再編されたものだ。
私の知識にある内容は、疑い出せばいくらでも疑えるものであると、今さらながら気づく。
ただ魏略の一部は三国志に当時の資料として丸々添付されており、実在は確か。
それと同時に時代を生きた人の雑多な評とも言われるそうだ。
つまり歴史を記したにしては感情的。
だから表舞台から消えた後の元明については、その後全く生死さえ残されておらず、記録としては不備があった。
(ただただ無害で普通の人が、皇帝となる方に寵愛された。その末に王侯と同じくらいの財を築いたとなれば、嫉妬もされるわよね)
私たち年下にせがまれ、断り切れずまた話を始める姿は、正直父夏侯子林に通じる気弱さを感じる。
元明は優しさと同時に不器用さを併せ持つ人なのかもしれない。
(いえ、私接待役! 見てないでここは助け舟を出さなければ!)
私も楽しくてつい聞き役に回ってしまった。
「皆、喉は乾かない? 白湯を入れさせるわ。少し休憩をしましょう」
私の呼びかけに、言われてみればと聞きの姿勢を一斉に解く。
阿栄なんてすぐに立ち上がって伸びをし始めた。
それで元明から注目が逸れる。
元明は少しほっとして息を吐けたようだ。
けれど私が見ていることに気づいて静かに慌てる。
「少し庭を散策するのも、気分転換になるわよ、阿栄」
「もっと聞きたいからそこまではいいよ」
「阿栄、少しは謹んで。なんだか今日は浮かれてないかい?」
いとこ叔父の我儘に、元仲が窘める。
けど浮かれてるんじゃなくて、夏侯家だから気を抜いてるだけなのよね。
小妹も不思議がって、私に声を潜めて問いかけて来た。
「私には、いつもどおりな気がします」
「阿栄でも主君筋の曹家では気を使っていたのよ」
こっそり応じれば、大兄も聞き耳を立てていて、驚いた様子で阿栄を見る。
「その、俺、初陣どうだったかとか、聞きたくて…………」
「あぁ、なるほど。けれどその前に、やっぱり兵法書のほうを押さえていないと理解が及ばないのではないかと思う」
ばつが悪そうな阿栄に、元仲が今度は助言を与えた。
どうやら私の提案を受けて少しは勉強し始めているようだ。
「兵法書? そう言えば阿栄が最近孫子を読みだしたと聞いたな」
大兄が言えば、元明も応じる。
「孫子と言えば丞相閣下が注釈を書かれているのは目を通したかな?」
控えめな割りに、食いつきが早いわね。
この方、もしかしなくても曹家の祖父大好き?
疲れた様子だったのに自分から話に加わっているわ。
私は侍女に白湯を手配してもらいながら、皆を観察する。
室内に残った家妓には、家にある孫子兵法の書物を持ってくるよう指示もした。
「阿栄はどうして突然兵法書に? 今まで文字を読むのを嫌がっていましたよね」
小妹が知っているほど、勉強嫌いでいた阿栄。
文章作成能力はあるので、大人たちがしつこくやらせたせいで苦手意識が強くなった可能性はある。
子建叔父さまと同じで、才能はあっても文才には重きを置かない性格と言えた。
子建叔父さまは、詩作を楽しむことはなさるけれど、まだ子供の阿栄には楽しさがわからないのだろう。
さらには成人してすぐに死亡してしまうので、阿栄は詩文の楽しさ知らないまま。
「兵は鬼道なりって、どういうことか全くわからないけどな」
「だから、鬼道はまじないであって、詭道だって」
「阿栄、相手を欺くこと、計略を練ることの意味だよ。戦争をするにしても、まず見極めと準備が必要だっていう序論だ」
すでに孫子を学ぶ手伝いをしたのか、大兄が訂正すれば、続いて元仲も補足する。
ただそこ、孫子の兵法書の最初のほうじゃない?
小妹も首を傾げるけれど、女の子だから孫子に触れたことがないせいだろう。
私が知っているのは寝込んで暇な中、詩文の暗記に飽きた時に母が持ってきたから。
それも確か曹家の祖父が注釈を書いたからって家にあった兵法書を適当に。
「孫子は戦いとは何か、勝つ方法は何かを書になさった方よ。その示唆するところは多岐に渡って、剣戟を交えるだけが戦いではないとも述べられているわ」
「まぁ、長姫は兵法書もたしなまれているのですね」
「寝台にいるだけだと一日が長いもの。寝物語代わりに読んでもらうと、いつの間にか覚えていたりするのよ」
知識には睡眠学習とあるから、きっと有効な方法なのだろう。
「君は最初の説明からよりも、まず地勢と応じた戦術を説いた編から学んだほうが合っているかもしれないね」
「自国領土の散地、敵国領土の軽地、争地…………」
大兄が指折り数えるのは、確か九地という編に書かれた、戦において重要な場所の分類。
私よりも年上だけど、大兄との学習内容に開きはそこまでない。
逆に覚えてない、学習から逃げぎみだった阿栄のほうが年上なのにわかってない顔だ。
「散地では戦ってはならない、軽地では立ち止まってはならない、争地では手に入れたならば攻め進んではならない」
応じて説明を加える元仲は、すでに成人しており、危なげなく言葉にする。
「兵法家というものがまだいない時代に、孫子は神に頼らず自らの知略で争いに勝つ方法を見出し、後世に残した方でね。その教えは今も戦場で確かに使えるんだよ。孫子が兵法を編み出さなければ、今も壇を築いて神に祈るだけで戦地に向かったかもしれない」
わからず投げ出しそうになる阿栄に、元明が有用性を説く。
どうやら今日会ったばかりでも、すでに阿栄の性格を掴んだらしい。
「えっと…………策謀を巡らせなければ脱せないのが囲地」
「そして最後に死地。これは決死の覚悟で攻勢に出なければ全滅してしまう場面のことだ」
大兄は言葉が怪しく、自分の記憶をたどるだけで精いっぱいだ。
比べて元仲は阿栄に教えるよう言葉を選ぶ余裕がある。
普通に考えると年齢のせいだけれど、上昇志向な大兄は悔しそうだ。
大兄の表情に気づいて、元明も気遣う視線を向ける。
すると元仲も気づいて、年下が張り合っていたことを察して呆れを浮かべた。
(あら、知識が…………これはまずいわね)
将来、皇帝となった元仲は大兄を遠ざける。
発端は妃だけれどそれ以外にも理由があるようだ。
どうやら大兄の名声欲、声望を求める姿勢も好きになれず、姑息だと批判するようになる。
(親戚の私からすれば、それが大兄のやる気、向上心なんだけれど)
ただ大人になった後、元仲にはそれが虚栄心に見えるようだ。
確かに子供ならまだしも、いい大人が名声にガツガツしているのは見苦しさがあるかもしれない。
「まぁ、まぁ、お持ちする前に皆さま熱心であられること。こちらには将来有望な方々がお揃いですものね。幼くとも向上心が押さえられないほどとは。きっと誰もが丈夫となってお国を支えてくれることでしょう」
書を持ってきた家妓が、室内に流れた微妙な空気を、澄んだ声と笑顔で塗り替える。
すると呆れていた元仲もちょっと見直す様子が出た。
まだ向上心という言い換えで、変わる程度のことだったようだ。
先を知っているせいで、私のほうが固執してしまっているのかもしれない。
知識の使い方は、もっと考えて採用しないといけない気がする。
(何より、母上の選んだ家妓、すごい。今の一瞬で問題を見抜いた?)
私は改めて家妓の所作や言葉選びを学ぼうと心がける。
将来をわかっているからこそ、私が先に言えたはずなのだ。
けれど今までいなかったのに、家妓は的確だった。
これは女性としての目標を見つけた気がする。
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